物語にもならない

へたくそな物語を書く主の部屋

幽霊になったら

2022-08-10 17:20:11 | 物語
  あたしは、よく心霊系YouTubeを見ながら、いや、正確には聴きながら寝るんだ。
最初は幽霊とかどうせ嘘でしょって思っていた。そう思っていたから怖い話も怖くなかったし。
聴いていて不思議なのは、大概の幽霊は浮遊していて壁もすり抜けられるのに、あんまり色んな場所に移動しないってこと。
そこでもしも、幽霊ってものがが本当にいるんなら、自分が死んで幽霊になるとしたら?って考えたわけ。

沢山聴いてきたいろんな話からすると、どうやら幽霊って壁も抜けられるし空中にふわふわ浮いていられるし、写真に写りたい時には写ってみたり、物も動かせたり、自分の理想の年に戻れるし、瞬間的にワープもできるし、時間の概念もないんだってさ。

てことはそれって・・・、宇宙の果てを見たいっていうあたしの夢も叶っちゃうんだよね?時間の概念がないんだから、光の速さとか関係ないんだし。
宇宙の果てを見に行くって、時間に縛られた上に個体を持った人間には絶対にできないことなんだよね。なぜなら人はそれまでに必ず死ぬから。
でも幽霊ならそれが出来るってことに気づいたわけ。

死ぬのが怖い人って人に、「なんで怖いの?」って聞くと、死んでから何もなかったらどうする?とか、終わるのが怖いからって言うんだけど・・・
「え!?終わりがない方が怖いやんけ!」
もちろんどんな死に方するかってことを想像するとちょっと怖いけど、死んだ後は何も無いに越したことないじゃないかっ?
だって、天国とか地獄とか輪廻とかあったら「え?まだ続くの?地獄行くの?」って不安になるじゃない?
天国行けたらいいよ?地獄行ったら最悪やんけ!だからあの世とか無くて何も無いほうがいいって思ってた。
それに輪廻ってなによ?もし悪い事してたら虫とかに生れちゃうんすか?その悪さってどのくらいの悪さっすか?人間のルールじゃなくて神様界の悪さってまた独特だったりしませんか?
虫に生れるくらいなら、産まれない方がいいじゃん。無の方がいいやんけ。

で、話を戻して、もし自分が幽霊になったらさ・・・
「死んだら飛行機もどこでもドアもなくても、どこでも行けるんじゃね?」って。
花子さんみたいにトイレに入り浸るのは損すぎる。あたしなら、絶対に宇宙の果てを見に行くね!
宇宙と言う空間に終わりはあるのか?いわゆる人間の言う”宇宙”が終わったとしてもその外の空間に終わりがあるのか?終わりがないにしてもどんな形になっているのか?見たこともない色も見られるかもしれないし、ブラックホールの中も見られるかもしれない。等々、輪廻するよりずっと価値ある経験をできるわけさ。てか産まれちゃったらできない経験ね。

幽霊が、地球の狭いトイレだとか廃墟だとか高い橋だとかトンネルだとかに居る理由をYouTubeに出てくる霊能力者に言わせると、そこに思いが残ってて執着しているかららしいんだわ。
てことは逆転の発想で、生きてるうちから宇宙の果てに執着すればいいんだわ。まぁ幸い、あたしには思いが残るようなモノも場所も友達も子供もいない。
死因が他殺でも自殺でも病気でも事故死でも自然死でもなんでも、誰も恨まない。
なぜなら、とにかくずっと宇宙の果てを見たかったから!
宇宙の果てって想像できないから執着するのも難しいけど、想像しても分からないからこそ、執着しちゃう。
とにかくあたしは、子供の頃から宇宙の果てに行きたかったし、どうなっているか見たかったんだから。
それで全てが分かるか分からないかは、分からないけど、とにかく死んでるうちに見に行かないと、もし間違って輪廻して産まれちゃったら、また永い間できなくなるからね。


弱き者の日記

2022-02-08 11:12:41 | 物語

 私が日記を書くのが嫌いなのは、ノートが汚れてゆく気がするから。

書けば書くほど、ノートが汚れてゆく。

字が下手だから?それもある。

でも本当は、自分のことなんて書きたくないという気持ちがそうさせているのかもしれない。

自分の考えている事は自分が一番よくわかっているから、わざわざ書くまでもない。

 

私は知りたい。

他の人たちがどんな風に生きて来たのか、

他の人たちがどんな会話をしているのか、

他の人たちがそんな時やあんな時どう思うのかを。

だけど、私には知る由がない。

なぜなら そういう疑問を持った時、他の人たちはどういう言葉で質問しているのかを知らないからだ。

質問ができないせいで、最初は近寄ってきてくれた友達もすぐに居なくなり、いつの日にか友達がいなくなる。本当は聞きたいことは沢山あるし、思っていること考えていることは沢山ある。でもそれをどう伝えたら嫌われないかが分からない。

そしてこの国では、友達がいない人の友達になるようなもの好きは非常に数少ない。つまり友達がいない人には永遠に友達ができないのだ。

だから自ら精神科のドアを叩いて「普通とは何か?人と話すとはどういうことか」を学びに行ったが、精神科医ほど話ずらく人の気持ちが分からない人はいないと気づいた。彼らとの会話は非常に疲れるし、いつもエピソードを付け加えないと信じてくれないほど懐疑的だった。

彼らは自分から湧き出る真の考えを教えてもくれないくせに、こちらの話ばかり聞きたがった。

酷い時には、過去のエピソードを聴いてその時どう思ったか?を聴くのだ。そんなのは過去に戻るしかない。過去に戻ることは私にとって非常に不幸せなことだった。彼らは全く未来の話をせず過去の話ばかり聞くので心が暗くなる。

彼らの手法は全て人をバカにする心から作られた手法だったし、こちらの歴史に耳をかたむけないばかりか、こちらの世界を否定する言葉しかくれなかった。

私が話したくなくなったから話さずにいると、きっと彼らの上司には絶対にしないであろう多くの失礼なことをしてきた。

更には、私は幼少から人は人、自分は自分十人十色をあたりまえと思って生きてきたのに、わかっていないことにされた。

私からしたら、「私は~と思う。それは私の考えです」とわざわざ付け加えないと分からない人の方が、公私混同しやすい人であろうと思う。

更には、私は実質的な不安しか持っていないのに、漠然な不安を持っていることにされたし、私の世界から生まれた考え方とそれまで育ててくれた家族の愛情という見えないものを否定された。

精神科医とは、そうやってお金を取ることが仕事らしい。

彼らの持っている知識は全く別の文化で作られた個人的なものなのに、なぜそれが正解だと思えるのだろうか?

お金と時間をかけて満員電車でぎゅうぎゅう詰めになって通院しても、なかなか私の本当に悪い部分見破ってはくれなかったし、"普通の人はこんな時にはこうするものだ”ということも、使える知恵も、何も教えてもくれなかった。

精神医学は、どうやら科学に基づいたものが殆ど無いようだったし、なによりも有意義な質問を全然してくれなかったことが一番残念だった。

普通の人の会話内容を知らない私でも、普通そこは疑問に思うはずと思うところを彼らは全く深く掘り下げなかった。

 

 

「人との関わりなんて煩わしい」と言っていたのは母や兄なのに、一番の寂しがり屋の私にだけなぜか友達ができなかった。

作り方はもっとわからない。教わっていないからだ。

だいたい、私は訳も分からないまま嫌われることが多かったから、変な質問をしたりしたらまた嫌われるかもしれないじゃないか。

 

ある日突然、アルバイト先のおばさんたちが明らかに私を見る目が変わり、 ”別モノ” 扱いしたことがあった。もちろん私の居ない所で私についての悪口を言い合ったに違いない。

そうであろうことは簡単に想像できるが、理由を聞く隙もなく向こうから言われることもなく、なぜなのか分からないまま居づらくなって辞めるしかなかった。

 

それもこれも、私の家庭が少々変だったからかもしれない。

 

アルバイトをはじめてから僅かながらも、恥ずかしくて言えなかった挨拶や感謝の気持ちを言葉にできるようになった。

もちろん謝ることもある。でもこの地域特有なのかなんなのか分からないが、謝っても不機嫌なままの人が多かった。

そうなると、人の機嫌は時間の問題だからあとは待つしかない。やってしまったことは謝るしかないからだった。

もちろん反省はしているので、同じ過ちは繰り返さない。それでも人は信用できないのだろう。まぁ、謝らなきゃいけない立場の人間が信用されないのは仕方がないことだ。

 

私は小さなころから自分の内側の全てを変えながら生きて来たので、反省&繰り返さないことは比較的簡単にできた。

自分を変えるときは、形から入るのが一番の近道なのだ。

友達を変えたり、体の洗う順番を変えたり、嫌いなものを好きだと思い込んでみたり、今までやらなかったことをやったり、癖を治せばいいだけだからだ。(ちなみに私はかなりのヘビースモーカーだったが、ある日突然禁煙してから13年経っている。お酒も、好きからはじまって飲みすぎて暇すぎて依存症になったこともあったが、一生分飲んだのだろうか?急に飲めなくなった。)

もちろん、何かをやめたり始めたりすることは容易なことではない。

良き理解者がいない私のような人間は特に自前の精神力が必要だったし、親とかに否定されながらも心を鬼にしてやらなければならないし、眠れなくてもとりあえずは目を閉じるし、発狂したくても暴れない。(ここで発狂とか暴れるという言葉が出てくる理由としては、姉がすぐ発狂して暴れる人だったからだ。)

ただそうしていれば積み重なるからものだ。ただそうやっていればいいだけ。

そうやってとにかく”我慢”だけが身についていった。

 

--それにしても、どうも自分には何かが足りないらしい。でも誰もそれを教えてくれることはない。

 

思えば、私は幼少時代からとても引っ込み思案で苦労した。

他の人たちに話しかけるセリフを教わっていたなら、まだ話しかけられたかもしれないのに、それ(セリフ)を教えてくれる人がいなかった。

家の中では誰も朝の挨拶をしなかったし、親から子供に対して「ありがとう」とか「ごめんね」と言われたことが殆どない。

挨拶するなんてのは(大袈裟にではなく本気で)ドラマか漫画の中での話だと思っていた。

いざ社会に出ても恥ずかしくて言えない気持ちを抑えて頑張って言った。

しかし感謝の言葉は、心から”ありがたい”と思ったとしても、なかなか「ありがとう」と言うのは恥ずかしくて恥ずかしくて言えなかった。

しかしそのままで生きてゆけるわけもなく、セリフだと思って言うようにするしかない。

それでも人というものは不思議な生き物で、心から悪いなぁと思って謝っても許してはくれない。むしろ益々 責められたりする。

むしろ、常識的にセリフとして謝ったときの方が許してくれるのだ。

以前付き合ったナルシストな彼氏もそうだった。

心から悪いと思って謝っても、もっと謝れという感じだった。髪をひっぱられたりもした。

私は私が悪くないことは分かってる。ただみんな、自分が優位に立ちたくて仕方がないのだろう。

そういう時は黙って従っているフリをしてこっそり逃げるのがいちばんだ。

別にこっちが好きで付き合いはじめたわけじゃないから、いつも別れるのは簡単だった。

勿論、向こうが私を好きになったから付き合いはじめたわけでもないだろう。好きだったらそういうことはしないはずだから。

男は身勝手で、金持ちの男を選ぶ女を軽蔑するくせに、顔だけで女を選ぶことを正当化する。また、誰とでも寝る女をバカにするくせに、いざとなるとそんな女を抱くのだ。打算的な女を嫌う癖に、「一応形だけでも財布を出してくれる女性がいい」と言う。

身勝手な人というのは、ちょっと頭が足りないのだと思う。

物を公平に見られない人は、頭が足りないし優越感を持ちたがるものなのだ。

優越感とは、”今・自分さえよければいい”という非常に短絡的な考え(感情)からくる、独りよがりのワガママである。

しかしどういう訳か世の中は、どんな世代であろうとも、そのワガママに沿って社会ができあがってゆくのだ。

日本の学校のクラスでいじめが発生する仕組みと、日本で警察側が自分たちの優位になる証拠しか出してこない仕組みは同じであるし、NATO vs プーチン大統領の報道の仕方もそうだ。

白人優位社会や男性優位社会などは、その典型的な例であろう。

本当に公平な世界を創ろうとしたこともないくせに、殆どの人間は「そんな世界はありえない」というだろうし、あっては困ると言うだろう。

創ってみればいいのに。。。

でも失敗するだろうことは容易に想像できる。

なぜなら、真の意味で公平にものを見られる人が少ないからだ。ある人から見た公平は公平ではなく、ある人から見た正義は正義ではないかもしれない。

AIを判事にしたとしても、AIは学習してしまうから同じだし。そういう時はある意味 学習しないAIの方が優秀だろう。

人間のいう事を容易に聴かない動物の方が、動物的には優秀であるのと同じこと。

もしもこの世に、真の意味で公平にものを見られる人がいたなら、その人は非常に気持ちがはがゆくて苦しいだろう。

そしてその人は何もできないであろう。

人は、思い込みによって”凄い人”になれるのだから。

夢を掴むとはよく言ったもので、生きたいように生きることは夢の中で生きるようなもの。

夢から醒めてしまった人は、夢は見られても二度と夢の中には入れないのだ。

 


カサンドラの子供 追記2

2021-02-27 19:50:10 | 物語

ちなみに私は引きこもっている時、最初こそ生活が荒れましたが、親がいない時間に自分のやるべきことを見出して行動していました。

週1で部屋の中で音楽流しながらジョギングしたり、放送大学で勉強したり、ノートに自作の詩や漫画を描いたり、ラジオを聴いて癒されたり、掃除したり、洗濯したり、TVで習った料理をしたり。家でできそうなことは全てしました。

全ては自分を”人間”にするためです。自分でやるしかなかったしもうどん底へ行った後だったから、こうして”やるべきことがあることだけが”生き甲斐でした。

大好きなチョコレートを一切断ってダイエットもしました。学校で配布された食品成分表で徹底的に食物に関して勉強し、自分で考案した糖質ダイエットをしていました。まだ、そんな言葉がなかったころのことです。ちなみに、”引きこもり”という言葉もありませんでした。

ですから私は、何の名称もつかない病気にかかったただの出来損ないだったわけです。(父に言わせるとただの怠け者になるわけですけれど。)

私は当時(2年間+退院後もっとひどくなって2年間)、家からは一歩も出られませんでした。玄関のドアを開けようと試みても、どうしても開けられないのです。自分は悪い魔法にかかってしまたのではないか?と本気で思ったこともあるくらいです。

自ら入院した時には薬も貰いませんでした。途中で家に姉が帰ってきてしまったので、逃げるが所がなかったのと、自立の仕方を知りたかったのと、自分に自信を持つとはどういうことなのか?普通とはなんなのか?そして、人間としての基礎を教えてもらいたくて、入院したのでした。

ネットも携帯もなかった時代なので、非常に苦しかったです。しかしもしも、現代のようにSNSやゲームが簡単にできるような環境だったら、あそこまで苦しまずに済んだ一方、私はいつまでも家から出られなかったような気がしてならないのです…。

 

ちなみに大人になった今、ネットで色々なテストをしてみるのですがこんな結果がでるんです。↓

男性脳と女性脳の割合テスト:49%・51%

右翼左翼リベラル保守どれよりかテスト:ど真ん中(どれ寄りでもない)

心理学:「あなたは嘘をついています!そんな人がいるわけありません!」(心理学って本当に嫌いです。私はいたって真剣に受けたのに。)

精神年齢:仙人

色テスト:世界の4%の人しか見分けられない色を見分けている。

IQ:110~130

 

”普通”とはなにか?”普通”ってどんなだろう?それを知りたがっていた私がなぜこんなにも普通過ぎる人間になったのでしょうね…。この年齢になって初めて知ったことですが、幸せとは、いかに自分らしさを貫けるかなんですね。貫くといっても必ずしも力む必要なんてなく、むしろ何も考えなければ考えない程、自分らしさは貫けるのが、本当のところなんだなと周りを見ているとしみじみ感じます。(現に私の母はとても単純な考えの持ち主であり、人生の終盤にはとても幸せそうにしています。友達は多いし、姉に対して手を焼くことを”悩み”と称しながらも手をだしています。)

何者でもない普通な人生がいちばん不幸せなのですよ。

「普通がいちばん幸せ」という言葉は、あくまで生活水準や家庭環境のことであって、本人の人間的なことではないんだな、と気づいた時にはだいぶ遅かったようです。

 


カサンドラの子供 追記

2021-02-21 18:44:48 | 物語

書ききれなかった、その他の母親の言動を書きます。

 

1. 「結納式ってどういうことするの?」という私の問いに、「女性が男性にお金を払うのよ」と言った。

2. 母本人が一人ぼっちでいることを全く寂しいと感じない人なので、子供が一人でいても大丈夫と思っている。

3. 子供の第一自立年齢(3歳頃)を理解できず、いつまでも手を出してくる。

4. 保育園で友達の作り方が分からなくて戸惑っている私に対して、「この子と仲良くしたら?」と、どこからか子供を連れてくる。それで終わり。(そういうことじゃないし、私にだって選ぶ権利をください!)

