楽善な日々

新社会人となった楽と、大学生善、おとん、そしておかんの日々を綴ります。新しい街に引っ越して、新しいスタートを切りました。

よっちゃんじいじの人生

2021年12月17日 | 2021年日記
2021年10月、大きな別れがあった。
実父が亡くなった。
楽と善は、よっちゃんじいじと呼んでいた。
コロナ禍でなかなか会えない中、突然の死だった。
感情豊かな楽は大泣きし、善は無言で何かを想っている様子だった。
私は、気持ちが追い付かず、涙も出ない不思議な気持ちだった。

特別に一人ひとり順番に、ベッドに横たわるよっちゃんじいじに会わせてもらえた。
苦しそうに息をしていた。
大きく大きく、一生懸命に息をしていた。
意識障害を起こしているから、苦しそうだけど、痛みは感じていないのですよ。
心配しないで、と優しい看護師のお兄さんが言ってくれた。

よっちゃんじいじは、遊牧民のようだった。
色々な国、色々な街、色々な仕事を自分のペースで渡り歩いた一生だった。
髪をワックスでオールバックにした、いかしたnomadだ。

若かりし頃ブラジル移住に挑戦し、夢破れ日本に帰国した話は何度も聞いた。
青年海外協力隊としてアフリカで漁業の指導をしていたこともある。
私の母、としこばあばも、青年海外協力隊で働いていた。
としこばあばは、オートクチュールで働いていて身に着けた洋裁の技術を教えていた。
二人はそこで出会った。
私は、ケニアのモンバサで生まれた。
大きなニシキヘビに、お隣の子犬が丸のみされてしまったという。
その話が、よっちゃんじいじの持ちネタだ。
貿易会社に勤めだして、一家でカナリア諸島へと引っ越した。
海がきれいなスペイン領のリゾートアイランド。
スペイン語で「もしもし亀よ」の歌を歌うのが、よっちゃんじいじの持ちネタだ。
"Oiga me oiga me tortuga...."
私が中学生になると、アメリカへ引っ越した。
港町シアトルで3年ほど過ごした。
色んな仲間をホームパーティーに呼んでは、持ちネタを披露していたね。
アメリカでは私にも持ちネタができたよ。マクドナルドでのことだった。
店員さんの"Do you want ketchup?"のシンプルな質問に、
よっちゃんじいじは、"Pardon?"を繰り返すばかり。
「ケチャップいるのか、聞いてるんだよ」と私が教えるまで、
よっちゃんじいじは
「追いつきたいの?」”Do you want to catch up?"
って聞かれていると思っていて、
変だなあ、何に追いつくのかね、と戸惑っていたらしい。
生徒たちに何度も話した私の持ちネタだよ。
一家が日本に帰国すると、
よっちゃんじいじだけ南米スリナムへ3年間単身赴任。
野菜が貴重すぎてちびちび食べていたら
ニンジンが干からびて小指ほどの大きさになって悔しかったらしい。
新しい持ちネタだ。

持ちネタがいくつもあり、東京弁のべらんめえ口調で話して聞かせるのが大好きだった。
おとんも、語り部よっちゃんじいじのファンだ。

大阪の箕面で単身赴任をしていた頃、
寮のみんなを相手に持ちネタを嬉しそうに披露していたっけ。
そのころよっちゃんじいじは、
猫のみっこたんと、会社の寮で二人暮らしをしていた。
大学生になった私は、よく部屋の掃除などをしに通っていて、
行くたびによっちゃんじいじの暮らしぶりに、あきれ返っていた。
あの部屋の主は、みっこたんだ。
自由猫のみっこたんは、
よっちゃんじいじが開けっぱなしにしておく窓から出入りして、
一日を気ままに暮らしていた。
みっこたんが外から運び込む砂利で、家の中はざりざりしていた。
夕方になると、自由な主は、どこからともなく部屋に帰ってくる。
ソファーに飛び乗り、私の横に丸くなる。
一日かけて砂利を掃除して、
人間らしい部屋に戻した私の功績には、何の興味もない様子。
丸い背中がゆっくり息をしている。
でも次の瞬間、首の鈴を鳴らして飛び起きて、窓からするっと外に出るみっこたん。
あっという間の機敏な動きに、何事かと慌てた。
その数分後、遠くからよっちゃんじいじの声が聞こえ始めた。
「みっこたん、また迎えに来てくれたのか。ありがとうねえ」
私には何にも聞こえなかったけど、
みっこには、よっちゃんじいじの足音が聞こえていたんだね。
毎晩、こうやって、迎えに行ってくれてたんだね。平和な二人暮らし。

