スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【霊学的イエス論(16)】「神の国」とは何か(2)

2010-10-08 00:44:59 | 高森光季>イエス論・キリスト教論
◆神の国とは高次の霊的秩序

 イエスは「神の国に入るなんぞはそんなに簡単にできないぞ」と言った。また「俺たちの病気治療が成功している時、神の国は来ているぞ」「いや、神の国はすでに地上に拡がっている」と言った。さらに「神の国は金持ちや権力者のものではなく弱者・貧者のものだ」とも言った。

 改めて「神の国」の原義に戻れば、それは「神の王支配」、もっとストレートに言えば、「神の秩序」ということである。神の摂理が直接支配する状態ということである。
 スピリチュアリズムふうに読み替えれば、これは「高次の霊的秩序」ということになる。
 我田引水だと言われるかもしれないが、そう読み替えると、なぜ「入る」ことは絶望的に不可能だが、「来る」ことが望ましいのか、はっきりする。人間は簡単に高次霊界には入れないのだ。しかし、高次霊界の影響は地上にあまねくあり、それをより大きくすることが必要なのだ。

 人間は高次霊界に入ることができない。未熟であり粗雑であるからだ。入るためには、我欲を捨て、物欲を離れ、高度に道徳的な存在にならなければならない。古来あまたの宗教が説いてきたことである(仏教もそうである)。
 日本の霊的達人である本山博先生は、ヨーガによって高度な霊界である「アストラル界、カラーナ界、プルシャ界」に合一することを説いているが、各界間の移行の際には自己否定がなければならず、特に下から上の世界へ行くには非常に厳しい自己否定が不可欠だとしている。
 それこそ「目の一つ」「手の一つ」くらい切り捨てる覚悟がないと無理なのである。(まあ、機械を利用した体脱体験によって高次霊界を訪問できると主張する人々もいるが、それはちょっと置いておく。)
 スピリチュアリズムでは、そんなに無理やり入ろうとしてはいけませんというのが基本的な態度である。地上の生を何度か繰り返し、魂が成長したら、一つ上の段階に行く。そこでまた繰り返し生を送り……と緩やかな成長進化を主張している。ヨーガや密教や神智学などは、それを一挙に進めようとするものと言えるのだろうが、そのあたりは今は論じない。
 イエスが「みんな神の国に入るんだとごりごりしているけど、そんなことは無理だよ」と言うのは、ごく当たり前のことである。

 だが高次の霊的秩序がこの世にもたらされることは可能だ。
 それを最も鮮やかに示すのが、霊的治療の実現の瞬間である。そこでは「苦しむ人を癒したい」という願いに、人は一心になる。我欲も物欲もなく、ただ奉仕の思いがあるだけである。そしてそこに高級霊の助力が降りる。
 イエスが「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒すんだ。それが俺の仕事だ」と宣言したのは、そのゆえである。さらに、前にも引いたルカの記事。派遣された70人の弟子が治療が成功したのを喜びながら戻ってくると、イエスは感動に震えて言った。「ああ、父よ、あなたを賞め讃えます。あなたのご意志が実現したのです」(ルカ10:17-21)。
 霊的治療は、癒し手の「高きものへの信仰」と「人への奉仕の熱情」によって生まれ、癒された側に「高きものが実在するという確信」「高きものと奉仕人への感謝」を与える。これこそ「高次の霊的秩序の顕現」である。

 しかし、高次の霊的秩序の影響力は、そこに限られるものではない。「種から実がなり、収穫がある」のも、「辛子の小さな種が、鳥たちが巣を作れるほどに大きく育つ」のも、全宇宙を貫く霊的秩序の顕現なのだ。地上に生命が生き、人間が生きていけるのも、高級神霊(≒神)の計らいゆえなのだ。
 「父の国は地上に広がっている。そして、人々はそれを見ないのである」「神の王国は目に見える形で来るものではない、それはあなたがたの間にあるのだ」というのは、高次の霊的秩序はこの世をも満たしているということだ。この世のすべての現象は、高級神霊の守護と差配によって(直接介入ではない)成り立っているのだ。

