ふーん奴め、まだそんな活動をしているのかと懐かしく嬉しい気持ちになったが、連休とはいえ23日の月曜日はあいにく仕事で観に行けない。
筆まめなTに返事を書くつもりでいたのに、ついつい天草マラソンのことでバタバタして失念してしまった。
そして昨夜、バイオリンケースとなんという名前か聞いたけど忘れてしまった楽器を抱えて、Tが店にやってきた。
まだ改装前に会ったきりで、およそ8年ぶりの再会か・・・。
19歳のとき、シナリオの通信講座のコンクールに入賞して賞金10万円を手にし、それをそのまま入学金に当てて今は無き「美学校」に通いだした。
そこで出会ったのが静岡から家出同然で出てきた、2歳年下のTだった。
もう39年も前のことだが、当時のTは貧乏くさい格好でナヨナヨと弱っちい見かけにもかかわらず、映画や演劇のこととなると頑と主張を曲げず、意外にコイツ頑固で一本気だと知り、それからいつもつるんで映画を見たり酒を飲んだりして仲良くなった。
その頃は日本映画がまったく冴えない時期で、あぶれた映画監督やシナリオライターが糊口をしのぐように「美学校」の講師をしていた。
中でも異彩を放っていたのが「鈴木清順」監督と初期の「ルパン三世」や日活のアクション映画のシナリオを書いていた「大和屋 竺(やまとや あつし)」さんと、映画美術の「木村 威夫」さんだった。
「大和屋」さんと「木村」さんは「清順」監督とよく仕事をしていた中で、「クエンティン・タランティーノ」が多大なる影響を受けた「清順美学」を作り上げたのは「木村」さん、映画小僧どもに現場を見せてくれたのも「木村」さんだった。
「美学校」とはいえ、古いビルを間借りした私塾のような部屋の壁際にはずらりと日本酒が並び、酒を飲まずに映画を語るなと言わんばかり。
授業が早く終わると講師と生徒が連れ立って近くの煮込み屋へなだれ込み、昼間から酒をくらい丁々発止の映画論を語り、時には意見がかみ合わなくて掴みあいのケンカにまで発展した。
鼻っ柱が強かった小僧のオヤジは、しょっちゅう喧嘩沙汰になって場を荒らし、先に店をおん出てTと共に夜が明けるまで声高に議論し酔いつぶれたものだった。
アルバイト生活でかつかつの余裕のない毎日をちょっとマシにしようと、高校の同級生Mに声をかけ、Tも巻き込んで男3人で一軒家を借りて住みだしたのは、「美学校」の卒業制作で8ミリ映画を作る頃だった。
家事のまったくできないMとTにイラっとしながらも、横浜の高台の新興住宅地に建つ庭付き車庫付き一戸建ては快適で、バイト先の六本木にはバイクで通い、帰りはいつも深夜だったので「浜田省吾」の「路地裏の少年」が沁みてしょうがなかった。
やがてこの家に「鈴木清順」監督を大胆にも招いて8ミリ映画の撮影をし、「黒澤明」の「影武者」のオーディションにも応募したりあがきながら半年が過ぎた頃、Tは大学に通うことになり、Mも専門学校へ行くことになり、当の小僧オヤジは六本木のバイト先の社長から正社員になってくれと頼まれ、六本木のマンションに1部屋用意してくれると言う条件でこれを受けた。
各かくの思惑が重なり、言い出しっぺの小僧オヤジが切り出してこの横浜梁山泊は解散となった。
その最後の夜、3人でベロベロに酔っ払い、尻を丸出しの写真を撮り、バイクに3人乗りして酒を買いに行ったり、大声で喚きご近所に迷惑をかけた。
あの尻を丸出しの写真はどこかにあるはずだ・・・嗚呼青春😅
横浜で別れてからTは役者を目指し、コント赤信号の「渡辺正行」や「ラサール石井」の芝居に出るようになり、テレビのバラエティーの再現ドラマに出演するなど、身体も鍛えて見違えるようになった。
だが主役を張るほどの役者ではないから、チケットを売りさばくのが大変で、こちらにも毎回連絡がきてそのつどチケットを買って下北沢や新宿に観劇に行ったものだ。
彼の嫁さんはその劇団員だった娘で、いまやTも3人の娘の父。
でもある時舞台で咳が止まらなくなり、ホコリで喘息になってしまいやむなく役者の道を諦めサラリーマンになった。
そしてその後、なぜか親父バンドを結成し仕事の傍らライブをしたりと、趣味を謳歌しているようだった。
8年目の再会で、Tは「一刻者 赤」の最後の一杯を飲んでくれた。
「一刻者」頑固者という意味の酒はヤツにピッタリだが、もういい歳なのに外見は10歳も若く見える。
羨ましいというと、健康診断でいつも引っかかるといい、血圧も高いとこぼした。
おお友よ、君もハイパーテンションのお仲間か😆
昔の思い出話しと映画の話しをひとしきり、こんどふたりでタップダンスを習おうかなんて、タップで楽器をやるバンドでもやるかなどと、39年前の映画小僧は2度目の青春オヤジを企むのだった。
ありがとう友よ、さらば‼️ また会おう👍
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