5. 同じことをしても昨日までは怒らなかったのに、あるとき急に怒る。

6. 子供が困っていることに気づかない。また、子供が明らかに変なのに気づかない。 中2くらいのとき、私がどうしても学校を休みたくて、母親を呼び出して正面に正座して「今日、学校休みたいんだけど…」と言ったら、母は「何?今日おばさんみたいな顔してwwww」と笑った。私はてっきり事情を聴かれるかと思ったので、もう一度繰り返し休みたいと伝えてみたけど、母は、繰り返し「おばさんみたいwww」と言って笑っていた。そして結局理由は聞かれなかった。「はぁーそう。わかった~」と言った。

7. 自分の夫の正確な名前を知らなかった。また、離婚した夫が再婚した時になぜか養子に入ったと思っていた。

8. 母が「ときどき自転車が移動しているのは、絶対に斜め上の住人がやった嫌がらせだ」と真剣な顔で言い張るので、それを信じた私(24歳)は大家さんに言いに行って恥をかいたことがあります。思い込みが激しすぎます。

9. 「お母さんは昔は何になりたかったの?」と小学1年生の私が聞いたら、「そうね。尼さんになろうかなって思ったこともあったっけ…。」と訳アリ気な顔で言った。私は幼いながらも、母には暗い過去があるのかと感じてしまった。

10. なんでもかんでもお金で換算する。物を壊すなよと教える時も、子供に対し「これを自分で買える?買えないなら壊さないこと!」と言われてきた。また、学習関係も習い事も生活すべてがお金に換算された。あれは何円するのにもったいない!とかそんなかんじ。例えば、全額払って途中で辞めたりしたら『死刑』って雰囲気でした。

11. 本文の中に、私が倒れた時に母親が救急車を呼んでくれないシーンがありましたよね?その時私は「あそっか、救急車ってお金かかるんだな。だから呼んでくれないのか。」と思ったのです。ちなみに私が救急車がお金かからないって知ったのは、25歳の時です。(後にただ、近所に恥ずかしいから呼ばなかったと分かりました。)

12. 極端に想像力がない。 たまにお弁当を作ってもらうと、切ったトマトやシロップ漬けの缶詰のみかん等をご飯の入った1つの弁当箱に入れるので、ご飯が水浸しになっている上に、ありえない味がする。ぐちゃぐちゃな無残に崩れた弁当を、クラスの子に見られないように食べなければならなかった。

13. 自分は絶対に悪くない。母は、いつもどんな時にも絶対に自分が悪くないと考える人で、こちらが正当なことを言うと「へりくつを言って」と言われておしまいにされました。私はへりくつではなく、まぎれもなく”理屈”を言っていたのに。 

 

とにかく母はなんでもお金に換算する人でした。お金が減ることはしてはならず、病気もしてはいけないし塾も1か所しか言ってはいけなかったのです。そう言われたわけではありませんが、そういう事なんです、はい。

そんなこんなで、私はパジャマのない生活を我慢していたわけですが、そんなさ中、母が鍋セット(40万円)を買って、私に「騙されて買っちゃった♪」と言うわけですけどね…。

しかもこれ全て、母は悪気なくやるのです。笑顔で。

私は兄のお古で我慢しているところ、姉が服がないとぎゃあぎゃあ騒ぐので私までが言うわけにはいかないし、母は自分の弟もお古を着ていたと言って終わり。戦後の子供と一緒にしないでほしい。と、いうかその前に現在ここにいる子供を見ていない。「人を尊重する」という言葉の意味が全くわかっていない人でした。

 

あと、子供ながらにこの人はいつも自分のいう事が絶対に合ってると思っているんだなぁ。とか、どうして私の言うことを信じてくれないんだろう?と何度も思ったことがあります。

 

他人から見たら、笑いごとにも見えるようなエピソードだったかもしれませんが、身内のしかも親がこうだと笑っていられませんよ。現に 私は必死でしたから。

人間は本当に必死な時って、愚痴を言えないんです。戦時中必死な思いして生きた人は、メンヘルで簡単に死にたいとか言う子供によくこう言うでしょ?「戦争中にはそんなこと言ってられなかった」

あの言葉にただただ「はぁ?」とだけ思う方は、想像力がないんですよね。

昨日まで画面で笑ってた芸能人の自死を「意外ね!」と言ってしまう人もそう。自死には意外もなにもないんです。小6の私が毎夕誰も見てないところだけで泣いていても、家族の誰も気づきませんでしたし。

ちなみに、私は未来の社会や宇宙のことを考えることで精神を保っていました。だって精神て、自分で保たないと誰も保ってくれませんからね。

 

私は小5の時に決めたことがあります。

1.溜息をつかない!

2.むやみに泣かない

3.自分に降りかかる事は全部自分の責任だから、自分がしっかりすればいい!

4.人を憎まない!

5.愚痴を言わない!

6.学校は行くのが当たり前だってさ。だから行けない子は弱いかおかしい。毎日行け!

7.泣き言を言う前に、なんとかする工夫&努力をしろ!

8.嫌なことから先にする!

9.「つらい」という言葉を言っても思ってもいけない。

10.笑う門には福来る。いつでもどんな時にも人の前では笑っていること!

これが、私なりに私が私に決めたことです。

 

母は幼い私の問に、こうも言いました。

「人間いちばん大切なものってなに?」と聞いた私に、

「忍耐力。我慢することがいちばん大事。」と言ったのです。

 

こんな親元に生まれて、何も躾をされず育った私は外でも本当に嫌な目にたくさんあってきました。

一体、いつまで我慢すればいいんですかね?こういう生き方が当たり前の人って、自分の意思表明することさえもワガママなのではないか?と思ってしまうんです。一応 ”甘やかされたワガママな子” として育てられたから。どこからが、不必要な我慢なのかが分からないんですよね。

ちなみに、私が私に言い聞かせた10箇条を親に言われたことがある人は、間違いなく愛されて育ってます。大丈夫です! ただ時代、あるいは言うべき言葉を間違っているだけなのです。

でも私の場合は全く別なんです。蜘蛛の巣にひっかかっていたら、人間として生きられないレベルだったので。

それをあの精神科医には、精神科の教科書通り一律で、他のみんなと同じにされてしまいました。

ちなみに私は引きこもった時にダイエットに大成功していますが、それも自分に自信をつけて家から出る為でした。よくガリガリに痩せたがる女性に対して親離れしてないから、まだ甘えたいからだ と言われてきましたが、本当は逆です。

痩せたり美しくなることは、ぶくぶく太って家でぬくぬくしている子供を見ていたい親に対して歯向かうことなのですから。

努力して痩せたのに、母には痩せたことを悪い事のように言われました。全く努力をしたことのない人 且つ 私を太らせた人がそういうことを言うんですからムカつきます。と同時に、精神科にも褒めてもらえないので、やっぱりいけないことだったんだなぁと思うわけです。

自立の仕方を教わろうとして言った病院で、青年期に作りかけていた自分の世界をみごとに壊されてしまいました。私が決めた私の10箇条も精神科医に否定されましたし。あれを否定されたら私は、動物として生きるしかないのに。

ああいう方々は、あきらかに失敗したとしても、プロとしての責任をとってはくれません。つまり彼らはプロではないのです。(※ここで言ってる”責任をとる”は、何も大袈裟なことをしろと言っているのではありません。せめて失敗したその時の料金や交通費くらい返すのが筋ではないですか?それでも時間は戻ってこないのでプラスマイナスゼロにはなりませんけども。)

話せば楽になる?いや、逆につらくなりました。自力で引きこもりをやめたのに再び引きこもりました。自分を信じる方法を知りたかっただけなのに、全てを壊されてしまいました。

最期に、「愛ってなに?」と人に聞く人ってよくいますが、愛の中に埋もれている人にはわからないんでしょうね…。私は答えられます。

愛の0歩目は「存在を認めてもらうこと(認めること)」で、1歩目は「尊重されること(すること)」です。

私は、姉が好きそうで私が全然好きじゃないものを親からもらったことがあります。そりゃ「ありがとう」しか言えませんけどね。その時のやるせないような、寂しさったらないですよ。

 

 


カサンドラの子供 5

2021-02-02 13:15:08 | 物語

 私は自室がなかったためどうしても母親の料理姿や掃除姿を目にしますし、お手伝いもよくしました。

そんな中でも、やはり母のおかしな行動はありました。

例えば、マヨネーズが容器の半分くらいの量になると母はよく容器の口に自らの口をつけて空気を吹き込んでいました。「汚いな」と思いましたが子供の頃は「それがマヨネーズにとって良い事だからしているのだろう」と思っていました。しかし、少し成長すると母のその行動は全く無意味なばかりでなく、口腔内細菌が入るし空気が入るしで寧ろマヨネーズにとっては悪いことだと知りました。母が一体なんのためにそのような事をしていたのかは不明です。多分したいからしていたのだと思われます。

また、牛乳パックの口が”あけくち”とは逆の方が開いていることがよくありました。たまたま母が開ける瞬間を見かけた時に、また反対側を開けようとしていたので、私が「こっちが”あけくち”だよ」と教えたのですが、「どっちも同じよ」と言って反対側を開けたのでした。後で知ったのですが、実は牛乳パックは”あけくち”の反対側はのりがしっかり付いているので開けづらくなっているそうです。母がなぜわざわざ(いやわざとかな)”あけくち”を無視して反対側を開けるのかは不明ですが、きっとそうしたいからしていたのだと思われます。

また、初めて作る料理でパッケージに作り方が書いてあってもそれを読まずに作るので、あまりおいしいとは言えない品物が出来上がったりすることが多々ありました。

また、私が保育園に生き始めた3歳の頃、まだ引っ越しする前で距離があったので母の自転車の荷台に乗せられて通っていました。母は自転車を倒し、幼い私が擦り傷や深い傷を負ったこともしばしばありました。そう言ったときも母は忙しいからか共感することはありませんでした。

本当にただの荷台に3歳の子供を乗せていたので、足を乗せる所がありませんでした。1度 足が自転車の後輪にからまってしまい、そのまま倒れて大怪我をしたことがあります。その時の傷はまだ消えていません。当然、毎回痛かったので泣きました。度々倒れる自転車・・・こんな思いをして保育園に行くなら「行きたくない」って思うのが普通でしょう。今思うと不思議なんですけど母は一緒に転ばず、全く怪我しなかったんですよね。。。

さらに、普通なら子供に言わないような事を言う(看護師かつ親であるのに、子供に「自分が病気ではないか!?」と発言したり、仕事の愚痴というより子供の私はあった事も見たこともない人の悪口)などを平気で言うなどもありました。

大人になってから知った話ですが、母は病院を辞めるときよく院長に”たてついて”辞めていたそうです。また、辞める時にはお菓子などを一度も持って行ったことがないということです。

母がそうだったので大人になった私もまた、職場を辞める時にお菓子を持って行くことはありませんでした。しかしある職場である人が辞める時にお菓子を持ってきたのを見て、その方が良いしそれが普通なんだなと知りそうするようにまりました。その方が自分の気持ちも晴れやかですし、そうすることのメリットの方が多いと理解しました。

母についてここで言いたいことは要するに、相手が子供であろうと大人であろうと上司であろうと誰であろうと関係なく自分の言いたいことを言い、したいことをする、そしてしたくないことはする必要がないと独断で決めて行動するわけです。

多々あるこういったところが、母親が発達障害ではないかと疑う理由の一つでもあります。他人と自分の立場や物には理由があってそうなっていること等を、理解する前にとにかく”したいからする”のです。

中でもいちばん引いたのは、以前にも書きましたが 母がトイレの便器内の水でトイレ全体を掃除しているのを見かけた時です。さすがにその場で注意しましたが、どうも治っていなかったようです。

兄も姉も自室があったせいか全く母の手伝いはしませんでした。よって母の掃除している姿も見ていませんでした。

知らぬが仏ですね。。。

自室を与えられなかった私は小3くらいになると、手伝いをせざるを得ませんでしたし楽しく進んでやっていました。学校が長期の休みに入ると私が毎日、母親の代わりに掃除やお米研ぎをしていたと言っても過言ではなかったです。

それでも兄はよく私にこう言ったのです。

「お前はわがままだ」

 

小3の私が夏休みの午前中にいろんな棚の扉を開けて空気の入れ替えをしていると、遅く起きてきた兄にによく怒られたものです。空気の換気のために開けていると思っていなかったのでしょう。いやでも、換気目的以外になんのために開けるっていうんでしょうね??

