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【霊学的イエス論(7)】ガリラヤでの再スタート

2010-09-06 00:10:46 | 高森光季>イエス論・キリスト教論
 イエスは故郷であるガリラヤへ戻る。
 ここで気になるのが、「弟子」問題である。
 共観福音書では、イエスの最初の弟子は、シモンとアンデレの兄弟だったとされている。兄シモンはイエスから「ペトロ」というあだ名をもらい(ギリシャ語の「岩」を表わす「petra」を男性形にしたもの。イエスがわざわざギリシャ語のあだ名をつけるというのは変なので、イエスが命名したということを疑う説もある)、以後イエスの弟子たちの中でも中心的な役割を担う人物である(といってもかなり鈍臭い人物だったようだが)。
 二人はガリラヤ湖畔で漁師をしていたとされている。
 《イエスは、「わたしについて来なさい。人間をすなどる漁師にしよう」と言った。二人はすぐに網を捨てて従った。》(マルコ1:17、マタイ)
 二人はいきなり出会ったイエスを偉人と認め、職を投げ打ったことになっており、非常に「かっこいい」話だが、どうもそうではないらしい。
 というのも、ヨハネ福音書には、シモンとアンデレの兄弟が、バプテスマのヨハネの弟子だったと記されているからである。「細かいことにおいて妙に事実らしいことを記す」と田川先生も評しているヨハネだから、これもまた事実だったかもしれない。
 ついでに言えば、シモン・ペトロは結婚していたらしい。「シモンの姑」と共観福音書は記しているからである。彼女は熱病を患って寝込んでいたが、イエスが手を触れるとまたたく間に治り、以後、イエスを支援するようになったとされている。
 これらの話を総合すると、イエスはバプテスマのヨハネのもとで、何人かの弟子、というより親しい仲間のようなものを獲得しており、その中にシモン・ペトロとアンデレの兄弟がいた。ヨハネの刑死によって教団が雲散霧消すると、イエスは故郷ナザレではなくガリラヤ湖畔のベトサイダにあるペトロの家に行き、姑を治療し、そこをひとつの拠点として活動するようになった、ということなのだろう。ペトロ兄弟のほかにも、ヨハネ教団からイエスのサークルへと流れた者がいたかもしれない。ヨハネ福音書は、イエスは自ら洗礼を施したりはしなかったが、弟子たちはやっていたと述べているし、後にキリスト教が洗礼を中核儀礼として取り入れたわけだから、ヨハネ教団の信者が一定数イエス教団へと移ったということは、充分想定できることである。
 つまり、端的に言えば、イエスはヨハネ教団の仲間たちとともに、ガリラヤへ戻り、活動を開始した。イエスはバプテスマのヨハネから、何人かの「弟子」をももらったということになる。
 そして、ペトロとその姑のような「支持者」たちが、この後、あちこちにできて、イエスとその弟子たちの活動を支えていくことになる。ここに「ナザレの見習い大工」の生活は終わり、「遊行の治病・説教者」の生活が始まる。

 ヨハネ福音書を引いたついでに、同書が記している「イエスの最初のしるし」のエピソードについて、触れておくことにする。ヨハネだから全然あてにならないという見方もできるけれども、「細部は妙に事実くさいことを記す」ヨハネだからもしかすると事実かもしれないという見方もできる。
 有名な「カナの婚礼」である(2:1-11)。長いのでちょっと勝手に再構成してみる。
 「ガリラヤのカナで結婚式があり、イエスも母マリアも招かれていた。イエスは連れ(おそらくペトロら初期の弟子)を何人か伴っていた。イエスたちがあまりに飲み過ぎたので、葡萄酒が足りなくなった。マリアは呆れ返って『葡萄酒がなくなっちゃったじゃないの』とイエスを責めた。するとイエスは『女よ、それがわたしとどんな関係があるのですか』としらを切った。だが、イエスは使用人たちに『ちょっとそこの清めの水の水瓶六つに、水をいっぱいにしてみて』と言った。水が張られると、イエスは『そこからちょっと汲んで、世話役のところへ持っていって』と言った。それを受け取った世話役は、味見をして、それが美味な葡萄酒であることに驚いた。そして花婿に『誰でも、最初によい葡萄酒を出して、酔いが回ったら悪いものを出すものだが、あなたは最後に良い葡萄酒を取っておいたのだね』とほめた。イエスの連れたちはこの奇跡に驚いた。」
 婚礼の宴席は飲み放題食い放題のお祭りである(当時のユダヤ社会では大手を振ってどんちゃん騒ぎができる最高の楽しみだったらしい。イエスの「神の国」の譬え話にも頻繁に婚礼の譬えが出るのはおそらくそのせいだろう)。
 イエスは仲間を連れて意気揚々と乗り込み、酒を飲み尽くしてしまった。「大食漢で大酒呑み」と後に人に噂されるイエスたちのことだから、まあ当然だろう。母親はぶうぶう言うし、参列者たちはがっかりするしで、さすがのイエスも後ろめたく思ったのか、水を葡萄酒に変えてみせた、というお話である。
 まあ作り話と笑ってすませてもいいが、面白い話ではある。仮に本当だとしたら、奇跡の能力をそんなことに使ってはいけません。まあ、ヨハネ教団での修行を通して獲得した能力を、酔った勢いでつい使ってみてしまった、と同情的に見ることもできる。
 もう一つ面白いのは、ここでイエスが母に向かって「女よ」と言い放っていることである。これも神のひとり子の威厳を際立たせるヨハネの脚色なのかもしれないが、イエスが母親やきょうだいを“うざったく”思って冷たくあしらっていたことは、他の福音書にも出てくる。イエスは自分の家族も、家族というものも、嫌っていたふしがある。

