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浄土の話(6) 宗教の破壊

2011-07-21 00:03:36 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 片や「末法の世」というペシミズムがあり(もちろんそこには戦乱と飢饉による地獄に似た現世情況があったでしょう)、もう一方には「何回も生まれ変わらないと仏にはなれない」という厳然たる修行主義がある。
 この中で、一般人は、凡夫はどうしたらよいか。もとの「古神道的世界」に戻るわけにもいかず。私は死んだら六道輪廻で、どうも餓鬼・畜生・地獄にすら行かされるかもしれない。
 仏教の一般化・個人化は、こうした「実存的恐怖」を巻き起こしたわけです。
 そしてこれに対応する仏教の動きが起こる。それが「阿弥陀仏の慈悲」という主題です。それは最終的に法然上人(1133-1212)の「専修念仏」という超過激主義まで行き着くわけですが、その前にも、「念仏による救済」を唱えた人は何人もいます。ちょっと歴史のおさらい。

 草分けは空也上人(903-972)でしょうか。謎の多い人で醍醐天皇の落胤とも言われています。若い頃から「在俗の修行者として諸国を廻り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路・橋・寺などを造り、社会事業を行い、貴賤を問わず幅広い帰依者を得」、「938年、京都で念仏を勧める」(ウィキペディア)ということなので、誰よりも早い。瓢箪(ひょうたん)を叩いて念仏を唱えたということで、後の一遍(1239-1289)による「踊り念仏」の源流ともされていますが、詳しい思想や行動はわかっていません。
 日本浄土教の祖とされるのは恵心僧都源信(942-1017)です。この人の信仰と行動、特に主著で今で言えばベストセラーとなった『往生要集』が、平安末期の浄土信仰の高まりの原因となったことは間違いないでしょう。ただし、源信は、称名念仏と観相念仏の二本立てを唱え、むしろ観相念仏を強調したようです。
 良忍(1073?-1132)は、法然より早く「称名念仏」を広めたようで、大念仏寺のサイトhttp://www.dainenbutsuji.com/guide/guide05.htmlによると、「天治元年(1124)6月9日 はじめて市中に出て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました」とあります。ちなみにこの人、ものすごい美声だったそうで、天台声明(大原声明)の大成者とも言われています。空也とともに、「仏教ミュージシャン」だったのでしょう(空也がロックで、良忍はバラッド?w)。もしかしたら少しそちらにかまけすぎたために、融通念仏宗はあまり宗勢が伸びなかったのかも……いや、失礼しました。しかしどうも、念仏と音楽とは深い関わりがあるようです。浄土教経典に「浄土では素晴らしい音楽があふれている」という記述があるせいでしょうか。(後の親鸞さんも叡山常行堂の堂僧で、美声の歌い手だったのではという意見もあります。和讃をたくさん書いているから、ひょっとすると言わゆるシンガーソングライターだった?)
 そして法然上人(正しくは法然房源空)。言わずと知れた「専修念仏」の提唱者です。13歳で叡山に入り、30年間修行、大蔵経を3回読破したそうです。そして「承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗をひらき、比叡山を下りて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる」(ウィキペディア)。法然のもとには貴賤・男女・老若を問わず人が押しかけたようです。
 この法然の弟子に、浄土真宗の祖・親鸞聖人(1173-1262)がいます。ただし親鸞が法然の高弟であったどうかはわからないそうです。「悪人正機」は親鸞が強調しましたが、法然がすでに唱えていたようです。「絶対他力」「現生正定聚」あたりが独自説でしょうか。何せ全国1万5000ヵ寺(曹洞宗と並んで日本仏教の最大勢力)の宗祖ですから、イエスほどではないにせよたくさんの親鸞論があって、ちっとやそっとでは近づけない。ただ自伝を遺したわけではないので、生涯の詳細は不明なところが多いようです(だからいっそう論が多くなるのでしょう)。浄土真宗はこの後とんでもない(あらゆる意味で)展開・大発展を遂げることになります。
 (ちなみに今年は法然上人の800回忌、親鸞聖人の750回忌に当たり、50年に1度の大遠忌法要が行なわれています。京都は観光業者がやる気満々だそうですが(こちらの記事参照)、震災のせいでちょっと不調かもしれません。出版や展覧会なども増えているようです。ちなみにこの連載はこれとは関係ありません、ほんとw)

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 「称名念仏」、つまり「南無阿弥陀仏」と唱えればよい。そうすれば「浄土往生」が叶い、仏への道が約束される。余の修行は必要ない。
 これはとんでもない革命です。末法の世の影に脅え、修行の困難さに絶望していた一般人=凡夫にとって、これほどの救いはなかったでしょう。仏教など知らず、ただ天災や戦乱に右往左往していた庶民にとっても、毎日ナンマイダと唱えていれば死後素晴らしい世界に行けるという教えは、びっくりだったでしょう。
 しかし、これは当然、「仏教の破壊」です。いや、ある意味「宗教の破壊」と言ってもいい。

