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浄土の話(5) 浄土を現出させる情熱

2011-07-15 00:04:40 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 私が好きなお寺の一つに、大原三千院の「往生極楽院」があります。
 「瑠璃光庭」と名づけられた苔の庭の中にあるお堂で、阿弥陀・観音・勢至の三尊像があります。
 周知のように、この三尊像は、西方浄土から迎えに来た姿をとても生き生きと表わしています。本尊の上部は、周囲の天井から一段せり上げた「舟底天井」となっていて、阿弥陀仏が異空間から降臨してきたような印象を与えます。観音・勢至の脇侍は、日本式の正座から少しお尻を浮かせた、前屈みの姿勢で、いかにも「お迎えに来ました」という動きを表わしています。阿弥陀仏は堂々としていますが、脇侍は等身大で、勢至菩薩はこちらに向かって合掌し、観音菩薩は小さな「蓮台」(蜂の巣状の花托)――浄土に行くための乗り物、あるいは浄土での居場所の象徴――を差し出しています。実に優しい「慈悲」の姿です。心打たれます。こんなにありがたい仏像(菩薩像ですが)は、そうないでしょう。
 今の古びた味わいもいいのですけれども、実は、このお堂、できた当時はコッテコテの極彩色で、浄土がそこに出現しているように造られたものだったようです。舟底天井は美しい青空に花びらが舞い、楽を奏でる天女が雲に乗って漂っている(近年、日本画家の馬場良治氏によって復元が作られました。宝物館に展示されています)。壁は朱衣と白衣の如来の千体仏で埋め尽くされ、長押には蓮華文などの装飾が施されている。
 初めてここを訪れたのはもう30年以上も前ですけど、その時、長押にかろうじて残っていた小さな円形の千体仏絵を見て、驚きました(この前行った時はもう見つけられませんでした。消えてしまったのか、別所に保存されているのかわかりません)。三尊像に完璧な金箔が貼られ、天井や壁や長押の絵や装飾が全部復元されたら、ここはどんなにすごい「バーチャル浄土」だっただろうか、と思いました。復元してみたい、誰か復元してくれないかな、と。

 ちなみに、この往生極楽院は、本来、三千院とは関係ないものです。そもそもこの地に三千院門跡ができたのは1871年(明治4年。その前は「梶井門跡」として京都のあちこちを転々としていて、大原には「政所」があった)で、その時、すでにあった「極楽院」を併呑したのです。
 極楽院は、北家藤原氏の公家・藤原実衝(さねひら、1100-1142)の妻・真如房尼が、夫の供養のために、平安末期の久安4年(1148)に建立したものとされています。
 最近の研究では、本堂の建立は長寛元年(1163)頃で、本尊阿弥陀仏と脇侍とは、もともとは別のものだったという説も出されています(吉田靖雄「大原三千院本堂の建立者真如房の研究」『大阪教育大学紀要』1984年9月)。確かにそう言われれば作風もなんとなく違うような気がしますけれども、でも、この三尊を組み合わせ、舟底天井の本堂を造ったというのは、非常に天才的な発想だったように思います。

 金色に輝く優しい仏様と、極彩色の天女・千体仏に満ちあふれたこの空間で、声明や楽に包まれつつ、一心に浄土への祈りを捧げていたら、それこそ、そのまま浄土往生するような感覚になるでしょう。

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 この極楽院が建立されたのは、1163年頃。法然上人が浄土宗を開宗したのは1175年ですから、当然、浄土宗・浄土真宗とは関係がありません。どうも融通念仏宗の良忍と関係がありそう。
 ウィキペディアから
 《良忍(りょうにん、延久5年1月1日(1073年2月10日)? - 天承2年2月1日(1132年2月19日))は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。
 尾張国知多郡の領主の秦道武(はた の みちたけ)の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年(1072年)説もある。
 比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。22歳から23歳のころ京都大原に隠棲して念仏三昧の一方で、来迎院・浄蓮華院を創建し(寂光院も良忍による創建説がある)、また分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させた。
 1117年(永久5年)阿弥陀仏の示現を受け、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという立場から融通念仏を創始し、称名念仏で浄土に生まれると説き、結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進を行った。四天王寺に参籠した時に見た霊夢により、摂津国住吉郡平野庄(現大阪市平野区)の領主の坂上広野の邸宅地に開いた修楽寺が、その後の融通念仏の総本山の大念仏寺の前身である。
 1773年(安永2年)聖応大師の謚号を賜った。》