 では、「高次の霊的秩序」は弱者・貧者のためのものなのか。
 ここにイエスのきわめて過激な思想が見て取れる。それは、「一切の地上的報酬の否定」であり、「自己否定と他者への奉仕」である。
 前に「現世的価値の否定」ということについて述べた。この点において、イエスは異常にまで過激である。一切の見返りを受けてはならない。地上で報われることがあってはならない。金持ちや権力者は、地上で見返りを受けているので、「高次の霊的秩序」には適合しない。貧しく、人から蔑まれる存在であることが、むしろ必要なのだ。
 さらに、奉仕する存在にならなければいけない。
 「偉大になりたいと思う者は、仕える者にならなければいけない。第一になりたい者は、万人の奴隷でなければいけない。」(マルコ10:42-44)、
 「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。」(ルカ14:8-11)
 「お前たちも、命じられたことすべてを行なった時は、『わたしたちは取るに足りない召使いです。自分の義務を行なったまでです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)

 さらにこの先には、あの「赦し」の思想がある。
 「右の頬を殴られたらもう一方を差し出せ」「下着を盗ろうとする奴には上着もくれてやれ」「求める者には与えろ」(マタイ5:38-40,42、ルカ6:29-30)
 「敵を愛せ」「虐待する者のために祈れ」(マタイ5:44、ルカ6:27-28)
 これは愛とか寛容といった甘っちょろいものではない。もっと徹底した自己否定と他者奉仕である。こんなことはまずできるものではない。
 私はイエスがおそらく言っただろうが後世には残らなかった言葉が、確かに一つあると思う。それは、「殺すならむしろ殺されろ」である。
 赦しなんぞではない。徹底した自己否定である。過激にそこまでやった時、初めて人は「高次の霊的秩序」つまり「神の国」を体現できるのだ。そして、おそらくそれを実現した者だけが、神の国に入れるのだ。殺すくらいなら殺される方を選ぶことが、神の国への道なのだ。

 そんなことは人間にはできはしない。イエスだって、24時間100%それをやったわけではない。別に差し支えない時は、普通の我や欲を持った人間として振る舞った。だが、彼は基本的に、過激にそれをめざした。あの無残な刑死の基底には、こうした現世否定・自己否定があった(それだけではないが)。

◆イエスと他界

 それは歪曲だ、イエスはこの世を超えた「霊界」などについては語っていない、と言われるかもしれない。だが、そうでもない。
 他界、つまり天使たちの住む天界や死後の魂が赴く世界としての「神の国」という表現もある。
 「大勢の者が東から西からやって来て、アブラハム、イサク、ヤコブと共に天の王国での食卓に着くだろう。しかしあなた方は外の闇に投げ出されるだろう。そこには嘆きと歯ぎしりとがあるだろう」。(マタイ8:11-12、ルカ13:28-29)
 裁きの後、異邦人(?)が神の国に招かれ、お前ら自称ユダヤ教正統派が外に放り出されるぞ、ということだろう。先に引いた「律法学者より徴税人や売春婦のほうが先に神の王国に入る」という発言と同趣旨だが、ここには明らかに死後の裁きというイメージがある。
 「女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネより偉大な者は現われなかった。しかし、天の王国で最も小さな者でも、彼よりは偉大だ。」(マタイ11:11、ルカ7:28)
 最も偉大な人間よりも偉大な者しかいない世界。これは「天使たちの国」=高級霊界である。そういった存在に比べれば、人間は卑小な存在である。

