反日デモ、90都市以上に…破壊行為止まらず
【広州=吉田健一、北京=大木聖馬】日本政府の尖閣諸島国有化に反対する中国各地の抗議デモは、16日もさらに拡大し、90都市以上で行われた。一部の地域では日本料理店や日本車が破壊されるなど暴徒化したが、大量の警官隊が各地で投入され、中国当局はデモ過激化の抑え込みに全力を挙げている。
広州では同日午前、数千人のデモ隊が、日本総領事館が入るホテル「花園酒店」周辺に集結。沿道の市民も加わり、1万人以上に膨れあがった。当局は警官隊約3000人を配備して警戒にあたったが、デモ隊の一部が暴徒化して警戒線を突破し、ホテル正面玄関を約1時間半にわたって占拠した。暴徒はホテル内に乱入、日本料理店の窓ガラスをイスで割るなど破壊行為に及び、ホテルは営業不能状態に陥った。
深センでは同日午前、約3000人のデモ隊が行進の途中、警察の敷いた規制線を乗り越えようとして警官隊ともみ合いになった。警官隊は催涙弾30発以上を発射して鎮圧にかかり、一部の暴徒を拘束した。デモ隊はその後、深セン市共産党委員会の入る建物に押しかけ、午前中に拘束されたデモ参加者の釈放を求めて警官隊と衝突。警官隊は放水器や催涙弾、催涙スプレーを使用して制圧を図り、複数の負傷者が出た。
(2012年9月16日21時47分 読売新聞)
暴徒乱入、無言で破壊・放火…工場再起不能(読売新聞) - goo ニュース
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中国各地で排日暴動が起こっているが、あたかも満州事変が勃発した頃の中国国内の状況と同じ様相を呈している。清朝が倒れ中華民国が成立し第一代総統の袁世凱は、専制政治を行い孫文らの革命派と対立、以来中国国内は各地に軍閥が割拠し分裂寸前の状況であった。第一次世界大戦の勃発により日本は中国大陸に出兵し、青島及び山東半島を占領した、1915年(大正4年)、日本は袁世凱政府に「21か条要求」を最後通牒もって承認させた。
この対支21か条要求は、中国においては日本の帝国主義政策の一端を示したものとして受け取られ、爾来、中国各地で排日抗日の組織的高まりへと発展した。尖閣諸島の国有化に反発した今回の反日デモは、満州事変勃発時の様相を呈している。「尖閣諸島の国有化」=「21か条要求」ととらえた排日活動を活発化させている。当時も今も、中国側は国内を愛国抗日で統一する具として排日行動を激化させているものと観察される。
警備部隊はデモ隊の暴徒化を阻止せず、やり過ごすことにより“日貨排斥”により日本経済にダメージを与え日本を屈服させる作戦を展開している可能性がある。中国は国外の華人と呼応して武力対立に至る前に、日本に大幅な譲歩を迫るためるの経済戦、政治戦、宣伝戦、及び心理戦を展開しているものと観察される。
満洲事変の概要
満州事変は、1931年(昭和6年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との武力紛争である。宣戦布告をしていないので戦争でなく、事変とした。この戦闘で関東軍はわずか5ヶ月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。満洲国の建国により中国市場に関心を持つアメリカら欧米列強との対立も深刻化した。以後、1945年8月まで中国国内で日中両軍が戦闘を繰り広げた。
事変勃発の背景
満州事変は1931年(昭和6年)に突発的に起こったのでなく、その遠因は遠く日露戦争にさかのぼる。特に第一次大戦語の世界情勢が大きく影響している。19世紀は抵抗主義の時代で欧米列強は競って植民地の獲得、領土の拡張を企図する情勢となった。その渦中において行われた日露戦争では米国は日本を物心両面にわたり支援し日本の勝利に大きく貢献した。
しかしそれはその極東政策に応じた行動であり、ひとたび日本の戦勝が、満州(中国東北部)に権益を獲得して東アジアの一大勢力となる可能性が生ずるに及び、従来の協力的政策は徐々に変わり対立と発展するようになった。「ハリマン」による満鉄買収計画、満州銀行独立問題及び4カ国借款団成立、錦愛鉄道問題等をもって日本へ圧迫を加えるようになった。
1914年勃発した第一次世界大戦でアメリカはヨーロッパ戦線の対応に追われ対日圧迫が下火になったが、大戦の終結とともに「ヴェルサイユ体制」の確立を見るに至り、専制国家の崩壊、民族自決主義に基づく新国家の成立、国際連盟の成立等が実現した。戦後の平和気運の高まりや世界的経済不況の影響から軍縮気運をもたらしワシントン条約、日英同盟の廃棄、ロンドン条約の締結をへて、日本の軍備は縮小され、経済面だけでなく国防上においても不安感を増大さることになった。
