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【「私」という超難題】(6) 笠原理論による人間の核心

2012-08-12 01:32:40 | 高森光季>「私」という超難題

 前回で心理療法家・笠原敏雄氏の「幸福否定」論を紹介しましたが、もうひとつ、笠原理論が浮き彫りにしている重大な主題があります。
 それは、人間の「本心」が追求しようとしていながら、「内心」による大きな妨害が起こるものに関してです。

 「幸福否定」論では、愛情の実現とか、能力の発揮とか、人(ケース)によって様々な「幸福」が想定されています。そういう課題は、それぞれなりにあるわけです。
 しかし、それらのさらに奥に、多くの人が人間として持っている「追求すべき幸福」――それゆえに強い「抵抗」が起こりやすい課題――が、示されています。
 同氏は実証的な論証を重視していて、わかりやすくまとめるような書き方をしていないので、なかなか難解なところがありますが、それは、おそらく、次のようなものだと思われます。
 ・自己や現実について客観的で正しい認識をもつこと
 ・自由意志を行使して、自発的に行動すること
 ・自分に関わるすべてのことに責任を取り、悪しきことは反省すること
 ・自身の心の力に関して信頼を持つこと
 ・向上・成長すること

 もっと端的に言えば、自分が主体的に行き、成長していくことこそが、中核にある人間の「幸福」だということです。
 こうやって言葉にすると、何と言うことはない、よく言われる綺麗事、と見えてしまいますが、実はこれ、ものすごく大変なことで、それを実践しようとすると「内心」の強力な妨害が発生し、挫折することが頻繁な課題です。

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 私は前に、宗教の病理として、「群れる」「人を崇める」「考えない」という三つを指摘したことがあります。
 人間の進化成長を促進させるはずの宗教(まあそう考えない人もいるかもしれませんが)が、まるで逆のことを提供することになっているわけです。これでは唯物論者から「宗教はアヘンだ」と誹謗されても文句は言えないでしょう。
 要するに、主体性を放棄することは、人間の進化成長にとって最悪の事態だということです。そしてその誘惑は常にある。

 笠原氏も取り上げています(『加害者と被害者のトラウマ――PTSD理論は正しいか』2011年、国書刊行会)が、「ミルグラム実験」(俗称「アイヒマン実験」)というものがあります。
 “生徒”を椅子に拘束して質問を与え、答えを間違えると電流を流すという状況(実は単なる演技でトリック)を設定し、被験者は“先生”役としてボタンを押すことが実験主宰者から命じられます。すべてトリックなので、生徒は間違い、どんどん電圧を上げていくことが指示されます。目の前で人が苦しんでいるのに、実験主宰者は「続けてください」と指示する。その指示にどれだけ従うか、ということを調べるものです。
 状況の非人道性に抗議したり、途中で投げ出したりする自由が保障されているにもかかわらず、なんと6~7割の人が、唯唯諾々と指令に従って電圧を上げ続けたという結果が出ています。ぞっとする話です。自分もどうしたかわからないという意味でもぞっとします。
 ここに見られるのは、「権威への服従」(実験主宰者は大学の偉い研究者として登場している)であり、それはつまるところ、「自己の主体性や責任の放棄」への志向だと笠原氏は分析しています。
 人間はやすやすと「権威」(自分が認める権威)を(自ら)作り、それに服従することで、自らの主体性と責任を放棄するのです。そしてそれこそが「内心」の策略だと。

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 今の日本(および先進国?)で、ものすごい速さで進行しているものに、「権威の消失」があります。これは前のエントリ「人類の進化(2)」にも書きましたが、学問の権威も(自然科学はまだあるかもしれませんが、地球温暖化などのマクロ現象では信頼は揺らいでいます)、思想・評論の権威も、大芸術家の権威も、もう以前の輝きはありません。
 そして直前の雑報にも書いたように、「素人」がどんどん発語する状況になっている。ステイタスも知識もない一般人が、新聞論説委員や評論家・思想家の書き物に罵倒を飛ばしたり、時には正々堂々と論破したりしている。
 もう「権威への盲従」というのは流行らない時代になったわけで、これは自己の主体性を放棄しないという意味ではとてもよいことだと思います。ただし、その代わりに、それぞれの「孤独」や異なる意見間の対立抗争などが生じます。それも仕方のないことでしょう。

 「規範意識」もある面では弱くなっています。学校に行かねばならない、男は金を稼いで妻子を養わねばならない、といった規範(文化コード)が、「当たり前」のものだとは思われなくなってくる。そうすると登校拒否とか、若者のフリーター化や不婚とかいった現象が出てくる。私たちの時代は、部分的にサボることはあっても、「学校へ行かない」という選択肢は、まったく頭に浮かばなかったように思います。ところが今は「行きたくないから行かない」とあまり葛藤もなく言う。これは悪いことだと見なされていますが、逆に見れば、それだけ「自由」が増したということです。自由の代償は高くつく場合もありますけれども、ともあれ自由になっているわけです。

 ある意味で、私たちは「自由」をかなり発揮できる状況にいるわけです。経済はこのところ苦しくなっていますが、それでも他の国のような「生存問題」はそれほど多くなっていない。自由な時間をたっぷりと手に入れている人もいる。
 そしてそれによって、私たちはかつてないほど、自発的で主体的な活動ができるようになっているわけです。

 笠原氏のサイトから引用してみます。

 《人間は、特に先進諸国に住む現代人の多くは、幸福を追求する一環として、自分の人格や能力を高めたい(より正確に言えば、引き出したい)という根元的欲求を持っています。……人類が生活に追われるだけの一生を送っていた、つい最近までのいわば動物的な時代には、平穏無事な生活こそが理想の生きかたとされていました。しかしながらそれは、現代の先進諸国に住む人間が心底から望む生きかたとは言えないのではないでしょうか。いわば雌伏的な生きかたからようやく解放され、より高度な幸福を求める余裕が生まれつつある現代では、生活を犠牲にしてまでも、冒険的な生きかたや“自己実現”のほうを優先しようとする人たちが、おそらく以前よりもはるかに多くなっているからです。》

 もちろんそうなると、「内心」の謀略も強くなります。自由を手に入れた人たちが、それを「時間つぶし」に費やしてしまうという例は、いたるところに見られます。
 「努力しても無駄」とか「しょせん私などどうでもいい存在」といった謀略の「ささやき」も出てきます。

 「自由になればなるほど、人は自滅する」
 これを乗り越えるのは、一筋縄では行かないようです。


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