 

そんな兄は、良い大学へ行ってそのまま都会へ一人暮らししたのですが、柔軟剤を洗剤だと信じて使用していました。

泊まりにいったとき「朝ごはんはちゃんと用意したから先に出るわ」と言われたので、翌朝起きてからどこにあるのか探したのですが、ベッド下のお菓子以外食べ物はありませんでした。(冷蔵庫はなし)

車の運転をすると、相手よりも自分が悪いのにパッシングして注意したつもりになっていたり、ただただ自分の好きな曲だけ流したり(母も小4の私にオフコースや演歌ばかり聞かせましたけど。)

私が都会で一人暮らしをする時部屋を借りるときの保証人になってもらったのですが、いざ契約する時になると仕事が忙しいからと言って、中々1枚のファックスを送ってくれなかったりもしました。

でもこう言うのです。

「困ったときにはメールしてね」

苦笑。お気持ちは、ありがたく頂戴いたします・・・。

 

母はよくこう言いました。

「〇〇(兄)は、わたしに似たのね♪」「〇〇(姉)は、生まれつきおかしかった(自分のせいじゃない)」

父はよくこう言いました。

「うちの女の子は教育に失敗した お前(母親)が悪いんだ」

また両親ともどういう訳か、姉と私の区別をハッキリとついていない様子でした。しつこいようですが年齢は4つ違いますし、性格は全く違います。

母はなにかと私を褒めました。しかしそれは私にとって、大袈裟か身に覚えのない賞賛でした。何故そうなるかというと、母は私をきちんと観察していませんでしたし人格を尊重してこなかったため私というパーソナリティを理解していなかったからに他ならないのです。

逆に姉のことはよく分かっているようでした。”手のかかる良くない子”とうい意味でです。

 

母の行動はいつも問題を起こす姉に向けられていたため、私の成長の過程でおこった出来事や相談事をする時間はほぼ全くと言っていいほどありませんでした。

たいてい私が困っているときに限って姉が問題を起こす、ということの繰り返しでした。

その上母は私が小さなころから働いていたわけですし、自分のやりたいことには敏感なわけです。

ですから、母は私という人がどんな人間なのか分かっていないのです。

おまけに姉は20歳を過ぎても30歳を過ぎても、「昔自分はおまえに愛されなかったからこうなったんだ!」と母親を責め続けました。そして母親はお金を与えていました。

私から見たら、姉は十分手のかかる子として愛されていました。姉のためによく母親は行動していましたし悩んでいました。しかし姉の頭の中では、いつでも自分以外の人が悪くいつまで経っても親の愛情不足でした。

 

今では彼らに会わない私ですが、それでも結婚式にはもちろん家族全員を呼びましたし、父と母と兄は結婚式に来てくれました。

その後しばらくは交流しようと努力したのですが、(まだ自分がカサンドラということを分かっていなかった時から)どういうわけか彼らに会うと暗い気持ちになるのです。家族なのに。

 

自分に問題があるのかと思ってよくカウンセリングへ行ったものです。しかしさほど意味があったとは思えません。

実は18歳の時、自立しようと頑張っている矢先に、急に実家に帰ってきた姉から逃げたい気持ちもあり 自ら精神病院に長期入院したことがあるのですが、マイナスな経験となっておしまいでした。(その時、薬はもらっていません。自分的には避難するためと自立するためだったので。)

それまで私は自らが私の親になるしか育つ方法がなかったわけですが、病院の先生はどうやら私に問題があると仮定して全てを進めていったので無意味どころかマイナスだったのです。まるで警察に冤罪をかけられて取り調べをされているような感覚でした。

結果は、私の中のたったひとりの本物の親が心の中から居なくなっただけにすぎず、私が必死でしがみついていた藁をもむしられた結果となりました。精神科医の先生は、私が親に愛されたいと感じていると勝手に仮定したのです。しかし当の本人は全くの逆で、早く自立して外へ出たいが方法が分からなかったから病院を頼ったのです。マイナスでしかありませんでした。

あの家庭と、甘やかす母(私の要求を受ける意味での甘やかすではなく、教育や躾放置の甘やかしです。)は、私にとってみれば 絡まったら最期の”蜘蛛の巣”だったのです。18歳の私は、早くここを逃げないと絡まって一生逃げられないだろうと予感していたのです。

それなのに、「家庭でもう一度甘えてきなさい」というのが精神科医の答えでした。また、その精神科医は私が全く思ってもみなかったことを言ったのです。「親に愛されなかったんだね」白衣を着たプロの先生にこんなことを言われたのですから、本当のことにちがいありません。それまでそんなことは感じたことがなかったので、驚きました。

また、「言いたくない事は言わなくてもいいよ」とおっしゃったので何も言わないでいると、遠まわしに叱られました。

そしてよく昔のエピソードを話すように言われ、その時どう思った?とよく聞かれたのですが、その時の自分がどう思ったかなんて、その時に戻らなくてはわかりません。

さらに、小さな言い間違え(したい⇔しなければならないの言い間違いや、明らかに悪者があっても誰も悪くないと諭されたり などなど)を指摘されたので、とても疲れました。

私は、人に話しても解決しないことは話さない性格でしたが、彼らのやり方は「話せば楽になる」の一点張りでした。実際は話せば話すほど、苦しくなり”私”が崩れてゆきました。

最後の面接で父親と母親の直してほしいところを言ってくださいと言われたので、思い切って素直に言ったのですが、両親には伝わっていませんでした。一体何のために言わされたのかが今でも分かりません。ただ他人に恥をさらしただけでした。

ちなみに、私は別に親に直してほしいとか思っていませんでした。親は親であり自分は自分で別の人間ですし、子供の頃の体験から私が何を言っても治らないのは分かっていたからです。

「親は親であり別の人格を持っているから、多少の理不尽なことはしょうがないのだ。」という考え方により、間違いなくそれまでの私は救われていたのです。

 

「親に愛されていない」という言葉は明らかに、あの時の私にとっては不適切な、言うべきではない告知でした。もし言うなら、親に言うべき言葉です。それを私に言われても困ります。一体、私にどうしろというんですか??ガンですねと医者に告知されて治してくれないのと同じことです。それに、これは遠まわしに「親を憎め」と言っているに等しいのです。親を憎むということは、私が自分の人生を歩むことを遠ざけることでもあるのです。

プロの医者が、「あの姉と同じムジナになれ、姉やってることの方が正しかった」というのです。そして医者は、私に「正しいとか誰が悪いとかない。」と自ら言っておきながら、自分の正しさだけは絶対に変えようとはしませんでした。私は医者に聞かれたエピソードについてその場で悪かったのは誰だったのかを知りたくて話ましたし、一人一人のパーソナリティをいちばん大事にしていました。「人は人、自分は自分だから」と思って生きてきたからこそ18歳まで生きてこられたのに、医者がそれをごちゃまぜにしてしまいました。

私が丁度多感だった時代は、このような酷い時代でした。精神科なんてまだ確立していないことも多く、(DMSなんて今や5です。つまり5回も改定されているわけです)私たちのかかった精神科はまるで実験科でした。

その後私がいかに苦しんだかはご想像にお任せします。

とにもかくにも、精神科医は私の掴んでいた藁を抜き、私の心のカサブタを無理やり剥がすと「もう大丈夫ですね」と言って退院させたのです。

退院直後実家に帰った私は自分を無くし、混乱しました。それまでの人生より苦しいことになりました。

元々武器を全く持っていない私の、せめてもの鎧すら全て剝ぎ取られ、全く外へ出られなったのです。人として生きる希望を全て失ない、全てが以前よりもひどくなっていました。あの時期はまるで地獄でした。

外へ出られなかったのもあって、精神科医との面接は代わりに母親に行ってもらいました。その裏の本心では、母親を診てもらいたかったのもあったのです。

母親といろいろと家庭のことを話しているうちに、「医者なら分かるはず」と思ったのですが、その医者は分からなかったようです。

結局、本当に病院へ行くべき人をみつけてはくれませんでした。

 

 私は思春期からつい数年前まで、自分がカサンドラだとは気づかず色々な精神的な病様の症状が発生しました。過食症、引きこもり、寡黙症、鬱的症状、アルコール依存 などです。友達もできませんでした。まるで私が発達障害かうつ病のようでした。

どのケースも自ら病院やカウンセリングに頼っています。いつも私が病院へ行く、つまり”自分を直さなければならない状況”に置かれていました。そして結局のところ、いつも自らの努力によって克服してきました。またいつ再発するか分かりませんが、そういったキケンがあることは知っています。

私が一人暮らしに疲れて実家に帰ってみたら、私の部屋は父の愛人の部屋に変わっていました。私の愛デスクは雨ざらしになっていて、いつか取に行こうと思っていた私の大事なノートや教科書は1階の元事務所に 兄のや姉のとごちゃ混ぜにされ、どれがどれだか分からない状態になっていました。

すっかり愛人の部屋と化した私の部屋見せられて、呆気に取られている私に父はこう言いました。「きれいになっただろ!」

私はテレビでよくあるように、暖かく迎えられるのをちょっとばかり想像していました。今まで嫌な思いばかりしてきた家ではありましたが、久しぶりに帰って、まさかここまで酷い目に合うとは思ってもみませんでした。

私もバカですよね…”家族”というものをあまく見ていました。

 

そんなこんなで、いろいろと苦しい思いをした故郷ですが、なぜか私はあの場所が今でも好きです。山とか河とか空気、そして物をです。今考えると、そんな風に思える理由は、私が崖っぷちで色々工夫し投げ出さず一生懸命だったからに他なりません。

しかしもう帰ることはないでしょう。迎え入れてくれる人は一人もいませんし、あの頃のあの空気はもうどこにもないのですから。今実家は姉がひとり、暮らしています。

しかしいくら心の中にある故郷を懐かしく思えたとしても、実家・姉から虐待を受けながら目にしたTV番組などを見ると、懐かしいと思うよりも気持ち悪くなって変に暗い、なんとなく吐きたい気持ちになります。

そして小学1年生から一人ぼっちにされた、あのダイニングの窓から差し込む まぶしい西日が大嫌いなのです。

 

 

終わり

 


カサンドラの子供 4

2021-01-12 10:21:59 | 物語

 幼少時代は、独りぼっちでいることが多く引っ込み思案で無口でいつもぼーっとしていたので、見る人によっては私のことを「発達障害ではないか?」と感じる人がいたかもしれません。

実際に、私自身も「なぜ周りの子のように友達を作れないのか?なぜこんなにあがり症なのか?なぜ他の子に意地悪されるのか?」など分からない事が多く、「自分は自閉症ではないか?(小6だったので自閉症の意味を正しく理解していませんでした)」などと思ったものです。

大人になってから、ネットが進みあらゆる診断をしてきましたが、全くひっかかりません。IQもいたって普通です。時には電話で相談もしましたが、「ちゃんと話がわかりやすくできているしおかしいと思わない」と言われました。

 

 どうもうちの姉は、頭がいいことがいちばん大事と考えていた節があり、内弁慶の私が外で発散できなかったエネルギーを家の中で動くことで発散していると、それを見て「この子は頭がおかしいんじゃない?」などと聞こえるように母に言って私をバカにしていました。(ちなみに「デブ」も言われました。ぽっちゃりしていたかもしれませんがデブではありませんでした。)

姉からは、「小学校にあがるとIQテストをするんだけど、120以下はバカだよ」とよく聞かされて脅かされました。

ただし私の通っていた小学校では、IQテストの結果を教えてくれませんでしたので、私のIQがいたって普通であることは大人になってから分かりましたし、姉がIQ80であることは、姉が40歳になって発達障害の診断をもらった病院で発覚したのでした。

私は、最初から初めての社交場である保育園に溶け込めなかったことや、性格的にあがり症で内弁慶だったこと、姉とばかり遊んでいたせいで普通の子供との接し方が分からなかったこと、挨拶すらしない家庭であったこと、母親が私と普段の会話をしなかったこと、小1から鍵っ子でいつも一人だったこと(その頃は兄も姉も年が離れていたから私とは遊んでくれなかった)、母親が私の成長を深層心理では喜んではいないこと、姉や男子にバカにされ続け自信を持つことが一つもなかったこと、成長すると自分の家が恥ずかしい家であることが分かってきたこと、などが合間って友達が全くできませんでした。

母が普段の会話をしてくれなかったと書きましたが、母は私をいつまでも”意思のない赤ん坊”だと思っているので、挨拶はしませんし自ら何かをしても褒めません。

しかしその割に、私は赤ちゃん言葉を教わっていないのです。他人の赤ちゃんが車のことを「ブーブー」と言ったり、犬を「ワンワン」と言うのを初めて聞いた時、「え?この子は大丈夫なのか?」と驚いたくらいです。つまりこれは私が一切赤ちゃん言葉を使ったことがない証拠なのです。

また、小学校の時に私の言い放った言葉は同世代の子に笑われることが多かったような気がします。きっとちょっと変わっていたのでしょう。

毎年度クラスに一人は私に近づいて来てくれる女の子はいましたが、私がどう接していいか分からず何を話していいかもわからず、また、「私なんかと一緒にいたら迷惑をかけるのではないか?どうせ途中で嫌われるんじゃないか?」など色々な思いが重なって、自然と離れてゆきました。(今考えると、私の方から嫌ったように見えたかもしれません。本当に私は情けない子供でした。)

あの家庭で生まれ育った私には、とにかく他人と深く付き合う術がわかりませんでした。

 

前章で書き綴ってきたように親も兄弟もドライで非情だったので、私もまた、半生の全般では少しそういう考え方を受け継いだところもありました。

例えば、自分が怪我をしたとしても”痛くても泣いて治るわけじゃない”(つまり、怪我をした他人に対しても自然とそういう考え方になるわけです)とか、動物は人間よりも下等な生き物なので”本当に邪魔になった時には人間の都合で破棄してもよい” というような考え方です。(母は猫なんて嫌いと言っておきながら去勢をしなかったため、子猫が増えすぎて学校の近くに捨てていました。私は母からそれを聴かされていなかったため子猫を家に持って帰りました。)

この考え方は社会に出てから徐々に違うなと感じ、変わっていきました。

もちろん、今の私はそんな考えを持っていません。

このような考え方の親は、末っ子という存在を”意思を持たない人”と考え最後の子供だから親の感情で何をしてもよい(何もしなくてもよい)と考えるのでしょう。

現に、母は幼児の私に対して歯のブラッシングを殆どしなかったらしく、私が物心ついた時には、歯が半分くらい無い状態でその他の歯も虫歯で黒くなっていました。

鼻もかなり調子悪かったのに何もしてくれなかったので、臭くて水みたいな鼻水がポタっと落ちてくることがよくありました。(戦時中の話じゃないですよ!)

