ここ半年くらいで3冊か、森銑三の本を読んだ。
この人は、それまで聞いたことがなかったんだけど、実はたっぷり著作がある著述家。
明治半ばくらいの人ですか。――わたしからすればそういうイメージだけど、
実際には昭和60年に89歳で亡くなったんだから、人生の3分の2は昭和ですな。
最初に読んだのは「おらんだ正月」だったかな。
その後読んだ本も合わせて、逸話集をたくさん書いた人である様子。
それも平易な、ベースに話し言葉がある文章で。
wikiによると、アカデミズムの道を歩いては来なかった――あるいは少なくとも
その道のりは短かったようだから、在野の文学者という雰囲気が強いが、
それでもなお(だからこそというべきか)、こういう著作があることに
感謝したい気がした。
文学者や、幕末、明治初期の武士、公家、あるいは歌舞伎、各分野の芸能人。
同時代の彼らに関する逸話、豆知識、雑学を丹念に集めたものなんだよね。
それも通常出回っているレベルの逸話じゃなくて、もっと細かい、
換言すればもっとどうでもいいレベルの、ほんとにちょっとした話。
誰もが「ほう、なるほど」と思う逸話は残ると思うのよ。これは当然の話。
でもそこまでではない、もっとちっちゃい話は、わざわざ書き残そうとしない。
それを丹念に拾う。落穂拾いともいうべき。
この人が書いておかなければ、わたしが読むこともなかっただろう、本当に小さな話。
最初の本である「おらんだ正月」を読んだ時により強く思ったが、
そのおじいちゃん的語りの有難みを感じたなあ。
自分の昔の知り人の話を、つれづれに語ってくれる。
おじいちゃんのその人たちに対するほの暖かい愛情を感じる。
――が、森銑三が生きた時代の、広い意味で彼が親炙した人って、
全然知らない人であることが多くて。
漱石、鴎外、西郷隆盛や板垣退助の話ならちっちゃくても面白くても、
巌谷小波、饗庭篁村くらいはもやもやーっとなんかは浮かんでも、
それよりマイナーになるとまったくついていけないわけで。
まったく知らない人のちっちゃい話を、ちっちゃい字で何十冊も読むのは
なかなかに苦労なので、面白くはあるんだけど森銑三はこの3、4冊でいいことにする。
著作がほんとにたくさんあるんだもの。
しかし書いてくれたことには感謝する。
何年も経って、そういう風が吹いたらまた戻ってきたい気がする。
この人は、それまで聞いたことがなかったんだけど、実はたっぷり著作がある著述家。
明治半ばくらいの人ですか。――わたしからすればそういうイメージだけど、
実際には昭和60年に89歳で亡くなったんだから、人生の3分の2は昭和ですな。
最初に読んだのは「おらんだ正月」だったかな。
その後読んだ本も合わせて、逸話集をたくさん書いた人である様子。
それも平易な、ベースに話し言葉がある文章で。
wikiによると、アカデミズムの道を歩いては来なかった――あるいは少なくとも
その道のりは短かったようだから、在野の文学者という雰囲気が強いが、
それでもなお(だからこそというべきか)、こういう著作があることに
感謝したい気がした。
文学者や、幕末、明治初期の武士、公家、あるいは歌舞伎、各分野の芸能人。
同時代の彼らに関する逸話、豆知識、雑学を丹念に集めたものなんだよね。
それも通常出回っているレベルの逸話じゃなくて、もっと細かい、
換言すればもっとどうでもいいレベルの、ほんとにちょっとした話。
誰もが「ほう、なるほど」と思う逸話は残ると思うのよ。これは当然の話。
でもそこまでではない、もっとちっちゃい話は、わざわざ書き残そうとしない。
それを丹念に拾う。落穂拾いともいうべき。
この人が書いておかなければ、わたしが読むこともなかっただろう、本当に小さな話。
最初の本である「おらんだ正月」を読んだ時により強く思ったが、
そのおじいちゃん的語りの有難みを感じたなあ。
自分の昔の知り人の話を、つれづれに語ってくれる。
おじいちゃんのその人たちに対するほの暖かい愛情を感じる。
――が、森銑三が生きた時代の、広い意味で彼が親炙した人って、
全然知らない人であることが多くて。
漱石、鴎外、西郷隆盛や板垣退助の話ならちっちゃくても面白くても、
巌谷小波、饗庭篁村くらいはもやもやーっとなんかは浮かんでも、
それよりマイナーになるとまったくついていけないわけで。
まったく知らない人のちっちゃい話を、ちっちゃい字で何十冊も読むのは
なかなかに苦労なので、面白くはあるんだけど森銑三はこの3、4冊でいいことにする。
著作がほんとにたくさんあるんだもの。
しかし書いてくれたことには感謝する。
何年も経って、そういう風が吹いたらまた戻ってきたい気がする。
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