「耳に順がう」事の難しさ
日常生活は基より、優れた表現者(件p家)といえども虚心坦懐に聴く耳を備えているか?といえば微妙な難問に変じる。
かの孔子ですら「六十にして耳に順う」と言っている程であるとすれば、よほど洞察力に自信がある人でも謙虚にならざるを得まい、と思われるのだが現実の情報社会のなかにあっては悠長すぎて死語と化しているらしい。無論、「死語」という言葉には自他共に辛辣な皮肉を込めている。
「百聞は一見に如かず」とは他者の意見や噂に囚われぬ公正な見方を所有せよ、との格言であるが、このまま額面通り受け取るわけにはいかない。何故なら、染み込んだ他者の見解を脱色しているか?自己の眼や耳が研ぎ澄まされているか?が問題となる。
我々の裡には聖者でないかぎりは、半ば無意識的に自己防衛生命本能ともいうべき意識が潜んでいる。その意識の自己分析の自覚化、徹底度に準じて自他との関係に様々な視点、観点の差異が生じる。ましてや、怜悧な頭脳の持ち主ほど精妙な自己防御意識が潜んでいる。いかなる他者の評価といえども質と量の真偽を洞察するには同等の、それ以上の慧眼を必要とするからである。この問題自体が今日においても錯綜しているのが現状である。
さらには「詩人は自己の裡に最上の批評家を蔵している」とも言われているが、これに関しても事は同じで、近代以降、その批評の観点自体が如何なる世界観の基に形成されているかによって微妙なずれが大きな障壁ともなりうる。人間存在探求の土台自体、その尺度となるべき視点が、実証可能な唯物史観が強力な趨勢事の哲学界はもとより、それに準じた諸分野も混迷している時代であれば、種々なる批評家が異様ともいえるほど蔓延しても不思議な現象ではない。換言すれば、実質を問わず、如何なる批評も相対的には存在可能なのである。
かといって、この現象自体を即善悪という問題に転化するのは早計である。視点を変えれば状況や環境に左右されぬ強靭な個性が育つ可能性をも含んでいるからである。だが、その可能性を自他共に育成、深化させうるかは各自が繊細かつ強靭な「聴く耳」を所有しなければならぬ。
古今を問わず、世に溢れている数多の論戦は常に自己を優位にするための「論戦の為の論戦」に堕している。無論、論争、論戦となれば弱肉強食的力学が作動するのも当然である。各自、自己の持てる限りの武器と戦略を総動員して戦う。戦い自体の次元の高低など問題にならず、勝利か敗北しかない。この戦い自体に関する現象の「不毛か否か」は各自の世界観と倫理に属するとしかいえない。善悪の彼岸すら相対化しうるのが今日の現状だからである。
個人が人間の名のもとに「平等と自由」の権利を所有、乱用すれば、世に最善と最悪の混淆する個人が出現するであろうとは、すでに精神の自由を希求した鋭敏な批評精神を蔵した先駆的存在達が予言的に危惧していたことである。
明敏な精神の所有者にとっては眼前に繰り広げられる暗澹たる光景も自明の結果と映じる。さらにその様々なる光景をも自己の裡で徹底的に消化せざるを得ないということも痛感するであろう。その為には今まで以上に「耳に順う」ことの微妙で過酷な苦闘を、その難しさを噛みしめ味わうのみである。名状し難い味と云っても始まらぬ。自覚した者が各自の方法で忍耐強く確実に知肉化するしかない。
いかなる時も、我々は常に途上である事を謙虚に知るべきであろう。
日常生活は基より、優れた表現者(件p家)といえども虚心坦懐に聴く耳を備えているか?といえば微妙な難問に変じる。
かの孔子ですら「六十にして耳に順う」と言っている程であるとすれば、よほど洞察力に自信がある人でも謙虚にならざるを得まい、と思われるのだが現実の情報社会のなかにあっては悠長すぎて死語と化しているらしい。無論、「死語」という言葉には自他共に辛辣な皮肉を込めている。
「百聞は一見に如かず」とは他者の意見や噂に囚われぬ公正な見方を所有せよ、との格言であるが、このまま額面通り受け取るわけにはいかない。何故なら、染み込んだ他者の見解を脱色しているか?自己の眼や耳が研ぎ澄まされているか?が問題となる。
我々の裡には聖者でないかぎりは、半ば無意識的に自己防衛生命本能ともいうべき意識が潜んでいる。その意識の自己分析の自覚化、徹底度に準じて自他との関係に様々な視点、観点の差異が生じる。ましてや、怜悧な頭脳の持ち主ほど精妙な自己防御意識が潜んでいる。いかなる他者の評価といえども質と量の真偽を洞察するには同等の、それ以上の慧眼を必要とするからである。この問題自体が今日においても錯綜しているのが現状である。
さらには「詩人は自己の裡に最上の批評家を蔵している」とも言われているが、これに関しても事は同じで、近代以降、その批評の観点自体が如何なる世界観の基に形成されているかによって微妙なずれが大きな障壁ともなりうる。人間存在探求の土台自体、その尺度となるべき視点が、実証可能な唯物史観が強力な趨勢事の哲学界はもとより、それに準じた諸分野も混迷している時代であれば、種々なる批評家が異様ともいえるほど蔓延しても不思議な現象ではない。換言すれば、実質を問わず、如何なる批評も相対的には存在可能なのである。
かといって、この現象自体を即善悪という問題に転化するのは早計である。視点を変えれば状況や環境に左右されぬ強靭な個性が育つ可能性をも含んでいるからである。だが、その可能性を自他共に育成、深化させうるかは各自が繊細かつ強靭な「聴く耳」を所有しなければならぬ。
古今を問わず、世に溢れている数多の論戦は常に自己を優位にするための「論戦の為の論戦」に堕している。無論、論争、論戦となれば弱肉強食的力学が作動するのも当然である。各自、自己の持てる限りの武器と戦略を総動員して戦う。戦い自体の次元の高低など問題にならず、勝利か敗北しかない。この戦い自体に関する現象の「不毛か否か」は各自の世界観と倫理に属するとしかいえない。善悪の彼岸すら相対化しうるのが今日の現状だからである。
個人が人間の名のもとに「平等と自由」の権利を所有、乱用すれば、世に最善と最悪の混淆する個人が出現するであろうとは、すでに精神の自由を希求した鋭敏な批評精神を蔵した先駆的存在達が予言的に危惧していたことである。
明敏な精神の所有者にとっては眼前に繰り広げられる暗澹たる光景も自明の結果と映じる。さらにその様々なる光景をも自己の裡で徹底的に消化せざるを得ないということも痛感するであろう。その為には今まで以上に「耳に順う」ことの微妙で過酷な苦闘を、その難しさを噛みしめ味わうのみである。名状し難い味と云っても始まらぬ。自覚した者が各自の方法で忍耐強く確実に知肉化するしかない。
いかなる時も、我々は常に途上である事を謙虚に知るべきであろう。