ちなみに、兄が中学になって よく鼻血が出るようになったとき、母は心配して病院へ連れて行きました。私は病院に付き合わされたので、母が兄に親身になって悩み病院へ連れて行ったのをよく覚えています。

 

姉とばかり遊んでいる時は、なんとんなく”こんな事をしていていいのかな?”という思いや、姉の奇行で心が暗くなることが多くありました。だからか分からないけど、よく肩が凝ったものです。私が4歳とかの話ですよ。

今思うと、私が いたずらっ子の姉を子守してくれていたので、母親からしたら楽だったのでしょう。しかしそのことは、母にも本当に自覚がないのです。多分、深層心理ではそのような(自分が楽したいという)考えがあったとは思われますが、本人には自覚がないのです。この世に自覚がないこと程、厄介なものはないのです。

 

母は鼻の悪かった私に、「学校で堂々と鼻をかめばいいじゃないか」と言ってよく私にティッシュを持たせてくれましたが、私は母と違って生まれてこの方女性としての感覚を持っていたので、人前で鼻をかめず、トイレにいって水を流しながらこっそりかんだのを覚えています。

一度だけ母の言うとおりに遠足のお弁当の時間に人前で鼻をかんだら、案の定人に嫌な顔をされました。母があまりにも、それが普通のことのように言ったからやったのに「やっぱりね…」の結果でした。

小6になって生理がはじまったとき、あぁ嫌だな~これさえなければいいのに!と思ったことを素直に母に言ってみたら、「お前は男みたいだね」と言われました。いや、そういう意味で言ってないですよねw。どう考えても面倒くさいだけで言っただけしょ? だってプールも入れないし、一週間もナプキンを付けるなんて小6には面倒極まりないでしょう。まさか小6で排卵がどうのとか、妊娠がどうのなんて考えませんよ!(笑)

でも母には”小6がそれを言っている” ということが分からないみたいで、排卵しなくてもいいのに 将来妊娠なんてしなくてもいいのに という意味で言ったように捉えたみたいです。

このように、相手の年齢に見合った会話ができないのも母の特徴でした。今考えると、母の口からは 話している相手の立場に立った言葉を一度も聞いたことがないように思えるのです。

 

こんなエピソードもあります。

幼稚園の年長のときには、みんなが白いピアニカを持ってきているのに、私だけ母が買った”緑色に鍵盤全色が違う色”というカラフル過ぎて恥ずかしいピアニカだったことも覚えています。

保育園最後の運動会で使うそのピアニカは小学校上がっても使うだろうと思って買うはずです。普通、永く使えるようなクラスで浮かないような 白いのを買いませんか?(もしかしたら嫌がらせだったのでしょうかね…?いえ嫌がらせではないんです。だからこそ母は発達障害ではないか?と思うのです。)

どんなのがいいか分からないなら、一緒に買いに行けばいいのにそれもしてくれません。

いつもいつの間にか買いに行ってしまうし、いつの間にか大事なモノを捨てられていて、末っ子の私が知るのは事後でした。とにかく、私の意思や気持ちを聴くということを一切してくれませんでした。

割愛しますが、他にもこういったことが多々あります。母が私を一人の人間だと思っていないことがよく伺えます。母は自分がこれでいいだろうと思ったモノを買い与えるだけで、「その時私がクラスでどんな思いをするか?将来も使えるのか?」ということを一切考えない人でした。

こういう子供がクラスメイトからいじめられるのは必至でしょう。

私はその都度、我慢しました。普段からお金がないと言われているので、買ってしまったものは仕方がありません。

 

 母は、姉が小さなころには縫物をよくしていたそうなのですが、私が物心ついた時には、家のローンのために働きに出ていたのでそんな余裕はなかったのでしょう。私の記憶には殆どありません。お菓子作りなども全くしませんでした。私が小3くらいになって編み物をしていたので、どうやるの?と聞きましたが、教えてくれることはありませんでした。”末っ子”には何もできないと思ったのでしょう。知りたいことを質問してもいつも、「大きくなったら(自然に)分かるよ」と言うだけでした。(私なら、一緒にネットしたり図書館に行って調べるか、忙しくて時間がなくても調べる術を教えます。)

大きくなって初めて「化粧をしたい」と母に言った時も、デパートではなくその辺のプレハブ小屋みたいなその場限りの化粧品店に連れて行かされたので、デパートの1階で売っているのを知ったのは、二十歳を過ぎて街に働きに出るようになってからです。

また、家に帰ってからも”化粧のしかた”を教えてくれるかと思いきや、笑ってごまかすだけで教えてくれませんでした。

昔から母は、デパートに行く時には着る物を選ぶのに時間がかかって大変だったため殆ど行きませんでしたし、化粧に興味のない子供時代には化粧品売り場は目につきませんので、知らなかったのです。

今考えるととにかく、母は女としてかなり変わった女性でした。

一度、姉がお風呂に入っている時に家の脱衣所が覗かれたという事件(りっぱな事件です)があったのにかかわらず、その後もずっと脱衣所の窓もお風呂場の窓も開けられていました。湯気を逃がしたいからだそうです。理屈は分かりますが、普通女の子を持つ母親なら締めます。ちなみに家には塀もなかったのです。

 

 

 昭和の時代には世の中にも、ろくな大人がいませんでした。

新幹線みたいな窓も開かない電車の中で、どんなに小さな子供がいても大人たちは平気な顔をしてぷかぷかタバコを吸いましたし、道はゴミだらけでした。(私たちが二十歳になったくらいから私たちの世代の意思によって道にゴミを捨てなくなりましたが。)


学校の先生は当たり前のように子供を叩いて怒りましたし、性被害にあった子もいたようです。なんらかの事情で不登校になった子供に対して「登校拒否をしている」と言い、TVに出ているちょっと有名な男性は女性と不倫をしてなんぼだと思っている時代です。

真夜中になれば、平気でHな番組もやっていました。もちろんなんの保護もないので、未成年だって見られます。

そしてそんな中で私は小4のとき、おばあさんに近い年齢の女性教師にいじめられていました。被害妄想ではなく、明らかにいじめでした。その根拠はエピソードを上げればいくらでもありますが、この物語には直接関係ないので割愛します。

時代背景だけ書かせていただきました。

 

他にも、母のおかしなところを抽象的にかつ時系列なしで上げてみます。

父が再婚した後、母は弁護士の無料相談会に出向き私も付き添ったのですが父の再婚を「養子に入った」と表現するので弁護士さんが少々意味不で困っっていたこと(私が修正しました)や、相手が何歳で誰であろうとも思ったことをなんでも口にするので子供の立場である私を混乱させたことや、ガンとして自分の言い分が間違っていないと言い張るので、子供の私がいつも折れるしかなかったことなどなど…

 

とにかく、私がどのような状態だったかを感じ取っていただければそれでよいのです。下の妹や弟が発達障害なのとはちょっと違うんですよね。

ずっと年上に逆らってはならない、それが普通だと思って生きてきました。

そして家庭の基準で学校生活や社会生活を送るため、外へでると恥ずかしい思いばかりするわけです。それがおかしなことだと分かると、恥ずかしい思いをし、友達がいなくなるのではないか?という不安といつも隣り合わせでした。

そんな私は”自分が悪いのだ”と思うことで心が慰められていました。そういうものなのです。人のせいにしたら私は既に生きてなかったでしょう。

”全てが自分のせい”そう思わないと生きていけないのです。

ちなみに私は、小6の時に毎日ように自殺を考えていました。母が帰ってくるまで、兄も姉も自室に居て誰も居間にはいなかったので、誰もいない時間を見計らって泣いていました。もしも誰かがトイレなどに1階に降りてきたらいけないので、コタツに潜って鳴き声を殺して泣いていました。

そして勿論、母が帰ってきたら普通にしていました。

ここではとにかく、カサンドラの子供がどんな状況なのを分かってくださればそれでよいのです。

 

 

続きます。

 

 


カサンドラの子供 3

2021-01-06 10:07:38 | 物語

 正確な年数は忘れましたが、兄には約7年、母には約10年、父には約17年、姉には約24年の間、会っていません。

私は末っ子によくある母親っ子でしたので、今でも母とは電話では話します。その電話の内容は大抵、母と姉の現状を聞くことと、私がちゃんと意見を持った一人の人間であることを教えるための会話なのかもしれません。(会うのは御免です。会うと必ず私が嫌な思いをするのが分かるからです。)

とはいっても、人間の考え方の癖はそう簡単に変わるものではないので、本当に変わってくれることを期待するよりも、友達のいない私が話し相手にどうしても困ったときに電話することが多いです。

衣・食・住だけ与える ”放任主義” という名の ”放っとく教育” を受けてきたとしても、結局のところちょっとでも私の味方をしてくれる可能性のある人は母親だけだったのです。ですから私は、母には嫌なことは嫌だと気兼ねなく言えましたし、喧嘩もしてきました。父とは最後まで、心が通じ合ったと感じたことはありませんでしたけれども。

子供といえば、夫婦喧嘩を見た時は母親の味方ですし、女の子は思春期になると父親が嫌いになります。後に嫌いという感情がなくなったとしても、それまで殆ど話をしなかった父との溝はそのままでした。

特に一度でも家族を酷く裏切った人は、悪いけど無理です。

ちなみに、家族の誰も今私がしている職業も住所も知りません。電話番号は、母と兄と父が知っています。しかし母と兄の方からは、かかってきたことはありません。兄は「困ったときには言ってね」とメールで言ってくれますが、目の前で姉にいじめられていても助けてくれなかった人です。おかしいでしょ?()

しかしまぁ、人間というのは ”人を助けてあげたい” という ”欲” を持っているものです。そういう意味では心からのお言葉なのでしょう。お気持ちだけありがたく「ありがとう」と受け取っておきます。

父からは一度だけ番号を通じてSNSに誘われましたが、無視しました。ある日大けがをして兄だけ病院へ会いに行ったエピソードを後で兄から聴かされましたが、その時には父には新しい家族がありましたし、特別になにか思うところはありませんでした。

 

 さて、私に友達がいない理由ですが、保育園に入園したその日から外部の同年代との接触に失敗しているからです。

知らない迫力のある男の子が、教室に入るやいなや私のところへ来て「ブス!」と言ってきたのです。これでもうダメです。当たり前ですよね?こっちは意味が分かりません。そして明らかに悪意のある悪い言葉です。何も悪い事をしていないのに。

あまりに突然だったので気持ちは萎縮しますし、内気な女児が最初から園に来ることに不安があったというのに、いきなりこれなんですから。しかも、それを見ている周りは誰もそれを良くない事だと諭しません。

私はそれまで、自分の顔について全然考えたことがありませんでしたが、いきなり指摘するほどひどい顔なのかなぁと考えました。見ているとイライラするような顔なのかなぁ?と。それから小学校6年生まで、私は下を向いて歩くことになったのです。

せめて幼稚園や保育園は、気の弱い子供と迫力のある子供とをクラス分けするべきだと私は思っています。

しかも私は途中からクラスに入ったので、右も左もわかっている子供の中に、ポンといきなり右も左も分からない3歳児が入れられたのです。なんの心の準備もできていないのに、嫌々連れてこられただけなのに、いきなりこれです。

それだけではありません。県民性もあると思うのですが、同世代の子供たちは、とにかく浅はかで意地悪でした。

例えば、おやつにバナナがでます。バナナは前から順番に回されて房から自分で取るシステムでした。私に「ブス!」と事あるごとに言ってくる男の子はいつもいつも、シールの付いたバナナを先生からもたっていました。

私は背が高い方だったので、いつも最後の方でしたし、周りの女の子も自分がいいバナナを獲得することしか頭になく、いつも腐ったような茶色いバナナが私のところへ来ました。

「わざとだな」と感じましたが、誰にどう訴えていいか分からず、いつもそれを嫌嫌食べていました。いくら嫌だとして私が誰かとそれを交換しても、その人が私の代わりに嫌な思いをするだけなのですから。

言っておきますが、私の運が悪かったから汚くて茶色いバナナが私の所へ来たのではありません。現に、おやつにバナナが出た時には毎回こうでしたから。

用意した先生も含めた周囲の子供たちの意思です。つまりこれは、りっぱな ”いじめ” なのです。

同世代の児童たちは、私の足を踏んでも謝らないし、いつもいつもたった一人ぼっちでいる私を遊びの和の中に入れてくれるような児童は、誰一人としていませんでした。(途中から入園した私は、溶け込めず誘われるのをずっと待っていたのですが)

なんでじゃあいつも待ってるだけなの?と思う人もいると思います。初めて社交の場に出た内気な私には友達を自分から作るなんて、とても大きな壁でした。友達の作り方を教えられたもいませんでしたから。せめて、母親が配慮できる人だったら違ったかもしれません。

私なら、友達にかけるべきセリフを教えてあげます。

ちなみに、ここまで書いてお分かりだと思いますが、保育園の先生の目はただの節穴でした。

例えばある日、独りぼっちの私は、お庭のウンテイで縄跳びで首つりの真似をしたことがありました。みんなと遊んでいる最中だったある女性の先生が、それをみつけて「そんなことしたら危ないよ」と少し離れたところから言ってきただけで、すぐにみんなと遊びに戻りました。おかしいでしょ?()

このように、私の周りには大人がいませんでした。

このウンテイ事件の時、小さな私がどう感じたか想像つきますか?(あえて具体的には書きませんけども。)

確かにこの広い世界には、好んでたった一人で遊びたがる子供もいるのかもしれませんが、私はいつも誰かが誘ってくれるのを待っていました。

だからこそ隠れて遊ばず、いつも誰かに見えるところで一人ぼっちでいました。(ひとりで居ることを見られるのが恥ずかしい日には隠れて遊んでましたが。)そしてあえて見える場所で首を吊る真似をしたわけです。

周りが楽しそうに「きゃーきゃー」大きな声を出して、好き勝手に自分のエネルギーを発散しながら遊んでいる中、私だけはそれをする場がありませんでした。ただ、内気だというだけで。

(誤解されやすいのですが、内気な人は特別我慢強いわけではありません。表には裏があるように、周りが好き勝手やれる背景にはその逆の人が必ずいるのです。ですから、たまには代わってあげてほしいです。そのチャンスを与える仕事をするのが親や先生です。それができないのであれば、最初から適正検査をしてクラス分けをするべきです。”修羅のクラス”と”天使のクラス”ってことで。)

そんな中でもたまに、園長先生が私に名前つきで話しかけてきてくださいました。(いちばん偉い人なので)緊張しながらも敬語で(とはいっても「はい」程度)受け答えたのは覚えています。名前を呼んでくださったことで、この園長先生だけは、少なくとも一人一人を見ているように感じました。

 

突然ですが、ここに ”いじめられやすい子供” の共通点を書きます。

●親に真の意味では大切に育てられていない。(親の身勝手で甘やかされたり放っておかれたりした。また、一人の人間として成長する過程を紡ぎ育む教育をされていない。)

●よって親から真の意味での愛情を注がれていない。親だけが気持ちいい身勝手な疑似愛情は、その子にとって迷惑な事の方が多い。(別の脳みそを持った生き物として尊重されていない証。)

●その延長線で、家でも意見を言わせてもらえないので、自分の意見の言い方がわからない。よって外に出ても、級友などに ”意思のない人” と思われがち。

●家庭で挨拶をしないので、いきなり外で挨拶ができない。(私の場合は、心の中では凄くありがたいとか悪いなぁと思っていても、言葉として「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉は、とても気恥ずかしくて言えなかった。言ったらウソになるような気すらした。)

●自分に自信がない。(いつも親にとって ”いい子” である またはいい子でなければいらない環境だから、自分の好きな事や嫌いな事が考えないと分からない。よってその場ですぐに「嫌です」と言えない。また、言うとそれはワガママであり相手を怒らせてしまうと思ってしまう。)

●誰からも正しく助けてもらったことがないので、他人の助け方も分からない。

●自分の家族を、恥ずかしい家族だとどこかで思っている。

などなど、他にもあると思いますが。

ただこれらはどうして起こるのかというと、親が子供が出来たという現実に、いつまでだっても心理的に”腹を括らない”(または括れない)からなのです。

腹を括っていない親は、相手側(=自分の子供)に対して、人として共感することもできないし、学校やいじめっ子の家に注意をしに行くなどの、自分の子供の為に具体的な行動をすることができません。また、子供が大変悩んでいるのに直視できないため妥当な所に相談することもしませんし、自分の子供の話をちゃんと聞くこともできない親すらいます。

また、そういった話を自分の空いている時間にしか聞かない親もいます。

そういう親に聞きたいです。自分の空いている時間=その子が「ようし、思い切って言ってみよう!」と思う時間 ですか?