 浄土教というのは法然が日本初ではなく、もっと古くから伝わっていました。
 天台宗の基になる隋の天台智(ちぎ)は「摩訶止観」という瞑想体系を作りましたが、その中の四種三昧に、常行三昧があり、これは最高90日間阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行うというものでした。また第3代天台座主・慈覚大師円仁(794-864)は、入唐求法の末、常行三昧を天台に移入しました。比叡山にも日光輪王寺にも常行堂は現存しています。天台の常行三昧は、何日間も、24時間、阿弥陀仏を念じながら歩き続けるもので、疲れた時には手すりに頼り、休む時には天井から下げられた紐につかまって束の間のまどろみを取るという、苛酷な行でした。
 良忍はそれを排し、唱名念仏で浄土往生がかなうと説き、後の法然・親鸞の先駆をなしたとも言えます(融通念仏宗自体はなぜかほとんど消滅しかかりましたが)。

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 浄土信仰の中で見逃せないのは、「末法思想」の高まりでした。これは、釈迦入滅後、2000年後には、釈迦の教えが伝わらなくなり、仏法が正しく行なわれなくなるという考え方です。そして日本では1052年から末法が始まるとされ、仏教を信奉する人々は恐れ・不安を抱くようになりました(キリスト教のような“終末論”ではありません)。こうした時代精神の中で、何とか「浄土」にすがって死後の安心を得ようという希求は非常に強いものになったようです。この年、関白藤原頼通(道長の子)は宇治に平等院を建て、翌年、あの鳳凰堂(阿弥陀堂)が建立されました。また、先日世界遺産に指定された中尊寺金色堂は、阿弥陀三尊を本尊とした浄土寺院で、1124年に建立されています。

 上記は教科書的な記述ですけど、これ、実際どういうことなのか、もうひとつリアリティをもって理解することができないところです。
 よく言われるように、公伝以来の古代仏教は「国家仏教」であって(というよりはむしろ「驚異的な外来哲学」だったのでしょう)、個々人の内面的な信仰・救いまでは、届かなかった。ところが、平安中期以降、仏教は「国家鎮護」よりも、個々人による受容へと移っていく。その変化と、浄土信仰が、どうもリンクしている。(「個人への拡がり」は法華経の方が早かったようですけど、法華経は内容がカオスで、ポイントがはっきりしなかったのかもしれません。)
 そして何より、浄土信仰は、「死後の行方」という、個人的に非常に切実な問題を扱っていた……

 仏教浸透以前の「古代的日本の他界観」というものがどういうものだったかは、あまりはっきりわかってはいないようです。記紀は国家的・政治的な文書なのでちょっとあてにならないし、他に何か強力な文献があるわけでもない。民俗学では、「死後の魂は一定期間(たとえば60年)、“里”に近いところで暮らしているが、その後集合的な“祖霊=カミ”となり、子孫を守護する」といった考え方が古層にあるという説を出していますが、果たしてこれもどこまで遡れるのか、どのくらいの拡がりがあるのかはわかりません。漠然と「黄泉の国」へ行ったとだけ思っていたのかもしれませんし、「迷う霊」と「迷わない霊」がいると思っていたのかもしれません。生まれ変わりがあると考えていたかどうかもはっきりしません。おそらく、非業の死を遂げた死者霊(幼くして死んだり、お産で死んだり、事故死や戦死した者の霊)は、祟るので鎮撫が必要だとは思っていたでしょう(「流れ灌頂」という夭折者を皆が悼む儀礼があります)。一応天寿を全うした霊は、しばらくは近くにいるけれども、そのうち神々の世界へ行くくらいに思っていたかもしれません。若くして死んだ魂は生まれ変わるとか、偉大な人物が再び生者を助けに生まれ変わるとかも、思っていた可能性はあります。
 ただ、漠然としたものにせよ、もちろん死後観、他界観は持っていた。それが仏教という、強力な「形而上学」というか「宇宙哲学」が入ってくることによって、揺さぶられた。「何かすごい学問が入ってきたけど、それが本当なら、俺たちゃ死んだらどうなるんだべ。裏の山とか海の向こうとかへ行くんじゃないのけ」――これは切実な疑問でしょう。
 つまり、仏教が国家仏教であることから個人仏教に変わっていく中で、「死後の行方」という主題が迫り出してくるのは、ごく当然のことだったのでしょう。

