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東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

浄土の話(8) 番外編 信・安心・楽

2011-07-28 00:28:54 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 どうも超・鳥瞰的に見れば浄土教、特に専修念仏の主張というのは、千年以上にわたる仏教の営為を一挙に簡素化して、阿弥陀仏への「信」ですべてが解決、とする超過激思想だったと言えるのではないでしょうか。
 弥陀の慈悲を信じれば、浄土へ生まれる。浄土へ生まれればやがて仏になれる。敷衍すれば、信→往生→成仏という決定された道があるのだから、信が成立したとたんに、成仏が決まる。さらに敷衍すれば、信が決定したら、もう成仏である。
 (何か大変失礼なんですけど、願書を出せば一流大学に入学できて自動的に一流企業に就職できる、みたいな感じを抱いてしまうのですけれど……)
 どうもこれは……言いにくいけれども、仏教とは言えないような気がします……。別に仏教でなくてはいけないと言うつもりではなくて、仏教とは別の宗教と規定した方がお互い(誰?)楽なような気がするのですけど……

 それはともかく、浄土教では「信」さえ決まれば後は往生→成仏と、向こう側が確定しているわけですから、結局、問題関心は「信」とは何かということに向かっていくしかない。
 例えば法然上人が引いている『仏説観無量寿経』の「三心」という概念があって、これは、
 ①至誠心――疑うことなくこころから阿弥陀仏を想い浄土往生を願うこと。
 ②信心――疑いなく深く信じること。これに二種あって、一つは自身がいつまでも輪廻を繰り返す、救われ難い身であるとさとること、もう一つは、阿弥陀如来はそうした凡夫をも必ず救ってくれると信じること。
 ③廻向発願心――一切の善行の功徳を浄土往生にふりむけ、極楽浄土に生まれたいと願う心。
 ということらしい(ウィキペディアなどから要約)ですけど、どうもわかりにくく、外野には全部同じに見えたりします。しかも、法然上人は、ひとえに念仏すればこれは自ずからそなわると言っていて(一枚起請文)、そうした議論は不要、みたいに言っています。
 要するに信じればいい、疑わずただひたすら信じればよろしい、そういう極点まで法然さんは行ってしまった。
 ところがそれでは終わらないのが人の営為で、そう言われてもなかなか信じられないとか、信じるとはどういう状態かとか、信じていながら罪悪を犯してしまったらどうなるのかとか、信じた後の念仏はどういう意味かとか、阿弥陀様の慈悲が絶対だから信じるという善行さえ阿弥陀様の慈悲ではないかとか、いろいろな議論が出てくる。学問・知識をとっぱらったはずなのに、再び膨大な「信」の言説が紡ぎ出されるわけです。……人を信心させるため? 人の信心を判定するため? それとも「浄土の実在論議」を封印するため?

      *      *      *

 信(信仰)というのは、実に難しい問題です。
 「私は阿弥陀仏の慈悲と浄土往生を信じています」と言ったとしても、なかなかそれでは通らない。通らないというのは自他ともにで、「知識だけじゃだめだよ」「行為が伴わないと」「本当に安心できているのかね」「その信をすべての基盤にしているのかね」とか、偉い人から言われたりする(笑い)。まあ、他人が言うのは余計なお世話(笑い)としても、自分自身でそう疑ってしまう。「俺、信じてるんだけど、どうも喜びが湧いてこない」(親鸞自身そう言ってますね)、「信じてるんなら何かしなくちゃいけないんじゃないか」、「信じているけど、どうも悪いことばかりしている気がする」……
 何だよ、信じるってどういうことだよ、とついわからなくなってしまうのも無理はない。
 古代のように、儀式に参与したり戒を守ったり(あるいは殉教したり)で信仰を判断できたのならいいですけど、中世・近代になると、信仰というものは内面的なものだということになった(ちょっと乱暴)。
 ところが内面というのは流動的だし明晰にすべて把握できているわけでもない。
 単純な話、心が落ち着いている時は「信仰してます」と言えても、落ち込んだり動転したした時は、「何なんだよ」と毒づきたくなったり、「ひょっとして間違い?」と猜疑にまみれたり。信仰の強弱は人格の状態で変化するので、人格全体を通しての評価はなかなか難しい。
 フランスのキリスト教作家ベルナノスは「信仰とは99%の懐疑と1%の確信だ」と言っています。実際そうだったのか、「人間というものはそういうものだ、それでいいのだ」というニュアンスだったのか、キリスト教の奥義とはそれくらい人知を超えたものだというニュアンスなのか、信仰というのはそうやってこそ鍛えられるんだということなのか、よくわかりません。まあ99:1というのはちょっと逆に大げさでしょうけれども、現実に生きていれば、超越世界のことは忘れるし、現実の価値や秩序に呑み込まれるし、“悪魔の囁き”もあるし、年がら年中100%という人はそういるわけではないでしょう。(100%はあるし、それが信だと主張した人もいたようですけど。)
 それはともあれ、信仰というものが内面的なものであり、心理学的な概念や指標に還元できないものである以上、それを議論したってあまり意味はないのではないでしょうか。もちろん、自身の信仰を表現することは自由だし(節度がないのは害悪ですが)、時にはそれが美しいものとして人の心を打つこともあるでしょう(人の心を打ってやろうなどと思うとダメですけどw)。でも、信仰とはどういうものかとか、どうあるべきかとか、言い立てても仕方がないでしょう。