またそういう親は、もし自分の子供がいじめられ不登校になったとしても、それは想定外のことであり、まず驚きます。(この世はいつの時代にもいじめの連続であるのに、自分の子供には無関係だと思うことの方がおかしいのだが。)

そしてただただ慌てて蓋をし 無かったことにするか、アドバイスにならないような(自己満足の)意味不明な言葉を言い放ってしまうのです。子供に起こっている現状と心理よりも、自己の安心感を求めてしまうのです。

そうならない為には、子供が生まれると分かったその日から、夫婦で話合って子育てのルールを作るべきです。ルールのない子育てなど、生まれてきてくれる子供に失礼極まりないだけです。セッ○スを一人前にできる大人なのなら、それが出来そうにない相手を選ばないことです。

男性も、責任を持てないのならそういうことをするべきではありません。避妊は失敗することもあるんですから。そして体を傷つけるのはいつも女性であることも、肝に銘じていただきたい。

女性にも言いたい。そういう気持ちのない男性は、あなたの事を愛していません。「そんなの関係ねぇ!」という女性は、セッ〇スが気持ちいいからというだけで、好きになってしまったという”錯覚を犯している”だけです。それは新しい命に対して、大変失礼なことです。

 

障害やカサンドラとは、多分あまり関係のない ”いじめられやすい子供” について熱く語ってしまいましたが、本題に戻りましょう。

 

兄に関してですが、ここに実はあまり書きたくない思い出があります。

小学校1年生くらいの私は、姉に性的虐待に似たことをされていました。

4つも年上の大きくて重たい体が上にのしかかってきて、上から唾をはかれたり、下半身を脱がされて露わにされたり、それを兄に見せてこいという命令をされたりしたのです。

その命令をもし拒否したら、どうなるかはお分かりいただけますよね?幼く力のない私は、もっと酷い虐待を受けないためにもやるしかありません。

普通の人なら傍から見ていても、それが分かるはずです。

しかし中学生お兄はそれを見て、”何をバカなことをやってるんだ” という ”ろくでなし” を見るような顔をして横で騒いでいる私達を無視してTVを見続けていました。私は姉に同意してやっている風に見せていましたが、反面、心の奥では「分かるでしょ?助けて」と思っていました。が、兄にその思いが届くことはありませんでした。つまり兄にとっては、私はそういうことを自主的にする子なのです。

なんで紛らわしいことをするの?って思った人に言い訳を言いましょう。「私だって、兄が絶対に助けてくれるような人間だったら、素直に助けを求めています。」

他にも、私が小学校1年生のときに兄と一緒に登校させられていたのですが、家を出るときは一緒に出るのに、速足でドンドン先へ行ってしまい結局一人で登校していました。

このエピソードは後に一度だけ母に言いましたが、それは普通だと言われておしまいでした。なぜなら、母自身も小さくて足の遅い弟を置いてさっさと登校していたからだそうです。

現在、登校は1年生から6年生まで一緒にしている学校が多いと思います。そこでもし、6年生と5年生の子がみんなが遅いからという理由だけでさっさと先に行ってしまったら、どう思いますか?だいたい何のために一緒に登校しているんでしたっけ?

あと、2階の自室から降りて来た兄が、暇そうに居間でTVを見ていた私に向かっていきなり「ろくでもないな!」と言い放ったこともあります。えっと、私は宿題はちゃんと済ませています。あまりにいきなりで、なんと受け答えていいか分かりませんでした。またその心も不明です。

人としてドライで冷たいエピソードは、まだ沢山ありますが割愛します。

 

 父は私が寝起きの時に無理やりキスをすることが時々あって、気持ち悪くて困っていました。

ある日、母も兄も見ている朝にそれをやってきたので、”今日は助けてもらえる!”と思った私は、力いっぱい両手で押しのけながら(全然力は勝てなかったけど)大きな声で泣いたのですが、それを横目で見ていた母はアイロンをかけ続けていたし、兄も「うるせぇな」と言う顔で無視して朝からTVを見続けていました。

小学校4年生の私にとって、大嫌いな父に無理やりされるキスはレイプされるのと似たような感覚でした。しかもその時はクラスに片思いをしていた大好きな男の子もいましたので、余計に苦しかったです。

 

そこで、姉が40歳になってから、初めて聞いた(嘘つきなので本当か嘘か分からない)話なのですが‥‥

姉が小4で父親に性的虐待を受けていたというのです。ただ、姉は昔から被害妄想がひどい所もあるので、私と同じくらいのことをされていてもそう感じたかもしれません。

ただ、思うところがないわけでもないのです。

というのもある日、小学校1年生くらいの私が帰ってきて玄関を開けると、真っ直ぐすぐ見える場所に姉が壁にもたれていました。下半身だけ裸で〇〇〇を触りながら座っていたことがあったのです。

姉は父親の職場(うちは家の中に父の会社の小さな事務所がありました。)の方向を見て座っていました。しかし辺りには、姉以外は誰もいませんでした。

私は、姉の奇妙な言動を常々見せられていたので、自分で脱いで私にショックを植え付けようとしているのだろうか?とか考えたりしましたが、やはりショックだったし、彼女が何を考えているのか分からないので、声もかけられず後に母にも言えませんでした。(言ったところで母が正しい行動をしたでしょうか?)私自身、姉の奇行になるべく絡みたくなかった というのもあります。

そのエピソードは今でもあまりにもショックで鮮明に覚えています。

しかしもしかしたら、私に性的虐待の真似事をしたのも、父親にされていたからだと考えると しっくりくるのです。。。

 

 

一方母は、本当に女性として育てられたのか?と疑問を持つほど、女の子が洋服が欲しい気持ちや、好きな男の子がいること、お菓子作りをしたい気持ちやおしゃれをしたいという気持ちが 全くわからないようでした。

(家のローンもあってか)「お金がない」といつも言い聞かされていた為、洋服をせびることもできず我慢をしていました。

小学校4年生くらいから、姉が4~5年生だったときよりも体が大きかったので、地味な男色の兄のお古を着せられました。Tシャツもトレーナーも靴も全部です。

(だがその矢先の小学校5年の時に第一章に書いた『パジャマと40万円の鍋セット』のエピソードがあるわけですけど。)

ちなみに、この家のローンのせいで私は一人ぼっちの鍵っ子になったわけですが、私の部屋はないわけです。ここにもご注意を。

なんだかまとまりがなく私の愚痴で汚してしまい、申し訳ありません。

 

再び、父親に関してです。

父は自分の建てた家の一角に、そのとき務めていた会社の事務所を作りました。当初は、そこで働いていました。

父は性的に気持ちの悪い”何か”を持っているなぁと感じていました。子供の私がそう思えるエピソードがいくつかありますので、書けるものだけ書きます。

●私の寝起きに舌をいれるほどの気持ちの悪いキスをしてくる。(これについては、寝ているフリをする以外ありませんでした。起きて抵抗したら、もっと余計なことをされると思ったから。)

●お風呂上りに脱衣所で着替えていると、決まってパンツを履いたくらい時にドアを開ける。(姉もやられていたそうです。なぜ母が気づかなかったのか?また気付いていても注意しなかったのかは不明です。)

●その他

よって、私は防衛線を張りました。

髪をバッサリ切って(これは学校で担任の先生にいじめられ嫌なことが続き、白髪になり、次の年は自分を変えたかったからという理由もある。)家の中ではちょっと男っぽくし、TVでドラマのレイプの場面などがあったときには「こんなことをされたら、相手を殺すか自分が死ぬしかないよねー!」と言うなどです。私は内弁慶だったので、外では大人しかったけど家では大きめの声がでました。

姉が暴れたり母に文句を言って他人を変えようとする性格(結局17歳で家を出て行きましたが)なら、私は自分の工夫によってなんとか凌ごうとする性格でした。

そんなこんなで、私は、自分の子供の頃を思い出すとき、とても複雑な気持ちになるのです。

そして相変わらず、家族から見た私は いちばん甘えん坊でワガママな子供でした。少しでも私が何か主張すると、父には「我が強い子だ!」と言われ、兄には「ワガママだ」と思われるという具合です。母は私に躾をせず、私が何を考えているかも知りませんでしたし、気にも留めていませんでした。

(私の成績の良さも知らなかったので、自信のない私が行く高校を2ランクも下げたことを知らずに、そうなの、そこがいいならそこにしなさいね♪と言ってた人です。兄の時には凄く悩んでいました。子供3人いる中の末なのに、県内に何校あるのかも把握していないようでした。)

 

姉は自分の経済力も考えず家を出ましたが、私は家を出るまでに引きこもったりアルバイトをしたり、ある場所に逃げたり、紆余曲折ありやっとの思いで暗い伏魔殿を出ました。

 

よく、「なんでひきこもるのかわからない」とか「なんで働かないのか分からない」って言う親の立場の人っていますけど。

考えてみてください。ご近所はみんな、学区内の人です。クラスメイトなんです。

奇声あり・猫屋敷であり・友達を連れて来るのにためらうような家。

そんな家で育って、堂々と外に出て友達を作れると思いますか?

クラスでなんの噂もたたなかったと思いますか?

私が行く学校は、姉が先に卒業してるんですよ?先生にどんな目で見られたと思いますか?

親はいいですよね。ご近所さんなんて、たまに顔を合わせるだけの人ですから。自治会から抜ければそんなに付き合わなくてもいいし、職場だって嫌になったら辞めれるんですから。

 

 

続きます。

 


カサンドラの子供 2

2021-01-04 10:05:25 | 物語

次は、姉の話です。

姉は幼い私から見ても、少し変わった言動をする人間でした。

ただ私が3歳の時に姉が7歳です。変だなと感じても指摘するようなことはありませんでした。

第一、何が変なのか どこがおかしいのかを分析して言葉にできるほどの能力は、3歳の子供にはないでしょうし、姉を怒らせても怖いですし、姉の歳に追いつくことはないのでその年齢を経験してから目撃することはなかったからです。

 

ここに、姉の奇行を書き連ねます。

私が3歳の頃、姉はご近所に配達されている牛乳を勝手に手に取り、私の目の前で道路にぶちまけていました。

さすがに他人の家に配達されたものにそんな事するのは良くないと思って指摘したのですが、姉は大丈夫だよと言ってまったく動じず、私にもやれと勧めました。

私が4歳くらいのこと、よく一緒にぬいぐるみごっこをしたのですが、姉は自分のぬいぐるみをハサミで切ったり、わざと汚したりしていました。そんな風景を見る度に、心が暗くなったのを覚えています。

そういうのは予期せず急に始まります。私は姉の奇行を一々全部母に言ったりしませんでしたが、1回や2回は報告したと思います。

ただ、母も発達障害だとすると、注意の仕方がわからなかったのかもしれません。

それどころか母親にとってみれば、妹の私が姉のいい子守りになっていたのだろうと、今は感じるのです。

私は引っ込み思案ということもあり、殆どの時間を姉との遊びに費やしていて外では友達ができませんでした。誰かと友達になりたいと母に言うと、「あの子と友達になりなさい」と言って知らない子を指さすだけでした。

 

姉は数回、斜め向かいにある私の同級生の男の子の家に黙って侵入しました。男の子の妹の服を盗みに入ったのです。

全く見慣れない服を大きくてピンク色したウサギのぬいぐるみに着せて、「アヤコ、アヤコ」と勝手に名前をつけて呼んでいました。「その服どうしたの?」といくら聴いても、姉は質問には答えません。

その服は斜め向かいに住む私の同級生の男子の家の妹、アヤコさんの服でした。

そのことが母に発覚したとき、姉は泣きじゃくっていました。

姉と母は一緒に私の同級生の男の子の家に謝りに行ったのを、私はこっそりベランダから複雑な気持ちで見ていたのを覚えています。情けなく、恥ずかしい気持ちでした。でもこれで母も姉をきちんとしてくれるだろうと思っていました。

しかし、姉はその後も何度かそれを繰り返し、私は恥ずかしい思いをしました。『反省する』という言葉は、姉にはなかったようです。

 

また姉には、私にくれた物をしばらく後になって返せと言われたり、意味不明な酷い嘘などをよくつかれました。私は姉が嘘をつく理由をしりたくて真似をしてみたことがありますが、嘘には嘘を重ねなければならず毎日がつまらなくなったので、小学校2年生の一年間して止めました。

 

姉とは一緒にお風呂に入っていたのですが、私が体を洗った後姉はいつも二つの洗面器に冷たい水と熱いお湯のどちらかしか用意してくれなくて、そのどちらかを選べと言うのです。

私がお湯は怖いから水がいいと仕方なく選ぶと、冷たい水を頭からかけられました。

それが嫌で熱いお湯を選ぶと、火傷しそうなほど熱いお湯を、私の頭からかけました。

ある日、姉が私の同級生のお父さんは悪い事をしている。だから一緒に殺そうと言ってきました。それを二人で遊び半分に計画を立てた日も一緒にお風呂に入りましたが、私は全く悪びれていない姉を見て、なんとなく気持ちが悪くなって凄く嫌な気持ちになったのを覚えています。

 

ここに書いたのは、全て姉が小学校4年生~5年生のことです。私の小学校4~5年生の時と比べると、かなり人間的にも精神的にも幼いというか‥‥明らかに”おかしい”のが分かります。

 

姉は兄弟で何か選ぶ時、いつも私より先に好きな色に手を出し選びました。私が選びたい色はいつも選べませんでした。母はそれを見ていましたが、私が我慢することで家族の平和は保たれました。

その割に、母親と姉の喧嘩がはじまると、姉は私をひどく侮辱しました。「私という存在がいるから、自分が愛されないし苦しいんだんだ!」ということを永遠と母に訴えるのですが、勿論、私の耳にも届いています。私は酷く傷つけられたまま彼女たちの喧嘩は続くのです。

私は否が応でも、自分の存在を否定せざるを得ない状況でした。頭では「姉はわざと私の聞こえるように言っている、自分は悪くない」と分かっていても姉の吐く言葉は、知らず知らずのうちに私の深層心理を傷つけてゆきました。

姉は、人間的には幼かったのですが、私の嫌がることをみつける能力にはかなり長けていました。

そして、母も姉と一緒になって喧嘩するだけで、私の心のケアはしてくれませんでした。

第一章を読んでいていただいている方には、私の母親が幼い私の心のケアをするはずがない事はお分かりいただけるでしょう。

(私の母は、私の大切なぬいぐるみを勝手に全て捨ててから事後報告をしたり、私の寝ている間に普段から嫌がっている前髪切りを、勝手にしようとした人です。

もしかしたら母は、私には自分の考えや意思などないと考えていたのかもしれません。こういう事は、言葉にせずとも普段からの態度で出るものです。伝わってくるものです。

このように毎回、私の意思は母親の屈託のない笑顔によって、ことごとく崩されてきたのです。)