 もうひとつ、仏教が持ち込んだのではないかと思われる思想があります。
 「穢土」「苦」の思想です。つまり「厭世主義」です。
 これは暴論になるかとは思いますが、もともと日本には「厭世主義」はなかった。奈良以前の文化を見ても、万葉集を読んでも、厭世主義は感じられない。神道文化一般にもそれはない。
 そして、一方で平安末期から中世への「末法思想」「浄土信仰」の大流行はあったものの、一方では「本覚思想」の「悉有仏性」「煩悩即菩提」とか、「即身成仏」とか、親鸞さんの「自然法爾」とか、仏教ですら「非厭世主義」的な思想が生き続けた。さらに室町末期を経て江戸時代になると、「浮き世万歳」の文化が花開いた。
 (非厭世主義は、「現世主義」ではありません。現世主義とは、中国文化がかなりその色彩が強いようですが[ただし知識層]、「死後世界なんかどうでもよい」という思想です。)

 つまり、どうも鳥瞰するに、仏教が日本で「個人の信仰」になっていく過程で、伝統的な(そして曖昧だった)死後観・他界観が崩され、「個」が無防備なまま「永遠」にさらされる(壮大な宇宙論と対峙させられる)ことになった。このアノミー状態と実存的不安をベースに、浄土への希求と厭世主義が一気に高まることになった。――こういう構図なのではないでしょうか。

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 しかし、この仏教という壮大な思想は、簡単に個の救いをくれるものではありません。
 確かに人間は菩薩になり、仏になることが可能である。つまり永遠の存在になれる。しかし、そのためには、気の遠くなるような修行の時間が必要だとされている。へたをすれば餓鬼・畜生・地獄に堕ちかねない。
 まあ、脅しと言えば脅しですね。しかも1052年からは末法の世になって、まともな教えも修行もできなくなりかねない、とさらに脅される。
 こりゃあ、何かにすがりたくなるでしょう。そこに輝かしく登場するのが阿弥陀仏の「慈悲」です。
 良忍・法然が出た後から考えれば奇妙なことに思えますが、智の四種三昧を受け継いで円仁によって始められた「常行三昧」は、阿弥陀仏の慈悲に帰依するものでありながら、90日間も不休で練り歩く猛烈な苦行でした。(これ、ちょっとまだ不勉強でよくわからないのですが、修行によって阿弥陀仏と出逢わなければ、弥陀の慈悲はもらえないということなのでしょうか。また、一回でも見たらOKではなく、何回も見なくてはならないのでしょうか。それとも浄土往生とは直接関係ないのでしょうか。天台浄土教は浄土実在説ではない――「唯心の弥陀」論――と言われますが、死後往生の問題ではないということでしょうか。)

 「ええ? 阿弥陀様のお慈悲にすがるだけでも、そんなに苛酷な修行をしなければならないの?」と思う人が出るのは、当然でしょう。常行三昧は出家僧の行、在家の一般人には他に手段はないのか。
 そこで登場したのが恵心僧都・源信さん(942-1017)。彼は「観相念仏」をしなさいと説いた。つまり、できるだけ具体的に、ヴィジュアルに、阿弥陀仏の慈悲(お迎え)をイメージしなさい、そのためには、一心に御名を唱え姿を思い描くだけでなく、絵を描いたり、お堂を造ったり、儀式(阿弥陀様の仏像の手から糸を垂らし、それを掴むといったものもあり、源信さんは自ら臨終にそれをやったらしい)をするといったことも利用しなさい、と勧めた。

 そこで冒頭に戻ります。真如房が大原の里に阿弥陀堂を建て、その中に絢爛たる「ヴァーチャル阿弥陀来迎場面」を造り出したのは、まさしくこの「浄土への切迫した希求」があったからでしょう。平等院鳳凰堂しかり、中尊寺金堂しかり。
 施主は、そして人々は、それを見て、阿弥陀様の慈悲を、死に際してお迎えに来てくださることを、まざまざと想い描いた。
 そしてまざまざと想い描けば想い描くほど、信心は増し、慈悲にすがれる確率が高くなると信じた。
 教義の問題でも、修行の多寡でもない。思いをこらし、まざまざと想い描けば、そこに必ずや浄土が出現する。末世の凡夫には、それしか方途はない。そして阿弥陀様のあふれる慈悲は、必ずや私をお救いくださるはずだ。……
 この情熱を愚かだと言える人がいるでしょうか。


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