 前に引用した「ラザロと金持ちの死後」の話もある。これはルカだけの特殊記事で、イエス直説かどうかは疑わしいけれども、似たようなことを言ったかもしれない。
 「毎日贅沢に暮らしていた金持ちはハデス(地獄)へ行き、皮膚病持ちの乞食ラザロは『アブラハムの懐』に行った。金持ちは叫んで懇願した。『ラザロをこちらに派遣して、指に水をつけてわたしの舌を冷やすようにさせてください』。しかしアブラハムは言った。『お前は一生の間に自分の良いものを受け、ラザロは同様に悪いものを受けたことを思い出しなさい』」。(ルカ16:19-25)
 「アブラハムの懐」は天国に似た他界であり、「ハデス」は冥府である。人類に普遍の「天国と地獄」がここに描かれており、そこに死者は赴くのである。
 イエスは「ゲヘナ」について何度も言及している。「目がつまずかせるなら」もそうだし、こんな言い方もある。
 「体を殺しても、魂を殺すことのできない者たちを恐れるな。むしろ、魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方〔神〕を恐れよ」(マタイ10:28、ルカ12:4-5)
 体と魂は別だと言っている。そして人間は人間の体を殺すことはできるが魂を殺すことはできないと言っている。これは当然、死後存続を認めていることになる。
 「死者を葬るのは死者に任せろ」という言葉もある(マタイ8:21、ルカ9:60)。スピリチュアリズムから見ればこれは当たり前の話である。死者の魂のケアをしてくれるのは、霊界にいる存在(類魂や守護霊)である。基本的に現世の人間がどうこうすることではない。

 もう一つ、イエスが「死後存続」について語っているところがある。例の「復活問答」である。
 パリサイ派は、メシアがやってきて審判を行なう際には、死者たちは復活して(墓から起き上がって)審判に与るとしたが、サドカイ派はそんなものはないとした(正統ユダヤ教は現世主義だった)。で、サドカイ派が、イエスを試してやろうとして質問に来た。「七人の兄弟と次々に結婚・死別を繰り返した女は、復活の時は誰の妻になるのでしょう」。まあ、律法や神学をあれこれするのが好きな人たちの好みそうな問題だ。それについてイエスはこう言った。
 「復活というのはな、結婚がどうこうなんて関係ないんだよ。みな天使のようになることだよ」(マルコ12:25、マタイ22:30、ルカ20:35)
 この記述にうろたえたのか、マルコはこの後「神は死者の神ではなく生者の神なのだ」というわけのわからない記述を加えている。そしてそのわけのわからなさを解釈したルカは、面白い一句を付け加えた。「すべての者が神にとっては生きているのだから」。死者なんぞはいないんだ、あっちで生きているんだ、と。
 イエスは復活がメシア来臨の時に起こるとは言っていない(受難物語をある程度真実とすれば、「俺は復活してメシアとして来るぞ」と予言したことはある)。
 これは死者は神の国へ行って天使のようになるぞ、と言っているわけである(ただし「正しい死者」だけかもしれない)。ついでに言えば、これは「肉体の復活」の否定である。キリスト教はイエスのこの発言を無視して、パリサイ派の復活論(肉体の復活)を受け継いだのである。

◆霊界を知っていた

 これはイエスが当時の一般的見解を踏襲して「死後世界」「天国と地獄」について言ったのではない。イエスは、「高級霊界へ行っていた」。
 前に、イエスはバプテスマのヨハネのもとで苦行をし、それによって霊的能力をさらに安定化・強力化させたのではないかと述べた。そしてそれは「脱魂型」の他界探究だったのではないかと。
 もちろんイエスは後の霊的現象の秀逸さから見て幼い頃から霊的能力を持っていたと推定できる。霊的存在(天使)を見、言葉を交わすこともあっただろう。彼らに導かれて「天使の世界」を訪れたこともあっただろう。だが、そうした「自然な発現」は、隠者たちやヨハネに指導されることで、さらに強化され、鍛錬されなければならかったし、実際そうされた。

 『トマスによる福音書』というものがある。1945年にエジプトのナグ・ハマディで農夫によって発見された文書の中にあった、コプト語の「イエス語録」である(『トマスによる福音書』なる書物があったということは古くから知られていた)。
 これをめぐっては盛んに論争が繰り広げられている。共観福音書を剽窃し、それに独自の宗教思想を加えたものだとする見方もあれば、「Q資料」と同様のかなり古いイエス語録を伝えるものだとする見方もある。前者は欧州で強く、また護教論者がこちらを採るのは当然。後者は米国で強く、リベラル派(?)が多く支持する。詳しくはクロッペンボルグ他/新免貢訳『Q資料・トマス福音書 本文と解説』日本基督教団出版局などを参照されたい。また、以下の引用は同書による。
 この『語録』には、共観福音書には見られないイエスの発言が多く収められている。そして、そこには「一見、わけのわからない」神秘的な言葉もある。

