「表現の本質と人間存在の本質について」 2009年7月29日
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仰々しい表題である。だが我々は人間存在として生存していく以上この問いから逃れることはできない。否、逃れようにも逃れられないのである。
仮に我々に思考というものが備わっていなければこの問い自体が成立しない。
ただそれは単に動物以上でも以下でもない、というにすぎない。もし思考という道具が備わっていなければ自己認識、つまり私・自我意識は生じえないからである。
この考察は、私が前から何度も繰り返して言い続けている内容である。
私という自覚が無ければ世界も他者も認識の対象たり得ない。
ただこの我々の用いている思考とは単なる個人の所有物でもない。我々人間に本来備わって、用いている普遍的な「思考存在・実体」でもある。この思考の考察、頗る重要な問題は今日の時代に至っても厳密には考察の対象にはされていないのが実情なのである。
我々は如何なる時にでも思考を用いている。思考の結果我々は様々な、或いは各個々人に相応しい行為に及ぶ。
この思考に関する考察という問題は共通の意識状態、基盤に立たぬ限りは限りなく紛糾する。思考そのもの、思考の実体を物の如く指し示すことは出来ないからである。この考察自体が其々各自の主観に基づくもののとして簡単に処理されてしまう。此処に紛糾の問題が含まれているのだが、これは感覚界にあるあらゆる事物を知覚するようには知覚できない、という単純な理由による。
万人が共通に認識し得るような数量化不可であるという、これまた単純な根拠に依る思考法が殆どの魂を呪縛しているからである。これを物神思想とも言う。この物神思想とは唯物論的世界観的思考法を基盤とした極一般的な私を含めた世界に対する認識法なのである。この呪縛を打破するのは容易ではない。
私が死ねば知覚する「主体」である「私」は消え去る。私が消え去るとすれば「知覚する私」が存在しない以上は世界を知覚することは不可能である。ゆえに「私が消滅すれば世界も消滅する」という彼の有名な唯物論的基盤に立脚した観念的世界観が生じる。この世界観は今日でも衣装、概念は違えど殆どの哲学者と称する存在達の魂に根深く巣食っている。この世界観が既に日常的に、習慣的に用いられている。
さて、これは日常生活を営む人々、存在だけではなく件p表現する存在達の魂をも深く浸食しているのである。
近代から現代に至るまでに個々人を襲った受難劇とも謂える悲劇劇は今や意匠となって件pを蹂躙しているといっても過言ではあるまい。
先日或る先駆的抽象画家に対して知名度のある学者と文学者がテレビで語っていた。実名を挙げても大して意味はない。殆どの自称他称博学、識者と称される人物の代表のようなものだからである。
抽象表現形式が生じた要因は必然的なものである。これは思考の考察にも似た困難な問題を含んでいる。
簡単に言えば、無知の知や不立文字、相対的意識、虚無、空等々の概念、意識状態と同質の意識状態、或いは自己認識の個人の限界の自覚であるが、これは到着点ではなく此処の地点が真のスタート地点である、と言えば大抵の人物の思考は混乱する。単に事物を公平、純粋に偏見なく観る一視点にすぎぬ、と言い切れば反感さえ抱かれるであろう。
さらに換言して言えば「我々はやっと自己認識の真のスタート地点に立ったのだ」と。この物言いは「おまえは何様のつもりだ、偉そうに」と。傲岸不遜極まりない人物と看做される。
我々の時代に至って、あらゆる境界は消失した。この消失は個人の魂に内的倫理的な課題を自らが背負わなければならぬ、という自己責任と自覚が伴う。
この自覚は個々人の趣味趣向や個人的興味なども完全に消滅することを意味する。この個人の受難劇はあらゆる表現形式に及んでいる。この重責に耐えきれずに殆どの先駆的表現者は斃れた。これは今日出回っている様々な斃れた、或いは難破、方向を見失い自滅した魂の「表現者達の作品」を一瞥すれば分かることである。
この難破した状態は依然として打破されずに百花繚乱の如き様相を呈している。
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