 仏教は、釈迦の時代から、修行の宗教でした。釈迦は「無明である限り六道輪廻の苦から逃れることができない。無明を逃れるには欲望や執着を捨てて叡智を得なければならない。そのためにはいろいろな修行が必要だ」と説きました。
 その後、無明を脱する叡智=哲学と、それを得るための修行は、膨大な発展を遂げました。まあ、いささか奇形進化というか、煩雑・巨大化し過ぎたのではないかと思います。
 これはある意味、文化というものの宿命という面もありますけれども(単純に、それで飯を食う専門家が多くなるとそれだけ煩雑・巨大化するということもあるでしょう)、本質的な問題も含まれています。それは、「無明を脱し叡智を獲得したかを計る基準がない」ということです。私たちは、今、自分や他人がどれだけ無明に囚われているか、判断できない。また、修行を積んだ後、どれだけ「悟り」に近づいたのか、明確に判断できない。充分修行をしたからといって、「もう生まれ変わることはない」と言い切ることはできない(蓮如さんは違うことを言っているようですが)。欲望や執着ををすべて滅したと思っていても、どこかに残っているかもしれない。仏や如来の姿を見たからといって、解脱が保証されたわけでもない。だから、いろいろな行の仕方を用意する。さらに複雑・苛酷な行を発明する。
 時折、煩雑化・巨大化したものを引き戻そうとする動きも生まれます。禅(特に頓悟派)などはそういうものの一つでしょう。
 しかし、それでも修行は必要です。叡智の蓄積としての教えを学び、自己を省察・統御し、欲望・執着の正体を見きわめてそれを消し去る――そういった行為があって、初めて「解脱への道」へ進めるわけです。
 ところが、「称名のみ」という浄土教は、それらを全部捨て去ってしまう。難しい経典を読んだり、苦しい行をしたりする必要はない。末法の衆生にはそんなことはできない。ただ阿弥陀様の名前を唱えて慈悲にすがればよい。
 さらには、悪行を犯したとしても救われると説きます。これはすでに中国浄土教の祖・善導が「五逆・誹謗正法でも慈悲は受けられる」と言ったそうです。そして法然・親鸞になると「悪人正機」といった表現すら出てきます。
 初期の日本浄土思想では、浄土往生の条件をめぐっていろいろな解釈がありました。「十念」というのがどういうものかはっきりしなかったからです。常行三昧のような苦行をしなければならないのか、毎日念じればよいのか、神秘体験をして阿弥陀仏を見なければだめなのか……
 それは信じる側にとっても迷いが生じるところで、たとえば毎日百回称名を唱えてきたけれども、それで本当に浄土往生はできるのか、自分はかつて悪行を犯したがそれでも可能なのか、といった疑問はどうしても残ります。
 これはどこまで行ってもはっきりした答えは出ない。
 で、法然上人は「うたがいなく往生するぞと思い取る」ことだと宣言します(『一枚起請文』。ただちょっとごちゃごちゃ付随文がありますけど)。
 当人が完全に信じればそうなるんだ、と。
 これはどう理屈を付けようと、明らかに仏教の否定です。「悟りのための修行」「四諦八正道」は仏教の根本教義です。(「仏教否定」は価値判断の意味ではありません。否定なら否定でいいのではないかと思います。)
 (ちなみにこの教義は、「異安心」や「邪信」を生み出しかねないものです。親鸞さんはこれで苦労するわけですけど、それは教義自体の本質的欠陥ではないでしょうか。)

 ただ、この「仏教否定」は、浄土教自体が孕んでいるものです。「私は楽土を創る。そして願う人が“十念”すればそこに生まれ、必ず成仏する」という第十八願の誓約自体が、釈迦の仏教の否定です。善導・源信・法然・親鸞はそれを真っ向から受け取ったということです。
 
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 法然上人の「信じればそうなる」というのは、究極の言葉です。過激の過激。そして、それで終わり。信じるのがすべて。
 で、親鸞聖人は法然上人の教えを受けて活動するわけですが、もともと究極から出発しているわけで、そこはそれ以上ほとんど進みようがない。
 「悪人正機」説は親鸞さんの教えの核心のように思われていますが、法然およびその門下がすでに言っていたようです(なんかどっかでこれと同じようなパターンを見たことがあるなあw)。これの意味をめぐっては膨大な議論があるので深入りしません。
 「非僧非俗」や「妻帯」は、「念仏のみ」という「仏教否定」からは、当然出てくることでしょう。もはや修行も戒も必要ない。だったら出家も在家もない。ただしそれをはっきり主張し、実践したというのは、どえらいことだと思います(ただ、女好きだったんだろうなあという感慨もなきにしもあらずですがw)。そして、この“在俗僧(?)”というあり方が、強大な信者集団をつくる基盤になったことは確かでしょう(室町末期、一向宗集団は巨大な政治・軍事勢力になりましたが、それは一部には、家も生業も持っている一般人が「正規構成員」になれるというシステムに支えられていたように思われます)。

