六本木のおでんの屋台に通いつめた、若かりし日のオヤジの回想だ。
以下に、その記事を再録する。
六本木に“ヒルズ”なんてものがなかった頃。
防衛省は防衛庁で、守屋のおっさんはまだそんなにでかい面していなかった頃。
夜毎のディスコのナイトフィーバーに、交差点からスクエア ビルまで若者が列を作り、ホテルアイビスは連込み宿と化し、オカマの娼婦は酔客の股間をすれ違い様にぎゅっと握り、お上りさんの田舎者には街灯がスポットライトのように浮き立ち、路上ではアクセサリーとクスリが売られ、吉野家の店員が全員体育会系だった頃。
深夜、人々の流れと逆行して交差点を渡り、六本木と赤坂の境い目の公衆便所の脇、防衛庁の高い塀の下に構えるその屋台に、夜な夜な通った。
20歳そこそこのなんにも知らないガキを、屋台の親爺はなぜか気に入ってくれた。
終戦をクアラルンプールで向かえ、自分より10歳も下の現地妻をめとり、したたかに動乱をやり過ごした親爺は、どういう経緯かは知らないが日本に舞い戻り、何の因果か六本木の防衛庁の脇っちょでおでんの屋台を始めた。
その何十年か過ぎた円熟の屋台に、青二才のオヤジは偶然通いつめた。
その当時でもおでん屋の親爺の年齢は60歳を過ぎていたか、それに近かったろう。
知る人ぞ知る大人達の通う屋台に、生意気なガキは時々下働きのように手伝い、おこぼれの司牡丹を頂き、お勤め人たちが朝の出勤する姿を見ながら、空っぽのおでん鍋の底に敷いてある簀の子をめくって、出汁の素の煮干しを齧って1日を終えた。
一丁前にぬる燗の司牡丹が美味しく感じられた頃、常連さんらしき芸能人(千昌夫、志垣 太郎、西田敏行、松崎しげる、等々)とも親しげに会話を交わし、いちばん感銘を受けたエド山口さん(モト冬樹のお兄さん)の下積み時代と、「六本木ララバイ」誕生秘話にホロリとした時には、広尾の親爺のマンションで麻雀のお手伝いをしながら、酒を飲ませてもらうような関係になっていた。
初めて関西風のお好み焼を味わった頃、大人のおでんの味もおぼえた。
親爺のおでんは薄味で、里芋や人参なども入っているのが新鮮だったが、巾着やばくだんも個性的で、煮詰まって色が変わった蛸やフランクも大好きだった。
だが最後のきれいさっぱり具がなくなったあとの、クタクタになった煮干しが妙に旨かった。
親爺にはおでんのイロハみたいなものを教えてもらった。
出汁、継ぎ足しの妙、練り物の匂い、酒の燗、なにより客との掛け合いの間。
でも、まだまだ親爺にはぜんぜん及びもつかない。
六本木を離れる時、住んでいたマンションに親爺は出張してくれて、大きな鍋に親爺流のおでんを作ってくれた。
仲間とそれをガツガツ喰らい、たらふく酒を飲んで、六本木に別れを告げたのだ。
以後、お好み焼と同様、ことあるごとに親爺流おでんを作ってきた。
でもなかなか親爺の味にならなかった。
それでも、おでんはずっとやりたかったのだ。
いろいろ諸事情で踏み切れなかったが、モグランポも10年経ち、ようやくやってみる決断をした。
コンビニのおでんとはちがう、30年前の六本木の防衛庁の脇っちょに出ていた屋台の味、親爺のおでんにすこしでも近づきたいと思う。
オヤジにとって、お好み焼とおでんは切っても切れない思い出の味なのだ。
実はまだ、定番の具を試行錯誤しているところだけれど、お汁の味は日に日に味わい深くなっていると思うし、タイミングもだんだんわかってきた。
お勤め人時代に仙台へ出張した際に食べたおでんのツブ貝の旨さは忘れられないし、関西風のおでんの定番牛スジは欠かせない。
卵、昆布などのお好み焼と共通のネタはもちろん、モグランポならではのオリジナルのネタもつくりたい。
関西のお好み焼屋さんでは、わりと普通におでんや煮込みをやっているところが多いが、それは向こうの人が、特に店焼きの場合、お好み焼はすぐに焼けるわけではない、ということを理解しているからだ。
お好み焼が焼けるのを待つ間に、お酒のアテとしておでんや煮込みをつまむことが定着しているからだ。
モグランポもそうあればいいと思っている。
しかし、その代償として、残念ながら明石焼はしばらく休止しなければならない。
スペースやその他諸々の事情で、開店以来続けてきた明石焼を止める。
今すぐではないが、やがて大きく店が変わる時、その事情を察せられるように努めたい。
現在六本木に防衛庁も高い塀もなく、格上げされて、油がどうのとか、セコい接待とその奥にあるドロドロの闇を週刊誌は書き立て、赤坂と六本木の境い目の公衆便所は消え、ひよっとしたらその向かいの「水曜日の朝」もないかもしれず、オヤジが夜と朝を彷徨った界隈はすっかり変わってしまったようだ。
若かった頃のオヤジが、どんなに真面目な好青年だったか証言してくれる店も、住人ももういないことは寂しいが、街がどんなに様変わりしようとも、そこで覚えたお好み焼やおでんの味はこの身に生きている。
この記事では「親爺」と書いているが、実際は寅さんみたいに「おいちゃん」と呼んでいた。
ほんとうに生意気だし恥ずかしいことだが、未だにおでんも客あしらいも「おいちゃん」には及びもつかない
「おいちゃん」は存命なのだろうか ? 時々考えることがあった。
「味の屋」のママは逝き、「カンイチさん」は消息不明みたいだし、手相見の「ケンさん」も今はおらず、海老蔵がブイブイいわしているような六本木には、すっかり縁も興味もなくなってしまった。
そんなオヤジに、先日目の覚めるようなコメントを頂いた。
な、な、なんと、「おいちゃん」の娘さんからだ !!
いやいやいや、驚いた、びっくりした、感激した
そういえば、かつて広尾の「おいちゃん」のお住まいにお邪魔したときに、小さな娘さんがいたのは記憶している。
で、でもまさか、そのお嬢さんが成長されて、拙いおフザケのブログを読んでくれて、コメントまでしてくれようとは、まったく考えもしなかった
嗚呼、お恥ずかしい。
勝手にお父上のことをいろいろ書いてしまって、ごめんなさい
もしよろしければ、ぜひ一度もグランポへいらしてください。
「おいちゃん」のその後のことを。ぜひお話しいただけると幸いです。
恐惶謹言 店主 軽薄、じゃなくて、敬白
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mogmas
おでん屋の娘くろちゃん2号
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