ただ、母には悪気がないように思われましたが、姉には明らかに私に対する攻撃的悪気があったように思います。

また、姉と私は2階の同じ部屋でしたが、小学校3年生のある日突然、追い出されました。しぶしぶ1階おふすまだけで仕切られた仏壇のある部屋が私の部屋になりました。母親が布団を敷いて寝る部屋です。

そして、姉は部屋が自分一人のものになると、いよいよ本領を発揮し始めました。

ある日突然、奇声を発しながら2階の床が壊れるんじゃないかと思う程暴れました。そんな事が何度もありました。急に始まるのでなぜ怒っているのかは誰にも分かりません。

「床が抜けるんじゃないか?!」という親の言葉に、私はただただ家が壊れる心配と、訳がわからない恐怖心を抱いたのを覚えています。

一番怖いのは、その勢いのまま1階に降りて来た時です。その時は、間違いなく私がやられるでしょう。

 

家族旅行も、姉が行きたがらないという理由で自動的にしなくなりました。よって私には殆ど家族旅行の記憶がありません。

私が家に友達を連れてきても、姉がいつ暴れるか分からずハラハラしなければなりません。

いつのころからか、「この家に姉さえいなければなぁ…」と思うようになっていました。

理解できない言動、嘘、奇行や奇声‥‥私にとって、姉はただただ人の良心や常識が通用しない”悪魔”のような存在でした。

それでも私は、

夕飯を家族と一緒にとらず母が姉だけのために買ってきた別メニューを一人で食べ、私が後ろから見えないくらいTV画面に上着で覆いかぶさって観ている姉   をみて、”たまには運動した方がいい”と考えて、無邪気なフリをして風船でバレーごっこをしようと誘ったら少しだけ乗ったのを覚えています。(私小5姉中3)

しかしその後も、姉の行動は何一つ変わりませんでした。

 

姉は高校受験の時には、自らが全く勉強をしなかったくせに、どの学校にも入れない現状にとてもガッカリしていました。

仕方なしに定時制の高校へ行くことになったというのに、「バカと一緒に勉強したくない」と言って1週間で辞めました。

自分の蒔いた種で咲いた気に入らない花を、結局最後に踏み潰す姉の行動は、全く理解しがたいものでした。

”なら、そうならないように過ごそう”という気持ちは最初から持ち合わせていないように見えました。

 

ちなみに余談ですが、姉は 小学校6年生の時には「目指せ東大!」という目標を書いた紙を自室ではない家族に見える場所に貼り付けて、長時間 自室の机にかじりついていました。

私はそれを異常行動だと感じたのですが、母にとっては”手がかからない子はいい子”です。私が「ちょっと変じゃない?」と指摘しても、母はなんとも思っていない様子でした。

また姉は子供の頃から、特殊学級などの知的障害の児童を執拗にバカにしました。

そのため、40歳になって自分が発達障害だと診断された時、認めたくないがゆえに非常に暴れたそうです。その後、発達障害に関する救いの手を差しのべる人が家に訪れるのですが、その人に対しても いきなり飛び蹴りをしたり、罵声を浴びせて帰らすなどして追い返したそうです。

ちなみにその時母は70代。25年以上働いていましたが加入期間が十分ではなく、老後の年金は月に6万ちょっとだそうです。本来なら2倍はもらえていたと思うのですが・・・。

姉はその母に「あの時愛してくれなかったから」という理由を掲げて、そんな母にお金をせびっているそうです。母は、電話では困っているような声でそのことを話しますが、心の奥底ではそれが生きる糧になっているかのように生き生きしています。

私の母は、子育て中は手のかかる子を嫌がりましたが、今になっては手のかかる子供が好きなようです。

母は、いつも意味不明なことで心配し自分の中だけで考え、行動は他人に任せます。

本当に心配するべきこと(例えば女の子を育てる為の躾や 気を付けるべき点、また一人ぼっちにされる幼児の寂しさや、子供が訴えるいじめ等)には気にもかけませんでした。

こちらから見ていると、まるで好みで心配事を選び、それを糧にして生きているように見えます。

このことは、母の周りを取り囲む友人もそのように言っているそうなので、私の偏見ではないと思われます。

(母には友人が多いです。屈託のない人は他人に好かれるものです。それが家族であるか他人であるかでは、全く逆なのです。

私には友人が一人もいないので、自分が自閉症とか発達障害なのかと悩んだこともありましたが。)

 

そして、私の父もまた父親の資格のない人間でした。”資格がない”とハッキリ書くには理由があります。

それは父が最初から姉妹の教育を放棄していること、私が小5の時には殆ど家に帰らなくなったこと、まだ母と婚姻関係にあるのに外に家族を作った事です。

また、姉妹を叱る時にはわざと嫌がることをして裏声で笑う癖がありました。姉は悪いことをしたので叱られていましたが、私に至っては悪い事をしていないのに1度だけ閉じ込められた記憶があります。

また、職場をすぐやめては転々とした(母親はそのことを包み隠さず愚痴を吐いたり夫婦喧嘩する)ので、子供たちにとっては心配がつきませんでした。

これは十分親失格と言っていいでしょう。

兄は成績が良く優秀で、自室で自分の趣味に没頭していました。一見家の中でいちばん質の良い人間に見えましたので、母親は兄の為なら正しく悩みましたし、進学の時なんて頼まなくても悩んだり、兄が反抗期で「ワン(はい)」「ニャー(いいえ)」という返事以外全く話さなくなっても、母は兄に言われる通りにしていました。(滑稽な風景でした。)

そんな兄の実態は、嘘みたいに冷たくドライで人間味に欠けた人なのです。。。。

 

 

続きます。

 


カサンドラの子供

2021-01-03 13:08:06 | 物語

 突然ですが、みなさんは当たり前に挨拶をしているように見えます。でもなぜそんなに自然に挨拶ができるのですか?

なぜそんなに、気恥ずかしさも、躊躇いもなく挨拶ができるのですか?

 

私の母親は、「ありがとう」「ごめんなさい」「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「おやすみなさい」「おかえりなさい」「行ってきます」「いただきます」を一切言いませんでした。

家で教えてもらっていない私にとって、外で言うのはとても気恥ずかしくて難しい壁でした。

このように、私は一人前になるための”躾の第一歩”さえもされたこともありません。ですから、社会に出てから非常に苦労しました。

かろうじて父親に食べ物をこぼしたら叱られたりしたくらいです。逆に父親の叱りかたは、怖すぎて理不尽ではないかと思うくらいでした。

最近になってやっと気づいたのですが、私の母は多分 発達障害だと思うのです。

 

今から、そう思う理由を書き連ねます。

まず、母は日常的に私と姉の名前を平気で間違えました。

私たち姉妹は双子ではありません。

ですから私もまた、人の名前を間違えて呼ぶことを失礼なことだと思っていませんでした。

後に歯科医院の受付で仕事をしたとき、患者さんの下の名前の漢字の読みが分からずテキトーに呼んでみたら、後で先生に怒られました。

私としては、自分の子供の名前を間違う人がいるくらいなのに、「知らない人の名前を間違えただけでそんなに怒ることかな?」と思ったことを覚えています。

その時の私は既に二十歳でした。今思うと、非常に恥ずかしいことです。

 

私が子供の頃から母は、以前は大丈夫だった事をある時急に怒ったりしました。私が3~4歳になると、自分でやりたいことを母に阻まれ、そのことに私が怒ると母も一緒になって怒りました。そんな風に喧嘩になって空気が悪くなることが度々ありました。

しかし母からは「ごめんなさい」も「あやまりなさい」も言ってきません。

そしてまだ何も展開のないうちに、母親の機嫌が直るやいなや向こうから笑って何事もなかったかのように話しかけて来るのです。

あまりの急変に、幼い私でさえも戸惑うほどでした。

このように私が幼いころから、私がやりたいことはさせてくれなかったし、私の大切にしていたぬいぐるみを、断りもなく勝手に全部捨てられたりもしました。報告はいつも事後でした。

 

小学校3年のときある職業に就きたいと、思い切って告白してみたら、「お金にならない」とか「お前には無理でしょう」と笑ってバカにされたので諦めました。子供というものは、親にやめろとかバカにされた職業は選択肢から外すものです。

でも今よくよく考えてみたら、母は私が将来何になりたいかなんて質問をしてきたことがありません。現に、成人式も何もしてくれませんでした。

ハレの日事件で、被害者さんの娘が成人式の着物を着れなかったのを、その母親が娘と一緒に泣いてるシーンを見た時、「え?お母さんてこういうものなの?」と驚いたくらいです。でも自分が母親になって娘がいたとしたら、やっぱり娘と一緒に悔しがるか抱きしめて泣くと思いました。

きっと私の母は、私が人間として成長すること自体に興味がなかったのでしょう。ここでは省きますが、そう思えるエピソードは多々あります。

 

また、新築で注文住宅を建てたのに、既に生まれている私(当時4歳)の部屋を作ってくれませんでした。せっかく一生に一度の家を注文で買ったのに、おかしくないですか?その後、外に大きな倉庫まで作っているというのに。私は、3畳でもいいから自分の部屋が欲しかったです。

今になって母に、家を建てた時なんで私の部屋を作らなかったのかを聞くと、「父親が勝手に家を建てたからだ。私には何の話もないままあれよあれよと決まってた。」というのです。

後に知ったのですが、母は、ご近所さんにも同系統の理由を言い訳したことがあります。

当時うちは去勢もせず猫を飼っていて、アッ言う間に10匹近くになりました。しかも平気で外へ出して家に帰ってくると餌をやるという飼育方法だったため、ご近所さんから苦情を言われたことがあるそうです。その時も母は「あの猫たちは主人が飼っているので私には関係ありません。」と言ったそうです。

ちなみに、私の父と母はちゃんと一緒に暮らしていました。

私は、なんとなく猫のことで近所から白い目で見られていることを感じながら生きていました。いくら昭和の話とはいえ、今考えると、とても恥ずかしい家だったと思います。

しかも、親が反省の態度を全く見せないものだから、私もまた、そのことで反省する必要はないのだと学習していました。子供にとって家庭は社会そのものです。親の真似をして生きるものです。

そんなある日小学生の時に、クラスの友達からもうちの猫で迷惑被った件を言われたことがありました。ですが私からしてみたら”猫が勝手にしたことだからしょうがないのに”と思っただけでした。

私は本当に、バカで恥ずかしい子供でした。そりゃいじめられても仕方がないなぁ と今では思います。

 

小学校5年生くらいの頃、私のパジャマを全く買ってくれなかった母が、鍋セットを40万円で購入しました。

その日、私が「この鍋とかはどうしたの?」と聞くと、母は私にこう言いました。「高かった~ だまされて買っちゃった!」

私は満足に小学校に着てゆく洋服もなく、2~3日おなじ服を着たことも多々ありました。本当は思春期にさしかかりおしゃれをしたかったのですが、常日頃からお金がないと言われ続けていたので我慢していたのです。

私には部屋がなかったから、母親が帰る前にこたつに潜ってそのみじめさを泣いてたというのに。。。。。

そんなある夜、突然母親がこんな質問してきました。

(私には部屋がないので母親と同じ部屋で寝ていました。)

母は、私が翌日着て行く服を着て寝ようとしているのを見て「なんで明日着ていく服を来て寝るの?」と質問してきたのです。

ずっと同じ部屋で寝ているのだから、その事は知っているはずです。

私はどう答えてたらよいのかよく分からなかったので、「今日来ていた服を来て寝るよりいいでしょ」と返しました。

 

 

母は私が幼い頃から、一番上の優秀な兄と、素行の悪い姉と、私のことを「うちには、良いこ・悪い子・普通の子がいる♪」と楽しそうな顔で言っていました。

また母は、半年に一度は自分が病気かもしれない宣言をしたものです。「私は癌かもしれない」「私は慢性疲労症候群かもしれない」等々です。。。癌は体の部位を変えて何度も訴えてきています。

ちなみに私の母は、看護婦(看護師)でした。

それも高看なので准看よりも凄いんだ、という事を普段から聞かされて知っていました。(仕事の愚痴も毎日聞いていました。部屋がないので聞くしかない。)

知識のある医療従事者からそんなことを言われた小さい子供は、どう思うと思いますか?小学校低学年から高校生まで、ずっとこれが続いたのです。

普通の人なら、我が子がどう思うか分かるのと思うのですが、母には分からなかったようです。普通、親が病気かもしれないなんて知ったら、子供は心配になりますよね?不安になったり悲しくなりませんか?

 

 

 少し成長した私が不登校になってしばらくしたある日のことです。

母が「一緒に医者に行こう」と懇願するので、仕方なしに二人で電車に乗って隣町の医者へ行きました。

私は母が診てもらうのかな?とか二人で診てもらうのかな?それともやっと誰かに助けてもらえるのかな?とかうっすらそんなことを考えていたような気がします。

理由は何も言われずただただ一緒に医者へ行く必要性があるということでした。行った先は、神経内科でした。

そこには男性の若めの医者がいました。自分の住んでいる街にもいくらでもいしゃはありました。私には、”なぜわざわざ隣町のこの病院なのか”とか、”その医者がどこの誰なのか”など、全く知りません。

診察室の椅子になぜか私が座らされ、母は私の斜め後ろに座りました。

私は、なぜ来たのかを知らされていないわけですから、得に何も話す事はなく(引っ込み思案な子供でもあったから)、先生に言われる通り椅子に座って血圧なんかを測ってもらいました。

今思うと、医者も”何をしていいかわからない”といった雰囲気だったのを覚えています。いくつかの質問には答えましたが、意味不明な空気が流れました。

最近になって、あの時何をしに行ったのか聞いたのですが、母にも分からないそうです。母に分からないのなら、私にはなおさらです。。。

 

更に、(体だけ)大人になった私(当時30代)が電話で離婚相談をすると、母が「とにかく為になるから出てきなさい」「あの人ならなんとかしてくれる」「絶対に合うべきだ」的なことを言って聞かないので、電車に乗って、母と母の言う凄い人(母はしきりにその人の名前だけは言うけど、私にとっては全く縁もゆかりもない知らないおじさん)に会いに行きました。

現地に着いてよくよく聞くと、そのおじさんは母が学生時代に付き合っていた人で、現在は社長をしている男性でした。

そこから山手線で2駅くらい行った高そうな中華料理店で食事をさせられて、高そうなタワーマンションの一部屋(おじさんセカンドハウス)に連れて行かれました。

しかし考えてみてください、私には全く接点のない人です。一体、私たち夫婦の何を話せるというのでしょうか?

