前回のブログでは、チームラボプラネッツTOKYOでの話を少しさせていただきました。
「境界がなくなる世界」という考え方に触れて、自分がやりたかったことについて改めて考えさせられました。今回は「境界線」というワードを軸に綴っていきたいと思います。
私はここ数年、ずっと工芸が工芸で留まっていることに違和感を覚えていました。
何か別のものと組み合わさることでもっと自由になれるはずなのに、と長いこともやもやしていたのです。
さらにそれを明確に表現する言葉すら見つからず、なんとかしたい、けれど何を目指せばいいのかわからない状態にありました。
それが「境界線」、この言葉と出会ったときにようやくそのもやもやが解消されたのです。
今思えばプロジェクションマッピングとコラボしたヒカリサクの展示は、私の中ではこれはこうと決めつける世の中に対する問いかけでもありました。
工芸という括りの境界線を排除したいという気持ちの表れだったのです。
近年、ダイバーシティが注目され、多様性を受け入れましょうという流れができています。
これもいわば境界線をなくす考えです。
大谷翔平選手の二刀流も、投手と打者という境界をなくして新しい活躍方法を生み出しました。
先日には柔道とレスリングの二刀流選手が特集されており、いたるところで境界線がなくなってきているのを感じます。
他にもマイノリティの問題も議論されることが増えました。
発達障害の面でもグレーゾーンに注目がされています。
チャットGPTの誕生により、人間とAIの境界も怪しくなってきました。
なんだかどんどん境界をぼやかしていく風潮にあるのを感じます。
その昔、他人と違うことに善悪をつけるようになった(境界線を設けた)のは、人が人を統治しやすくするためだったと哲学に関する本で読みました。
基準を設け、そこからはみ出すことを悪とし、はみ出したら監獄や病院に入れ、自分で自分を監視させるシステムを構築することでコントロールしやすくしたのです。
しかしそのくせ今の世の中は私たちに個性を求めます。
個性があることに価値があるとして評価します。
他人と違う才能だったり、他人と違う表現だったり、どうしたら他人と違うキャラクターづくりができるのかに日々頭を悩ませています。
それなのに人工的につくられた境界という枠の中から少しでもはみ出せば、異質のものとして見られるのですから、生きづらさを感じるのは当然です。
民を管理し平らかな世をもたらすためにつくられた境界線の数々。
そして自分を律しながらその中に収まることで安心感を得ている私たち。
ところが長い年月を経る中で、そのことに疑問を感じ、またSNSの普及によってその疑問を主張できる人々が増えました。
その結果、境界線がぼやけてきているのだと思います。
これが今の時代なのです。
私はこれまで目に見えない境界線に対して、勝手にひとりで悩んできました。
男であるとか女であるとか、正常であるとか異常であるとか。
しかしこういう括りを考えること自体がおかしいのかもしれないと思い至った時、とても解放された気分になりました。
考え方が変わり、気持ちが楽になったのです。
そして同時に工芸に対する考え方にも変化がありました。
「工芸という境界線に囲まれた枠の中では、例えば漆芸でいえば漆本来の姿を見ることができないかもしれない」
これまでは工芸という枠に守られていることに安心して、その中でできることはなんだろうとだけ考えていました。
もちろんその考えがいけなかったわけではありません。
けれど「もっと違った姿が見られるかもしれない、境界をなくせばその可能性があるのだ」と一度考えてしまうと、そんな世界を見てみたい気持ちが強くなってしまったのです。
それからというものどうしたら境界線をなくすことができるだろうと考え続けています。
ヒカリサクの展示はひとつの挑戦でしたが、結論はまだ出ていません。
これから幾度となく挑戦して失敗しながら、新しい発想で境界線のない世界をいつか漆でもつくってみたい。
成功すれば工芸の新しい道が見えてくるかもしれないと希望を持ちながら。