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 信仰とからんで、浄土教だけでなく多くの宗教が説くことに、「安心」というのがあります。浄土教は特に「念仏すれば往生が決まるから、安心が得られる」と主張します(『往生要集』には安心という言葉は出ていないようです)。
 これもまた難しい問題です。禅のように、「安心は信心とは関係ない、むしろ逆」という立場すらあるくらいです。
 「心が安らかである」というのは、情動が安定しているということなのか、執着さらには我欲が一切なくなるということなのか、「とらわれを脱して心が自由に働く」(?私はよくわかりませんが、一部の仏教者はこういう表現を好むようです)ということなのか……
 これも内面の問題だから、議論してもあまり意味がないことかもしれません。
 ただ、一つ言いたいことは、「信仰」とそれによってもたらされる「安心」は、「苦」を消滅させるものでもないし、そのためのものでもない、ということです。
 また、信仰することは、単純に「苦がなくなり、楽になること」ではないということです。

 「苦」と「楽」は、内面的で曖昧な概念ですけれども、これをめぐっての「悪しき誤解」があるように思います。
 それは「苦がなくなって、楽になるのがよい」と考えることの危険性です。
 第一に、苦はなくなりません。第二に、楽(安楽)はよいことではありません。
 第一の問題。肉体を持って生きている以上、それに伴う苦はなくなりません。病気になれば苦しみますし、天災や事故に遭っても苦しみます。老・病・死の苦も、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦もそれ自体(あくまでそれ自体)はなくなりません。それ自体を感じないのは、多幸症か精神の病でしょう。
 「安心」というのは、そういう苦を感じなくなることではない。苦を感じつつ、苦に苦しみつつ、心の深奥に、揺るぎない確信を持つということでしょう。

 感情モニタリングという心理療法があります。これは、まずは「いやなことがあっても、揺れない自分」を確立することをめざします。それは「いやなこと」を遮断するのではなく、いやだなと感じつつ、自意識の中核では「OK」を出すという状態です。肌が切られれば痛いのは当たり前、しかし、その痛みをいやがって悶々とするのと、「ああ痛いな」と冷静に感じつつ自分をしっかり保てるか、それは大きな違いです。
 「安心」はこれをさらに突き進めていった地点だと思われます。苦を苦しみつつ、それに呑まれない。スピリチュアリズム風に言えば、それは結局、揺らぎやすい心の奥に不動の「魂」を見いだすということなのだと言えるかもしれません。
 ウィキペディアの「安心」の項の説明は、こういう意味で、妥当だと思います。
 《そもそも安心とは安心立命(儒教において天命を知り、心を平安に保つことまたは、その身を天命に任せいつも落ち着いていること)を略したもので、禅宗では現在もこれを仏の教えにより恐怖や不安から解放されて悟りの境地に到達し、心の安らぎを得て主体性を確立することという意味で用いる。仏教では達磨が初めて用いたとされ、不安や恐怖の原因は自分の欲望に由来する煩悩にあることから、これらの境地を開くことは信心および信仰の証しとされた。》

 また、苦は、場合によっては避けるべきことではなく、まともに受け止めるべきものです。それは、魂を(という言葉がいやなら心を)成長させるものだからです。苦しむことなしに、心や魂が成長すると考える人が、果たしているでしょうか。(ちなみに心理療法の話で言えば、「苦しいと感じる方をやりなさい」と勧める理論もあります。)
 浄土にも似た死後の霊界へ行っても、苦がなくなるわけではありません。肉体にかかわる苦悩はなくなりますが、取り組むべき課題にうまく取り組めない苦悩は、なくなるものではありません。

 そして第二の問題。楽は、安楽という意味では、上記したように魂の成長にとっては死です。信仰や安心がもたらす、魂の歓喜の感情は、「楽」と表現するのは、現代語としては不適切ではないかと思います。
 そしてスピリチュアリズムの霊信が警告しているところによれば、「安楽」を求めて死後世界に行くことは、危険ですらあります。多くの魂が、「幻想の国」=仮の浄土を「至上の天国」と錯覚し、そこで祈ったり賛美歌を歌ったりする安楽の中に閉じこもり、成長を放棄してしまう。それは「タコの足に捕らえられるようなもの」(マイヤーズ通信の表現)だというのです。

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 結局、これらの問題は、「宗教と救い」という主題に行き着きます。
 宗教は救いをもたらすのか。
 救いというものが、「苦しみのない安楽」を意味するのなら、それはないと言うべきでしょう。
 宗教がもたらす救いは、端的に言えば、「恐怖」や「不安」がなくなっていく(少なくとも少なくなっていく)ことではないでしょうか。つまり「安心」に非常に近いものだと。
 