普通に話はしましたが、いったい何のためにあの日わざわざ私が電車に乗ってあそこへ行ったのか、今でも分かりません。

ただ、母は私が離婚したいと話したことで、私が路頭に迷うんじゃないか的な考えを持ったようです。

”ひょっとしたら母は、この社長さんに抱かれてお金を貰ってしばらく過ごしなさい”と言いたいのかな?とか、後になってからもかなり考えました。またそれを、母は何の考えもなしに行動はしたが、なんとなく深層心理でそう考えていたのではないか?とか。

ただ、社長さんは「まだまだ若くてまぁまぁの容姿を持った この子(私)が、路頭に迷うはずはない。この時代、逆に引っ張り凧だ」的な当然の意見を言ってました。

しかしどうやら母には、それが分からないようでした。

 

その他にも、

●私の歯は3歳にして真っ黒で、7割の歯は素人が見ても分かるような虫歯によって溶けていた状態でした。これは母親が歯磨きをさせていなかったからに他なりません。母は、よく私に「乳歯は生え変わるから大丈夫なのよ」と言いました。

●私が小6くらいの時に偶然母親のトイレ掃除を見たことがあるのですが、1度流してキレイだからと言って、便器内の水でトイレ全体のそうじをしていました。

あまりのショックに私が今後はやめてくれと言いましたが、つい最近聞いたらまたやっていることが判明しましたので、きっとその後すぐに同じことをしていたのだろうと想像しています。

ちなみに、母は私の言葉はすぐに忘れる人でした。(なぜか私が何を意思表示しても馬の耳に念仏、私を意思のある子だと思っていない様子だった)

●私が故郷から遠く離れた所に住んだ時、人生に困って泣いて母親に電話したら、母は母のお姉さんに折り返し電話をさせました。

私は殆どあったことがない人です。何も話せませんでした。とても悪い事をしたと思って電話を切りましたが、私が悪かったのでしょうか?

●私が倒れた時に、救急車を呼んでほしいと言ったら近所の目を気にして断られました。後に知りましたが、救急車の代わりに私をいじめていた女の子のお母さんに車を出してくれないか と頼んで断られたそうです。(その後日談に、私は複雑な気持ちになりました。)

●私が不登校の時に、知らない女の子が私に会いに来た時がありました。

母はその子がどこの誰だか全く確認することなく、友達が来ているよと言って玄関先で私に会わせて、自分はさっさとキッチンへ行ってしまいました。

その知らない子が来た理由は、宗教の誘いでした。

●母が離婚して私(独身社会人)と二人暮らしをしていたある日、母が眩暈で倒れました。

母は自分で救急車を呼んで病院へ行ったはいいものの、「切り替えたばかりで保険証がないから、すぐに作って持ってきてほしい」と、切羽詰まった声で携帯に電話してきました。

私はデートを中断して市役所の人に無理を言って保険証を速めに作ってもらい母のいる病院へ持って行きました。

後々病院から聞くと、その日に保険証がなくても大丈夫だったそうです。母は元看護師さんなのに、そのことを知らなかったのでしょうか?

 

 

まったく、子供として散々な事ばかりです。。。。

私は子供の頃からよくこんな夢を見たものです。

 3歳くらいの私が積み木を3つ4つ積み重ねていると、母がやって来て屈託のない優しい笑顔で、その積み木を崩す

     という夢です。

 

 

 そしてずっと分からなかったことですが、姉もまた発達障害だったのです。そのことは姉が40歳になったときにやっと判明したのでした。

私としては、ずっと小さい頃から”姉は少しおかしいのではないか?”と薄々感じていましたが、母には全く感じなかったのだそうです。

後に聞いた話ですが、学校の先生が家庭訪問で姉の奇行を忠告した時、母は怒って先生を追い返しています。

母は、私に対してはとても穏やかでいつも笑顔でした。だから、結構最近まで”優しい人”というイメージしか持っていませんでした。しかし、兄に聞くと母はとても気が強くすぐにカッとする女性だったというので、驚いたのですが、よくよく記憶を辿ってみたら、そういえばそういうところもあったな とすぐに納得がいきました。

 

学校の先生に対する態度で言えば、私が学校を休む為に母に電話してもらった時、先生を呼び出している保留中に電話を切ってそそくさと仕事へ行ってしまった事が何階かありました。先生から折り返し電話がかかってきたとき、母から何も聞かされていなかったため、戸惑ったものです。

その行動が相手に対して失礼だ、とは思っていなかったようで、ただ自分が仕事に遅れるからというだけの理由です。そしていつもどおり私には何の報告もありません。

 

母は、私が熱を出して連日嘔吐していても、休んではくれませんでした。それが当たり前だと言った感じでした。ただ、看護師だったので抗生物質ばかり飲まされていたのを覚えています。

ですから、今でも子供が微熱を出しただけですぐ休む女性を見ると、その子供が羨ましいと同時に少しイライラします。「何故、”そうしてもらわなかった私が”その人の休んだ分を請け負わないといけないの?!」と。

こんな感情を持ちたくはありませんが、私のように、怪我をしても熱を出しても学校でいじめられても、全く母親に共感されたことのない人はこのように思うのは当然ではないでしょうか?

幼稚園の男の子の「ブス」という心を殺すような酷い言葉に関して訴えても、母は「その男の子はあなたと仲良くなりたいのよ。あなたが好きなのよ」と軽い感じで笑って言ったのです。

これは、言われて傷ついている私に言う言葉でしょうか?言う相手を完全に間違えているのです。言われて「嫌だった」「傷ついた」と訴えている3歳の女の子に母親が言う言葉でしょうか?

この言葉の裏を返せば、”敏感すぎる私が悪い”ということになりかねません。特に言われた私自身は、そう思うしかありません。

 

とにかく母は、私には躾もせず、叱ることもせず、いつも優しく私を甘やかせて一人ぼっちにし(私は小1から鍵っ子です)、笑顔で私の言うこと全てを否定する上に、共感力の欠片もありませんでした。

 

 

そして私は、幼い頃から発達障害の姉から虐待に近いいじめをされていました。母がネグレクトだとしたら、姉からは虐待です。

4歳年上だった姉は、いつも私より先に色々経験し、私より先に好きな色を選び、とても嘘つきで、私の困ることをわざとしてきました。

そして父親と兄は、いつも私がワガママを言っているという印象を持っていました。

それは私が駄々をこねているところを見ているからだと思います。しかし、何一つこちらの要求を満たしてくれない親に対して子供がだだをこねるのは、当たり前ではないですか?

 

続きます・・・・

 


主の声

2020-04-15 15:44:04 | 物語
 こんにちは。ご無沙汰しております。
巷ではコロナコロナと耳にタコができそうな日々ですが、皆様はどうお過ごしですか?(こんなことを書いたら、最近のすっかり神経質になってしまった日本では怒られるんだろうな?(苦笑)しかし日本ではインフルエンザで死亡した人を足しても例年より死者が減っているのも確かなのです。)


前置きはさておき、私が短い物語を書く理由を記述しようかと思いこのページを設置しました。


短い物語を書く理由


その1、永遠と書く度量と才能がないから。

その2、すぐ読み切ることができるから。

その3、余白を読んでほしいから
これがいちばんの理由ですね。書いてあることを基本に想像力を存分に発揮してほしいです。1つだけ例をあげるならば、今回書いた『そして月になった』ですが、メイとメイの姉が当然家で二人きりになったことだってあったはずなのですが、そこは書いていません。母親も全くそこを考慮していないことも分かります。ちなみに、メイは学校ではどんな子供だったかや、父親が帰ってこないのはなぜなのかも書いていません。母親に至っては突っ込みどころが沢山ありますよね。()

その4、なるべく誰にでも当てはまるようにしたいから。

その5、訴えたいことがあるから。


です。
語彙も少なく、しがなくふがいなくふつつかな筆者ですが、今後ともどうぞよろしくお願いします。m(__)m

そして月になった

2020-04-15 09:59:25 | 物語
 こんにちは。私は鍵っ子のメイです。
私はこうしてお人形ごっこや積み木をしていつも一人で遊んできました。
知らない人がチャイムを鳴らしても、大きな雷が鳴っても、悲しいことがあった日でも話したいことがある日でも、いつも側には誰もいません。
本当は寂しいけれど、お母さんもお父さんもお家のローンのために生活のために働いてくれているから仕方がないんです。
私がちゃんと留守番していればこの家の全ては上手くいきます。
そんな私の夢は、ひとつだけあります。
それは、家族の誰よりも先に死ぬことです。だって、いちばん小さい私がいちばん最後に残されるなんて耐えられないからです。こんなに寂しい思いをもうしたくないから。
でももし、その勇気がずーっとこの先も出てこなかったら、この家をこっそり出て行こうかと思います。でもそんな勇気私にあるかな?本当はどっちも怖いです。でもでも、それしか私が生きた証を残す方法を私は分かりません。私の存在を認めてもらうには、私という存在がこの家族から消えた時だと理解している、ただそれだけなのです。
一体いつ、どうしたら私は消えることができるのでしょうか?方法がぜんぜんわかりません。もう少し大きくなったら、考えようと思います。。。


メイはやがて、中学生になった。
ある晩、メイの母親が帰宅するとご飯の支度がされていないことに気づいた。いつもなら末っ子のメイが自ら進んで夕飯の用意をしていてくれるのに、その日のキッチンはまるで何も物を動かした様子がなかったのだ。
母はメイの部屋のドアをノックした。中を見たが、そこにメイは居なかった。

母親がメイの学校に電話してメイが帰宅していないことを告げると、学校からは今日は無断欠席しているという返答だった。
その夜、父親は家に帰ってこなかった。理由は分からないがいつものことなので放っておいた。

メイには姉がいるが、高校入試に失敗してしばらくしてから精神科に入院した。入院している理由は予備校にもアルバイトにもその他の学校にも行かず、ただ家にいるだけだったし暴れたからだ。幼少期はちょっとだけ変な子供なのだと思っていたが、家で暴れだした辺りから流石に手に負えず、嫌がる本人を無理やり病院へ連れて行って隔離してもらった。そうでもしなければ、母親はこうして再び安心して労働する日々は返ってこなかったであろう。

母親は多いにメイの行方を心配した。しかしその日は警察に届けず心配しながらも明日の仕事に備えて床についた。翌朝、殆ど眠れなかったことで心身が疲労していた。しかし、警察に届けると大事になると考えもう少し待つことにした。騒ぎ立てて、ご近所に知られたら恥ずかしかったからだ。
それでも仕事をしている時は全てを忘れられる。母親であることも、自分の分身であるはずだった子供が今や精神科に入院していることも。そして、いい子のメイが帰ってこないことも。
父親はその日も帰ってこなかったが、いつものことなので放っておいた。
警察に届けを出すと後でひょっこり帰ってきた時に悪いので、この日も届を出さなかった。メイの姉も中学の時に時折プチ家出をしていたから、思春期にはよくあるその類のことなのかもしれないと考えていたからだ。

1週間しても、1か月してもメイは帰ってこなかった。
母親はメイが帰ってこなくなってから約1週間後に警察に届けを出した。警察は土日はやってないと思ったり、仕事で忙しかったりしたからそこまでになってしまったのだ。
父親が家に帰ってきたのは届け出をだした次の日だった。
母親は仕事が休みの日に姉を見てくれている精神科の主治医のところへ行き、メイが居なくなってしまったことを話してみた。

母親は身だしなみはキチンとしていて背筋も伸ばしちゃんと主治医の目を見て話している。
母親「うち子は、育て方を失敗したんでしょうね?(笑)お恥ずかしいです。」
主治医「・・・・・・」
母親「メイはとてもいい子だったのに、どこへ行ったんでしょうか?やはり家出ですかね?」
主治医「さあ、それは分かりません。心配ですか?」
母親「そりゃあ、心配ですよ。母親ですから。」

精神科から戻ってくると、オレンジ色に染まったダイニングに腰を掛け、メイがまだ家に居た時のことを思い出していた。
夕飯をつくっておいてくれたことや、小学校の夏休みにはどこかで習ったケーキやクッキーを作って待ってくれていたこと、掃除のお手伝いもよくしてくれていた。学校の成績は中の上くらいだったが、宿題を忘れたこともなく毎日通学して極普通の子供だった。一体、あの子のどこに家出をする要素があるのかわからない。

父親と母親はずっと昔から別の寝室だ。結婚5年も経過すれば倦怠期もきてそうなるのは当たり前だ。だいたい、寝る時間も違うし二人で寝ることになんの意味も感じない。むしろ鬱陶しいだけだ。

それにしても、メイの姉が中学に進学して暴れだした時は酷かった。固定電話を壊したりキッチンのガラス扉を割ったりした。その度にせつない思いをして修理屋を呼んでお金を払った。あの子のためにいくら無駄なお金を払ってきたことか。子供というのはお金を稼がないから物を平気で壊す。だからそういう時は、こう言って注意する「お前は、私達(夫婦が)これを買うために何時間働いたと思ってるの!?自分で治せないなら壊さないで!」と。これだけ言っても分からないような少し異質な子供であった。宗教で習った『根本的な命は最初から決まっていて育ちや環境とは関係なくどう育てても汚い命は汚いのだ』と。あの子は最初から汚れた命をもって生まれたのだと納得している。しかし、メイに至ってはとても普通な子供だった。なぜ家出なんてしたのだろうか?

10年後、この夫婦は離婚した。
メイの姉は盗みを繰り返したため、刑務所にいる。メイは、まだ帰っていない。
母親は仏像に向かって宗教のお経を毎朝読んだ。メイが帰ってきますように。そしてメイの姉に私の思いが伝わって少しでも悪い子じゃなくなりますように。と。

更に、10年経った。
メイは帰ってこない。父親の行方は知らない。メイの姉は出所して母親と一緒に暮らす以外生きてゆく術がなかった。
母親は既に年金暮らしに入っていたが、年金の半分はメイの姉に使われた。彼女は主に食品と洋服ばかり買った。洋服は衣装タンスにもクローゼットにも入りきらないくらい持っているのに買い続けた。勿体ないからやめろと言っても聴いてくれなかった。
最初から汚れた命を持った者に話が通じるはずがないのだという諦めの境地に達するときもあるが、一緒に暮らすとそうも言ってられない現状もありやはり放っておくわけにはいかなかった。その度に、年寄仲間の友人に悩み事として話をしたが、なにも解決はしなかった。
メイの姉は毎晩のように母親の育て方と愛情不足を攻め立てた。そう言われているうちに、母親は自分の育て方も悪かったのだと反省するようになり反省の意を込めてお金を渡し続けた。メイがいなくなったのも自分のせいだろうかと考えるようになった。
メイの姉はお金が足りなくなると、すっかり歳を取って身体の小さくなった白髪だらけの母親に、愛情不足だったことや放っておかれたことを永遠に話した。それでもお金を出さないと蹴っ飛ばして金をせびった。

何度も季節はまわり、雪が降った。雨が降った。風の強い日も、とても晴れた真っ青な空の日も、公園のブランコはいつもと同じ姿でそこに佇んでいた。しかしメイは帰ってこなかった。
年月が経てば経つほど、母親の中でのメイが天使のようにいい子になってゆく。メイがいなくなったことで、毎日メイを思い出すことになった。夏が終わり、ちょっと散歩に出た小道で中秋の名月を見上げた時、ふと「あれがメイなんだ」と母親は思った。

おわり

animals ①

2019-10-26 19:32:50 | 物語
 
 僕には友達がいない。だからいつも2階の自室でスマホゲームをしている。この暖かい電磁波の光だけが、僕の居場所だ。夜はパソコンで怪談の動画を聴きながらいつの間にか寝るのが好きだ。人の声を聴きながら寝るとよく眠れるから。
小学校の時は親の転勤で何度も学校を変わったし、中学の時は親友と思っていたやつに裏切られた。高校に入ってからはいじられ役でLINEグループでそういう扱い。友達がほしくないわけじゃないく、ただ良い友達ができなかっただけだと思う。
いつも独りぼっちだった僕は、せめてペットを飼いたいと親にねだったが、借家暮らしだからと拒否されたっけ。やっと家を建てた頃はもう友達をつくる気も失せたし、動物を飼いたいとも思わなくなった。