日露戦争の結果、ロシアが1898年(明治31年)以来満州において」獲得していた、関東州の租借権、南満州鉄道の所有権とこれに付帯する権利及び駐兵権などポーツマス条約及び日支善後協約により継承することになった。以来日本は、満州に対する欧米列強の経済的進出を適宜排除しつつ、自らの権益の確保拡充につとめた。また、満州の地は広大肥沃であり、農林鉱物資源も豊富であった。そして、日本軍の南満州における駐兵による治安の確保は、動乱が相次ぐ中国本土・・・・万里の長城以南の地・・・・と隔絶した安住楽土として、朝鮮や中国本土から移住するもの年々100万人を超え、満州事変直前には、その人口は日露戦争直後の2倍の3400万人に達する状況であった。
他方、中国人の世界はどうであったか。1912年(明治45年)2月、約300年続いた清朝は、民族・民権・民生を掲げる「三民主義」を奉じた辛亥革命によって倒れ、中華民国が成立した。この革命により第一代総統に就任した袁世凱は、専制政治を行い孫文らの革命派と対立、以来中国国内は各地に軍閥が割拠し分裂寸前の状況になった。1914年、第一次世界大戦の勃発により日本は中国大陸に出兵し、青島及び山東半島を占領した。1915年(大正4年)、日本は袁世凱政府に「21か条要求」を最後通牒もって承認させた。この対支21か条要求は、中国においては日本の帝国主義政策の一端を示したものとして受け取られ、爾来、中国各地で排日抗日の組織的高まりへと発展した。
しかもその排日政策は中国における国家統一の具に供されたのである。遂には、旅順大連の回収及び南満州鉄道の奪回が叫ばれるに至り、中国における排日貨運動は全土に拡大し止まるところを知らず、特に満州においては万宝山事件(1931年7月、昭和6年7月)をはじめとする在満朝鮮人に対する迫害、中村大尉虐殺事件(1931年、昭和6年7月26日)が発生し、勢いの赴くところ満州事変へ拡大した。
中国人にとって当時の中国東北部はどのような地域であったかというと、中国にとっての満州は関外(万里の長城の外)の地として、中国の統一の観点からは第二義的な地域であった。軍閥の代表格である張作霖がこの地域の実権を掌握し、日本との折衝に当たっていた。しかし中国本土へ進出する野望を持つ張作霖は,まじめに日本軍と折衝することなく、かえって反日・抗日政策を強め、20数万の軍隊を擁し、逐次、在満日本人の居住権、商租権を脅かすとともに、各種の積極的な妨害工作を行うようになった。
徐々に北京に進出した張作霖は、蒋介石の北伐軍との戦いに敗れ、奉天に帰る途上、1928年(昭和3年)6月4日、奉天駅南方で列車もろとも爆殺された。この事件の背景には頃関東軍の板垣、石原のコンビが「国運転換の根本国策たる満蒙問題解決案」を策定し、積極的方策を推進していた。満州事変勃発以降、昭和20年8月の終戦まで、中国各地で国民党の蒋介石軍や共産党の抗日ゲリラとの戦闘が行われた。
日本軍との戦闘で占領、破壊された中国の各地区で、燎原の火のごとく、排日行動が激化することを予期しておかねばならない。中国各地のデモは参加者の年代、携行するプラカード、ビラ、服装、行動のパターンが似たようにみえるのは、共産党や政府の暗黙または半ば公然たる唆しを受けたものと観察される。これを、たとえてみれば反日行動は、床に撒かれたガソリンのようなもので、日本が中国側の挑発行動に引っかかり手出しをすればマッチを擦って点火するような状況といえる。
排日デモが発生した都市は、いずれも日本軍が作戦行動を展開したところである。
中国共産党や政府が国内統一のため煽ったデモなのであろう。国の内外に領有
権と実行支配をしていることをアピールするとともに、日本の国有化決定に対抗して
一挙に事態を決着させる という決断を下したのではないかと観察される。
2012年9月16日(日曜日)読売新聞朝刊1面
1945年8月までの中国戦線の推移
下記に1945年8月までの中国戦線の主な戦いを列挙した。日本軍の進攻で被害を受けた土地の住民は、政治的、経済的及び軍事的に優位な地位を得たので華夷秩序で下位に位置する日本に対し報復したい衝動に駆られていても不思議ではない。日中の力関係は100年を経て攻守転換し、今や日本が中国の攻撃を受ける側になったようだ。
中国人は対日優越意識を回復したであろうから
日本軍の進攻で被害を受けた土地で
対日報復暴動が激化しても不思議ではない
9月18日は抗日戦激化へ転換、特別の日
1931年(昭和6年)
9月18日 満州事変勃発
10月 8日 錦州の張学良軍を爆撃
11月18日 チチハル入城