 ともあれ、イエスは、おそらくヨハネ教団で出会った数人とともにガリラヤに帰り、主にガリラヤ湖の周辺で、活動を開始する。
 といっても、一般的に思われているように、いきなり教えを高らかに説き、奇跡をばんばん起こしたというわけではない。どこの誰ともわからぬ人間が飛び入りとして地区の会堂(シナゴーグ)で教えを説くのは無理だったろうし、辻に立って説教したりはしなかっただろう(福音書にはそういう記述はない)。
 また、イエスがこののち主に活動したのは、セッフォリスやティベリアスといった大都市ではなく、カファルナウム(カペナウム)やベトサイダといった町とその周辺であった。心震わせる説教や感嘆すべき奇跡で「神の国の到来」を告げる「神の子」だったら、一挙に大都市を支配下に置き、ガリラヤを制圧することもできただろうが、そうではなかった。
 おそらくは、まずはシモン・ペトロの家を拠点とし、その知り合いから知り合いへ、とネットワークを拡げ、そうした個々人の家をまわりながら、話をしたり、病気を治したりしたのであろう。
 ちなみに、イエスの弟子が12人というのは、「イスラエルの12部族」から来た神話的表現で、史実ではないだろうという説が有力である。ルカには「70人」という記述もある。まあ、5、6人のごく近しい弟子がいて、その回りにだんだんと増えていった10数人の準・弟子がいて、あちこちの信奉者を全部数え上げれば数十人、というぐらいの感じだったのではなかろうか。信奉者・支持者の中には女性もかなりいた。

 ただ、いろいろな人の家を訪ね、そこで話をしたり病気を治したり、といったことは、もしかすると、ヨハネ教団に接触する前、かなり若い頃からやっていたことだったかもしれない。あれだけの霊能を開花させたイエスである、父親の代わりとして大工の出張をしながら、その得意先で、今で言うリーディングをしたり、ちょっとした病気治しをしたり、ということはあっただろう。
 だから、ガリラヤに戻っての初期の活動は、そうした形式を踏襲しつつ、それを徐々に拡大していくということになったのだろう。弟子やサポーターが増え、何より、治病能力も、説教の豊かさも、格段に強力になった。それでも、荒野に人を集めたり、大都市の街角に立ったりするのではなく、「縁のある人々に」親しく教えを説くことが、彼のスタイルだったのだろう。

 だが、そこには矛盾もあった。バプテスマのヨハネは「神の国が近づいた」と叫び、全イスラエル人の「改悛=宗教的自己革新」をめざす運動を企図した。それは宗教的かつ政治的社会運動だった。ヨハネは一気に王権批判へと向かい、そしてそれゆえに虐殺された。イエスもまた「神の国は近づいた」ことを確信していたが、当面の活動は、ガリラヤの農村部での地味な活動だった。エルサレム神殿もヘロデ王家も、遠い存在だった。
 田舎の片隅と「axis mundi=世界の中心」たるヤハウェの座との間の懸隔。それをイエスがどう捉えていたのか。
 霊の声は、「野に出て刈り取るものを刈り取れ」と告げたのだろうか。

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