 人間にとって、恐怖や不安はたくさんあります。明日食べられるか、誰かにひどいことをされるのではないか、病気になるのではないか、人に見捨てられて孤独になるのではないか……。そして最も大きな恐怖は、「死後どうなるのか」ということでしょう(それを意識から排除している人も多いようですが)。
 浄土教は、それが正しかったか否かは別として、「死後」への恐怖や不安を、「誰もが浄土へ行ける」という教えによって取り除こうとしました。

 スピリチュアリズムは、「霊魂は死後も存続する」ことを明らかにしようとしました。また、霊界の情報や霊的メッセージによって、「真に愛する人とは再び出会うことができる」といった付随する「救い」も明らかにしました。(詳しくは本ブログの「スピリチュアリズムの12の救い」を参照。)
 こういった霊的知識を知ったとしても、「安楽な生」が訪れるわけではありません。苦痛や苦悩がなくなるわけではありません。
 しかし、「永遠の生命」への確信が増していけば、そうした「苦」を感じつつ、それに揺れず、巻き込まれず、さらにはその意味を理解して喜びすら感じるような、「確固とした自己」が築かれていくでしょう。
 (ただし、スピリチュアリズムは、人を「安心」させることを“目的”としたものではありません。基本は、この物質主義に偏った時代の中に、霊的情報をしっかりと伝えていくということだと思います。)

 平安末期から鎌倉時代への浄土教は、仏教という輸入思想と台頭する武家社会という精神的不安情況の中で、死後のビジョンを示し、人々の恐怖や不安に対応しようとしました。それはその時代にふさわしい「霊的栄養」だったのかもしれません。
 これまで、浄土教は「仏教本流から言えば一切の修行を否定する異端思想であった」とか「(当時の人々にとっても)信憑性が弱いところがあった」といったいささか否定的な表現をしてきましたが、浄土教のポジティブな面としては、①在家・庶民が主体となる宗教を創った、②祟り・穢れなどの恐怖とそれに関係する禁忌・束縛を無化しようとした、といったことが言えるように思えます。

 しかし、時代は変わり、現代という情況の中で、つまりまったく異なる知の地平の中で、浄土教は「死後への恐怖・不安」に応えるのでしょうか。それとも、「信」の問題、内面の問題に終始しようとするのでしょうか。

 (ちょっとメモ。安心ということで言えば、唯物論による「安心」、あるいは禅仏教的無神論による「安心」というのもあるのかもしれませんね。ちょっとそれは別に考えてみる必要がありそうです。)

 どうも、きちんとした構想も準備もなくだらだらと書いてしまったので、あまり質のいいものになっていないような感じがします。読みにくくて申し訳ない。
 また改めて、頭の整理ができたら、再チャレンジしてみたいと思います。


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2 コメント

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阿弥陀仏 (Glass Age)
2011-08-02 21:31:58
高森さんの浄土論に沿ったコメントはとてもできそうにありません。

その代わりと言うのも変ですが、私が自分のブログを書き始めて間もないころに無謀にも阿弥陀仏について書いたもののリンクを貼ります。

http://glass-age.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-3de3.html

かなり個人的、情緒的な阿弥陀仏論ですが、何がしか響きあう部分があるかもしれません。

私は、浄土教は、初期仏教との距離よりも、スピリチュアリズムとの距離の方が近いように思います。最初に阿弥陀仏の物語を紡ぎだした人たちは、スピリチュアリズムに近い体験をしたのではないかと。ただ、おそらく歴史の手垢にまみれるなかで、いびつに歪んだり、極論に走ってしまったりしたのではないかなあ、と。
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Glass Ageさまへ (高森光季)
2011-08-03 00:37:56
コメントありがとうございます。ブログ記事も含蓄が深くて勉強になります。
「最初に阿弥陀仏の物語を紡ぎだした人たちは、スピリチュアリズムに近い体験をしたのではないか」というのはさすがに素晴らしいご指摘だと思います。私も『往生要集』を読んでいて、これは部分的に霊界通信が入っているかなと思いました。ただそれをソースをたどって検証してみるということまではやっていないので、そのうち改めて考えてみたいと思います。

「阿弥陀様あるいは光の存在がいつも私を見ている、あるいはいつも私とともにいる」ということが、信仰ではなく、日々常に“事実”だと捉えられる。――こうしたことがあるとしたら、その人は、悟っている、あるいは救われている、ということになるのでしょうね。
私はとてもとてもそんな境地にはありませんし、失礼ながら、源信さんや法然さんや親鸞さんがそうした境地にあったのかも、まだよくわかっていません。妙好人というのはそういう人たちなのだろうか、とも思ったりしますが、これもまだよくわかりません。キリスト教の神秘主義者たちはそうだったのか。……勉強が足りませんね(笑い)。
それと、そういう「悟り」と仏教の悟りとは、だいぶ違う感じもしますね。ううむ。

あまり関係ありませんが、浄土真宗では、門徒が死去した時に、門徒同士では「おめでとうございます」と言ったそうですね。つい最近まであったと聞いています(今もそうなのかもしれません)。
心底そう言えるのならすごいですね。
スピリチュアリストも、スピリチュアリスト同士ではそう言いたいです(笑い)。
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