 親鸞聖人の思想の真骨頂は、「絶対他力」なのかもしれません。またこれも厖大な議論がありますけれども、端的に言えば、「私が信心するのも、阿弥陀様の慈悲とお力によるもの」ということでしょう。もっと言えば、「私が信心するなんておこがましい。弥陀の慈悲が信心させてくださるのだ」ということでしょうか。
 よくこれと対比されるのが、パウロの言葉です。「もはや我生くるに非ず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(「ガラテヤ人への手紙」2:20、これは文語訳)。
 私が信仰していることも、いや、私が思ったり成したりしていることも、すべては神の御業、お計らいである。
 これは論理的・記述的な言説というより、神秘主義的な言表でしょう。私の罪深さや卑小さの自覚と、神(阿弥陀仏)の恩寵(慈悲)の絶対性。
 ただ、これを下手に取ると、主体性の放棄、決定説、無行動主義といったことになりかねません(キリスト教ではキエティズム、ジャンセニスム、さらには予定説などといった「異端」がありました。ただ一部のキエティズムはこの「絶対他力」の信仰に近いかもしれません)。
 親鸞の晩年の思想と言われる「自然法爾」も、この延長にあるようです。これまた厖大な議論がありますが、「一切衆生の存在と行ないは阿弥陀仏の慈悲の現われだ」ということでしょうか。あるいは、事の成り行きまで含めてすべては法性・仏性の顕現だということでしょうか(「仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。……法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。……阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」と『唯信鈔文意』4にあります。これもまた一種の無神論になるかも)。

 ただ、この「自然法爾」、見方によると、「悉有仏性」(特に道元の読み「悉有は仏性なり」の思想)や「煩悩即菩提」といった、いわゆる「本覚思想」に近いと考えられるかもしれません。
 この「本覚思想」は日本仏教の中核ではないかという人もいます。それは、単に人々の心の奥には「仏としての性質」「仏になる資質」があるという考え方(如来蔵思想)なのではなく、「すべての存在が、大いなるいのち(仏、神)の現われである」という一種神秘的世界観のように思われます。神道の一部にある「すべては神の分魂(わけみたま)」という説もこれに近いかもしれません。
 これは「現世至上主義」「反超越論」ではありません。超越存在や他界はある。しかし現世存在も、同じく尊い。それは実体としてははかないが、それもまた大いなるいのちの顕現である。

 しかし、こうなってくるとますます、「さかしらな宗教」は否定されます。何もごりごりやることはない。神の、仏の、大いなるいのちのみ旨に従って、素直に生きればよろしい。奇妙なパラドックスですが、「神的存在の力が絶対化されると、宗教(特に行為としての宗教)は消失する」のです。
 ことさらに浄土を求める必要すらなくなります。親鸞さんは「早く浄土へ行きたいとも思わない」と言ったとされますが、それは「仏のみ旨に任せる」ということなのでしょう。
 前に、仏教が厭世主義を巻き起こしたということを書きましたが、ここには「厭離穢土、欣求浄土」すらありません。仏教が基本的に抱えている厭世主義は、日本には根付かなかったようです。
 結局、親鸞聖人は「自然法爾」において、欣求浄土すら、つまりは浄土教すら解体することになった、とは言えないでしょうか。

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 しかし、この究極の否定まで突き進んだ親鸞聖人の信徒が、強大な教団を持ち、豪華絢爛たる寺院を持っていることは、不思議とも言えます。

 弥陀の慈悲を信じるだけでいい、いや、すべてが弥陀の慈悲と観じられれば何も必要はない、という「究極点」まで行った人の教えなのに、どうして儀礼や伽藍や教学が必要なのでしょうか。
 「閉眼せば鴨川の魚に与えよ(自分の遺骸は鴨川に流して、魚の餌とせよ)」と遺言したのに、また称名すれば誰もが浄土へ往くと説いたのに、廟を造ったり、葬送儀礼をしたりするのは、どうなのでしょうか。信とは何かをめぐって厖大な言説を築き上げるのでしょうか。
 愚生の目には、イエスの屍の上に建てられた壮麗なヴァチカン・サンピエトロ寺院と、親鸞の骨の上に建てられた豪奢な東西本願寺は、どこか似ているように見えるのです(「上に」は物理的な意味ではありません、念のためw)。これは賞賛の言葉ではなく(以下略)
 何か宗教というものの宿痾のようなものを感じざるを得ないところです。


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