みっこは、その後、よっちゃんじいじの単身赴任終了で、
よっちゃんじいじと共に東京の実家に帰ってきた。
生まれたばかりの赤ちゃんの楽を連れて、
しばらく実家で過ごしていたときは、
みっこは赤ちゃんの用心棒を買って出てくれた。
楽が寝ているときは、必ず横で、
おばあちゃん猫になったみっこが真剣に見守っていたっけ。
首をすくっと伸ばして。
みっこは、化け猫なのではないかというくらい長生きして、
眠るように亡くなった。

よっちゃんじいじととしこばあばは、
善と楽と私を、川崎の駅近くのレストランによく食べに連れて行ってくれた。
いつしか年末の恒例行事となっていた。
歳を取って、脚が悪くなり、
ペンギン夫婦みたいにひょこひょこ歩くよっちゃんじいじととしこばあば。
善がよっちゃんじいじの背中に手をあてて、
横をゆっくり歩いてくれていたっけ。
コロナが治まったらまた行こうねって話していたんだよね。
もう一度、みんなで行きたかったよ。本当に。

よっちゃんじいじが亡くなって、
一番弱ってしまったのが、としこばあばだった。
ちょっと前までは、川崎のレストランまで、ひょこひょこだけど歩いて行けていたのに、
お葬式では、車いすに座って、私の弟に押してもらっていた。
立つこともやっとの状態になってしまった。たくさん泣いていたね。

私は仕事を退職することにした。
しばらくは、としこばあばと時間を過ごそうと思う。
仕事を辞めることは残念だったし、
生徒たちが泣いてしまって申し訳なかった。
でも、としこばあばと時間を過ごすことが、今は大事なのかなと思う。
よっちゃんじいじがいなくなって寂しくなった家を掃除したり、
としこばあばと話をしたりしよう。
楽も大学が早く終わる日は、通ってくれている。
「今、としこばあばの所」とよくlineが来る。ありがとうね。

たとえば神様が、
「あ、ちょっと間違えた。
あなたはまだ死ななくてもよいですよ。私の勘違いでした。
三途の川をまだ渡り切っていないようなので、戻ってらっしゃい」
と言ったとする。
それでも、よっちゃんじいじは、
「ここまで渡っちゃったので、戻りません。
対岸に何があるのか、見てみたい」
と答えると思う。
そんな風に善が言っていた。
するどいな、善。
よっちゃんじいじは、自由気ままにいろんな場所を渡り歩き、
自分の居場所を作っていくのが得意だった。
今頃、天国でも仲間を作り、持ちネタを披露しているのだろう。
みっことも会えただろうか。
また二人で平和に暮らしているのだろうか。
「みっこたん、また迎えに来てくれたのかい」
なんて言っているだろうか。

まだ、何が欠けてしまったのかさえはっきりと分からない
不思議な状態のままの私だ。
あるいは、何も欠けていないのかもしれない。
こうやって、人は生まれて、死んで、生まれて、死んで、
そうやって歴史が作られていくのかもしれない。
遊牧民よっちゃんじいじの人生はどうだったのかな。
自分らしく生きられただろうか。
私のこれからはどうなっていくのかな。
私らしく生きられるだろうか。

一つの歴史に幕がおりた。
よっちゃんじいじ、ありがとうね。
私はまだ残っている日々を、私らしく生きるね。

12月17日 おかん





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