 「誰でもこれらの言葉の解釈を発見する者は死を味わうことはないであろう。」(1)

 「求める者には、見いだすまでは求めることを止めさせてはならない。人は見いだす時、心穏やかならぬであろう。人は心穏やかならぬ時、驚嘆し、そして、万物を支配するであろう。」(2)

 「御国はあなたがたの内にあり、また、それはあなたがたの外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るならば、そのときにはあなたがたは知られるであろうし、また、あなたがたが生ける父の子たちであることをあなたがたは知るであろう。しかし、もしあなたがたがあなたがた自身を知らないならば、あなたがたは貧困にとどまるであろうし、また、あなたがたは貧困なのである。」(3:3-5)

 「あなたがたが光にある時、あなたがたは何をするのであろうか。あなたがたが一つであった日に、あなたがたは二つになったのである。しかしあなたがたが二つになる時、あなたがたは何をするのであろうか。」(11:3b-4)

 「初めのあるところに、終わりがあるであろう。初めに立つ者は幸いである。すなわち、その者は終わりを知るであろうし、また、死を味わうことはないであろう。」(17:2b-3)

 「もし肉が霊の故に生じたのであれば、それは一つの奇跡であるが、しかし、もし霊が身体の故に生じたのであれば、それは奇跡中の奇跡である。しかしそれでも私は、いかにしてこの大いなる富がこの貧困の中に住むに至ったかに驚嘆している。」(29)

 「もし彼らが『あなたがたはどこから来たのであるか』とあなたがたに言えば、『私たちは、光から来たのである。光が自分で生じ、自らを立たせ、彼らの像において現われた所から来たのである』と彼らに言いなさい。〔中略〕もし彼らが『あなたがたの中にあるあなたがたの父の証拠は何であるのか』とあなたがたに尋ねれば、『それは運動であり、安息である』と彼らに言いなさい。」(50:1,3)

 「あなたがたがあなたがたの似像を見る時、あなたがたは喜んでいる。しかし、あなたがたが、あなたがたよりも前に生まれ、死にもしないし見えるようにもならないあなたがたの像を見る時、どれくらいあなたがたは耐えることであろうか。」(84)

 「魂に依存している肉体に災いあれ。肉体に依存している魂に災いあれ。」(112)

 こういった神秘主義的言説を、グノーシスの捏造だとする意見も多い。しかし、そうではなかろう。というよりイエスとグノーシスを截然と分けることは不可能である。共に「霊的世界の真理」を伝えているのだから。
 これらの言葉は、一見支離滅裂だが、霊的に解釈すればきわめて論理的なものである(読解はここではしないが、スピリチュアリストならかなり察しはつくはずだ)。
 スピリチュアリズムの霊信の中に、「イエスはもっとたくさんのことを言ったのだが、そのほとんどは残らなかった」と伝えるものがある(インペレーター、シルバー・バーチ、マイヤーズ霊)。それは当たり前と言えば当たり前のことだが、特に、彼が霊的世界(神の国)のことについて述べたことは、おそらく当時の人々にはほとんど理解できなかったために残されず、わずかに残っているのが、こうした「一見グノーシス」のような神秘的な言葉であるのではなかろうか。
 イエスは「天使たちの国」を知っていた。そこに頻繁に行き来していた。イエスがしばしば人々の来訪を避け、一人で籠もったのは、単に祈ったのではない。「向こう」へ行っていたのである。
 いや、もっと言えば、イエスは「天使たちの国」を生きていた。この世を生きるのと並行して。
 そして、「天使たちの国」のあり方がこの世にも拡がらなくてはならないと思った。
 ここにイエスの過激さの根源がある。

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