1932年(昭和7年)
1月28日 上海事変勃発
3月 1日 満州国建国宣言
9月15日 満州国承認、日満議定書調印
1933年(昭和8年)
5月31日 タンクウ停戦協定
1936年(昭和11年)
2月12日 西安事件で逮捕された蒋介石「連共抗日」へ転換
中国各地で蒋介石軍及び共産党ゲリラとの戦闘激化へ
1937年(昭和12年)
7月 7日 盧溝橋事件(第2次北支事変)
8月 9日 大山中尉事件から端を発し海軍陸戦隊(4千)と中国軍(5万)と交戦
8月14日 第2次上海事変
12月13日 南京占領
12月14日 中華民国臨時政府、北京に発足
多数の犠牲者を出した南京攻略戦、中国人は恨み骨髄か・・・・・。
広島は原爆投下で約17万人が犠牲になったが、旧式装備の日本軍が
殺傷したのは数万人が精一杯。30万人の虐殺が可能な能力があれば
中国戦線で苦戦することなく、圧勝したであろう。それにしても犠牲者の
数が多い。中国人が恨んでいることも理解できる。
1938年(昭和13年)
1月16日 近衛首相「国民政府を相手にせず」声明
3月28日 中華民国維新政府南京に成立
4月 徐州会戦始まる
5月19日 徐州占領
7月12日 張鼓峰事件
10月21日 広東占領
10月27日 武漢三鎮完全占領
1939年(昭和14年)
2月10日 海南島奇襲上陸
5月11日 ノモンハン事件始まる
5月~ 五台山作戦、晋東作戦、晋南作戦
9月15日 日ソ停戦協定成立
10月 9日 汪兆銘新中国建国声明
1940年(昭和15年)
7月24日 陸軍、成都を初空襲
7月29日 海軍、貴陽を連続爆撃
8月 百団大戦(中国軍50個師団の抵抗)
9月 5日 江北新4軍掃討作戦開始
10月13日 海軍、昆明を爆撃
11月25日 湖北第5戦区に対する総攻撃開始
11月30日 日華基本条約調印
1941年(昭和16年)
4月25日 福州に入城
6月18日 海軍、蘭州及び西安を爆撃
7月 2日 関特演決定発動
7月26日 米英対日資産凍結
8月25日 江南第3戦区に対し反撃作戦開始
12月 1日 御前会議、対米開戦決定
12月 2日 日米英開戦、大東亜戦争始まる
12月25日 香港陥落
1942年(昭和17年)
1月 4日 長沙完全占領
1月 9日 汪兆銘の国民政府、米英に宣戦布告
香港占領地総督部設置
2月21日 広州湾仏租界地へ進駐
3月 8日 江南進攻作戦開始
6月 1日 南支軍、徒化鳳院占領
6月 5日 南支軍、オルドス作戦開始
6月24日 麗水占領
6月25日 山西、陵川占領
7月12日 温州占領
8月 1日 遂昌占領
10月20日 山西で掃共作戦開始
11月 2日 桂林攻略
12月30日 大別山作戦開始
1943年(昭和18年)
2月21日 広州湾、仏租界へ進駐
3月 8日 江南進攻作戦開始
3月23日 洞庭湖北方及び江蘇地区作戦完了
4月26日 陸軍機、雲南飛行場を攻撃
5月 8日 中支安郷占領
7月30日 北支軍、十八夏太行作戦開始
9月10日 天津、イタリア租界に進駐
10月18日 怒河西岸の蒋介石軍を包囲
12月 3日 常徳占領
1944年(昭和19年)
1月24日 一号作戦(京漢等打通作戦)下令
4月17日 京漢打通作戦開始
4月19日 鄭州占領
5月 1日 許昌占領
5月 9日 京漢打通成る
6月18日 長沙占領
6月26日 衡陽飛行場占領
8月27日 麗水を攻略
9月 9日 温州を攻略
10月 4日 福州占領
11月10日 桂林及び柳州攻略
1945年(昭和20年)
3月22日 老河口作戦開始
8月14日 日本無条件降伏、終戦詔書発布
8月15日 終戦詔書の玉音放送
1930年~1945年に10歳代、20歳代の中国人は、現在、80歳代、90歳代で生存して
いる者もいるはずである。この世代の孫に相当する年代の若者が、デモ・暴動に参加している。
中国社会には、祖父母のあだ討ち、弱くなった日本を虐めたい衝動に駆られやすい心理的風
土があるのではないか。チョットした刺激で武力対決が生起する可能性がある。
尖閣諸島は、日本が1895年当時、中国が支配した形跡が無いから領土に編入したと主張
している。これに対し中国側は1895年の日清講和条約調印後に日本軍が台湾を征伐し、占
領、日本領に組み入れた以上、台湾の付属島嶼である尖閣諸島は古来から台湾(中国)のも
のと とらえているであろうことも理解する必要がある。
日清戦争の経過、台湾領有については、下記を参照してください。
(参照) 尖閣問題、アメリカの“本音”か「日本は大幅に譲歩せよ」、中国の“やる気”を軽視するな内向きの日本 2012-09-16 09:00:00