トントン(扉をたたく音)
「はい?」
母親「勉強してるの?」
「さっきまでしてたよー」僕のことを信用できないってか?
「あらそう。ちょっ出かけてくるから。」
「はーい、いってらっしゃい」
1階に誰もいなくなっただけなのに、家の中は「し~ん」という音が聞こえてきそうなほど、静かな時間が流れてゆく。僕はこの時間が好きだ。
休みの日はいつもこうして、スマホでゲームをしたりパソコンで色んな動画を見て、音楽を聴いて過ごす。
その時、急にパソコンの画面が真っ黒になった。
「ん?なんだ?」
スイッチに手を伸ばし、何度かつけようとして押してみたがつかなかった。
「故障かよっ。画面だけかな?どっちにしても使えねぇ。しゃーない、スマホでもしてっか。」ベッドにゴロンと横になって、スマホの画面を見ると画面が真っ黒だ。触れてみても電源を入れなおしても充電しても真っ黒だ。
「なんだこれは?!」

それから1週間、親にはそのことを言えずに過ごした。パソコンとスマホを同時に壊したなんて言ったら、どうせ長い小言を聞かされるだけだし、勉強しないからだと叱られるに決まっている。僕は新しいのを買ってもらうための、なんかいい言い方がないか考えていた。
しかし・・・・だ、2週間目に突入したときふと、パソコンやスマホのない世界はなんていうか、凄く良かった。
考えてみたら僕には友達がいないのだから、通話するやつもいない。そういう手段としてはとっくに使ってなかったし、まぁLINEグループで気の合わない奴らと話を合わせていただけだった。やらなくなってみて、結構そのせいで疲れてたってことに気がついたんだ。あの頃は、一人でいる時にすら他人の反応を気にしたり誰が既読したのか考えたりしていたことに気づいた。あの頃の自分がバカみたいに思える。
それに、なんだか目が良くなった気がするし、前よりも頭の中がスッキリしている。
やることがないので、なんとなく本を読むようになった。今までは1冊ちゃんと読めたことがなかったのに今回、初めて3日で読み切った。活字嫌いな僕がここまでできるのかと思って、どうせならと教科書をひらいて勉強してみたら、凄く集中して勉強できた。なによりも驚いたのは、夜寝るときに人の声を聴きながら寝た方が眠れると思っていた今までの自分の常識が覆ったことだ。何もない方がよく眠れるんだ!まじで。
頭痛や慢性的な肩こりもなくなり、なぜか食事もおいしくなったし。
なんでだろう?タバコを辞めた大人ってこんな気分なのかな?

しかし、部屋で一人になったときや、通学の電車内では手持無沙汰でかなり困る。仕方なく外の景色を見るしかないのだが、電車の外の景色はいつも同じ。変わるのは看板だけだった。車内の人達は皆スマホを見ているだけで、なんら面白い光景でもない。
今頃、LINEグループでは僕がいなくなったことによって、いじる奴がいなくなり、困っている輩がいるだろう。もしかしたら、僕の代わりにいじれる奴を探しているかも。いや、もしかしたら僕がいなくなったことにすら誰も気づいてないんじゃないだろうか?僕は存在感がなかったからな。

その週の日曜日、広い公園を歩いて晩春の空気を感じていると、誰かに声をかけられた。
「ちょっとどいて。」男とも女とも分からない声だった。
「へ?」振り返ると、そこにはかわいいお姉さんがスマホ画面をみながら犬の散歩をしていた。
僕は「あ、すみません。」と言ってどいた。
ってか、こんなに広いのになんでどかなくちゃいけないんだ?
周りには人は点在しているだけで、混んでもいない。しかも、おねえさんはスマホを見ながら犬を散歩しているじゃないか。
おいおい、そっちが歩きスマホしておいてどけってなんだよ!
後からじんわり怒りに変わってはきたものの、特に何も言わず彼女が通りすぎるのを黙って見ていた。お姉さんは何事もなかったかのようにスマホの画面を凝視したまま僕の前を通り過ぎた。繋がれている小さな犬だけが、こちらをちょっとだけ振り向いただけだった。

モヤモヤした気持ちのまま家に帰ってみると、頭の上をなにやら黒いものが素早く飛んできた。燕だった。燕は、僕の家の軒下の電灯のところに巣を作ろうとしているところで、既に作りかけの泥のような物質が付着している。
「冗談じゃないよ。」
こんなところに巣なんて作られたら電灯が暗くなるし、ヒナが生まれたらピーチクパーチク煩くなるだろう。
僕は燕が飛び去ったのを見計らい、玄関先の背の低い物置からほうきを出して、柄のほうで作りかけの巣を壊しておいた。
「よし、これで静寂確保♪」
すると、「なにをするんだ!」と、小さくてハリのある声が聞こえた。
「え?」偶然目撃したどこかの愛鳥家が叱りつけてきたのかと思い、「すみませんっ」と言いながら家の門の方を振り向いたが誰もいない。門の向こう側にある道路や周りの家を見渡してもやっぱり誰もいない。
「なんなんだ?」とりあえず家の中に入ろうと思った時、また、「せっかく作ったのに!」と聞こえた。
「へ?作ったのに??」もう一度振り返ると誰もいない。いや、いた。
玄関先の小さな物置の上に、小さいやつが。燕だ。
「せっかく作ったのに!」燕は口を動かしてはいないが、そう言っていた。言っていたというよりも、伝わってきたという方が正しいだろうか。
「え?」僕は茫然として、しばらくつっ立っていた。
燕「あっお前、通じてるんだな?」
「うん、なぜか・・・。」
燕「じゃあ、遠慮なく言っておく。せっかく作った巣を壊さないでよ!」
「わ、わかりました。これからはしません。」僕は驚きでそれどころじゃなく、ただただそう返事するしかなかった。きっと傍から見たら、ひとりごとをしているイカレタ奴に見えただろう。
燕が飛び立つと僕は家の中に入り、手洗いうがいをして、2階の自分の部屋に入った。
「今のはなんだったんだ?僕は、どうかしてしまったんだろうか?」

翌日、いつものように学校へ行くために駅まで歩いていると、下の方から声が聞こえてきた。
「痛いよぅ・・・困ったなぁ。痛いなぁ・・・」
声のする方を見てみると、小さな豆柴がお座りをして左前脚をかばっていうなだれていた。かばっている足からは血が出ている。
え?まさか、こいつの声?と思って試しに「大丈夫か?」と言ってみた。
豆柴は顔を上げて「困りました。助けてもらえますか?」と言ってきた。
「何があったんだ?」
豆柴「突然バイクがきて。」とこちらを真っ直ぐ見つめて言った。
ふと僕の頭の中に、ブロック塀の角から急に出てきたバイクのタイヤがもの凄い速さで近づいて来て、ぶつかると同時に痛さを感じるという映像が一瞬見えた。
「酷いなぁ。」痛そうだ。まだ事故の直後らしく鮮血が出ていた。僕は、見逃す事ができなかった。
すぐに家に帰って母親に豆柴を委ね、急いで駅に戻りひとつ後の電車に乗った。
電車の中で景色を見ながら思った。僕はどうやら、鳥と犬の声が聞こえるようになったんだなと。どうしてかは分からないが、そうなったんだ。
もしかしたら他の動物の声も聞こえるかもしれないと思いつき、学校帰りにペットショップへ行ってみた。だが、そこではまだ赤ちゃんの犬猫が「ワンキャン」鳴いているだけで、特に何も聞こえなかった。
どうせ家に帰ってもやることなんてない。駅から家までの道のりで、公園のベンチに座った。すると、子供数人が背の高い杉だかカラマツだかの木の下に集まり、上を見て騒いでいた。
近づいてみると、その木の高い位置にある枝に猫がいる。
猫は、明らかに子供たちが騒いでいるのが怖くて、降りたくても降りられないでいた。
しかし子供たちからしてみたら、そうではないらしく、「あの猫、おりれなくなったみたい、たすけてあげて~」と言うのだ。
だから僕は子供たちに言ってあげた。
「違うよ。あの猫は、君たちが騒ぐから怖くて降りて来られないんだよ。」
子供「え??そうなの?」
「そうだよ。ほら、見てごらん。怖がっているだろ。」
子供「違うよ。高くてこわいからこわがってるんだよ。」
「いや、そうじゃない。あの猫は、降りたいけれど人間がたくさんこうして騒いでいるから降りることができないんだ。だって、自分で登ったんだよ?自分で降りれない猫がいるか?もしも降りることができなかったら、厳しい自然の中で生きてなんてゆけないよ。」と僕は言ってあげた。
「ちょっとの間でいいから、みんなここをどいてあげて。そうすれば、安心した猫は自分で降りるよ。」と付け加えると、
子供たちは「ようし、みんなーここからいなくなって!」と仕切り役の男の子が言った。
しばらく離れた場所から観察していると、案の定、猫は自力で降りた。殆ど落ちるような速度だったが確実に木を伝って地面に着地し、その後元気な様子で素早く逃げて行った。足腰はしっかりしているし、怪我はしていないようだ。
ふと猫は立ち止まり、僕の方を振り返って「あんがとよ」と言った。かなり遠くにいるのにその声は伝わってきた。
僕は「どういたしまして。」と言った。
声が聞こえてくるのは、鳥と犬だけじゃないと分かった。

家に帰ると、左前脚に包帯が巻かれた豆柴がいた。
母親に座布団の上で撫でられていた豆柴は、こちらを見て”おじゃましてます”と目で言った。
僕が「ん、くるしゅうない」と言ったら、母親が「何言ってんの?(笑)」と言った。
「そういえば、LINE見てくれた?全然既読になってないけど?」と母親が言った。
「あ、そうそう、携帯が壊れたんだ。すごく困ってる、修理だしてほしい。」
「あら、そうだったの?じゃあ今度の土曜日に携帯ショップに行きましょうね。」
「え?いいの?」
「うん。1回目の修理はただだから。」
な~んだ。そうだったのか。もっと早く言えばよかった。
「あ、母さん、」
「ん?なあに?」
「その犬、どうするの?」
「どうしようか?飼いたいって言わないのね?子供の頃はあんなに犬をほしがったのに。」
「まさか母さん、飼いたくなったの?(笑)」
「だって、どうしようかと思って。このまま外へ放り出すわけにもいかないし。」
「もしかしたら、誰かに飼われてたのかもよ?今頃必死に飼い主が探してたりして。」
すると、豆柴が”ちがうよ。僕は逃げ出してきたんだ。”と言った。
「ポスターでも出そうかね?」と母親が言った。
「いや、それはやめよう。」僕は母の提案を止めた。
「え?なんで?」
「ん、、、だって、キケンだろ?電話番号とか、うちの住所とか書かないといけなくなるし。どんな奴がそれを見るかわからないから。」
「そっか。確かにそうね。」
「探し犬のポスターが出るかもしれないから、それまで待とう。」
「あ、そっか。そうね。」

その夜、リビングで寝ている豆柴の傍へ行き、訳を聞いてみた。
「おい、どうして逃げて来たんだ?」
豆柴「ずっとつながれたままだったんだ。他の犬は散歩して通り過ぎていった。ぼくはそれを見てるだけだった。」
「そうだったのか・・・。」
豆柴「ず~っとだよ。だから引きちぎって、やっと逃げて来たんだ。」
「じゃあ、うちの子になるか?」
豆柴「いいの?」
「うん、母さんが良いって言ったらな。」
豆柴「嬉しい♪」豆柴はまっすぐの視線で、しっぽを振って喜んだ。
「じゃあ、おやすみ」

   -つづくー

あとがき

2019-10-23 08:36:21 | 物語
また、最初から書き直してしまいました。すみません。
どうしても、文字と言葉の統一、そして天皇が日本人にとって特別な存在であることが必要だったからです。0章についてはまたいつか、もっと丁寧に書き直させていただきます。

 さて、『邪馬台国』を中国の文字でみると、「台」は「壱」に似た漢字が使われていて”トウ”と発音するらしいので、つまりちゃんと『ヤマト国』と発音していたかもしれません。よく考えてみれば、日の巫女「ひみこ」の死後、『台与』と書いて”トヨ”と発音する女性が後を継いでいます。それなのに、なんで歴史学者は気づかなかったのか不思議です。(おい学者、大丈夫か?)
ちなみに、台与(トヨ)は、13歳で巫女になっていますが、当時はアスス暦だと思うので、物語の中では6歳半にさせていただきました。巫女は処女じゃないとなれないので、急遽探した女性がそのくらい若くても納得できます。また、このことは学校の先生の道草話で聞いた覚えがあります。
昔の天皇がやたら長生きなのは、このアスス暦のせいもあるみたいです。現在の1年間=アスス暦では2年間だったとか。

私は天狗はサルタヒコだと思っています。半島から来たのに目がくっきり二重なのはおかしいですけど、そう書いた理由としては、
●半島の民族は今とは全く違う民族だったのではないか?(特に百済は)
または、
●弟子のカラスたちの顔はいわゆる半島系だったとしても、サルタヒコだけが真のユダヤ人だったのでイエスのような顔をしていたのではないか?

と想像しています。

最後の方に書きました”ヒトではない”の意味は、名前と関係しています。それと、天皇でもないという意味です。天皇はヒトなので。(名前をよく考えてみてください。)
カラスたちも日本にとっては必要な組織だったようです。彼らなくしては、今の日本がなかったのかな??どうなのでしょう?何しろ、表に出て来なかったらただ不審に思われるだけです。想像するに悪い事をしながら良いことをしていたら、表には出られないでしょうけども。まぁ、裏社会があるというのは、あくまでも都市伝説ですね。


最後にしつこく書きますが、これは物語であって、”あとがき”も含めて民間人である私個人の想像にすぎません。そして私は左でも右でもありません。


国大トマヤ 国ルヅイ、日  ④契約

2019-10-17 09:31:59 | 物語
 富士の麓を後にして都に戻ってきた調査員は、1つだけ手に入れた鉄製の黒い星に見とれていました。
調査員A「おい、これって鉄だよな?」
調査員B「どう見てもそうだな。」
調査員C「しかしこんな物を、どうやって手にいれたんだ?あの民族は。」
調査員A「我々は長らく半島とやりとりをしているが、鉄製のものと言ったら、農機具か剣だ。こんなものを見たことがないぞ。」
調査員B「半島にあるのだろうか?」
調査員C「いやいや。もしかしたらあの富士の麓の民族は自分で作っているんじゃないか?」
「まさか・・・!」と調査員3人は同時に思いました。
調査員A「ちょっと投げてみようか。」
調査員B「やめろよ。」
調査員C「いいよ、投げてみろ!」
調査員Aが横にして投げたら、返ってきたので3人は慌てて逃げました。次に縦にして木に向かって投げると、下の土に刺さりました。3人は、なかなかコントロールが利かない道具だと感じました。

早速オオキミに鉄製の黒い星を見せ、調査報告しました。
すると、オオキミは自ら早速、富士の麓へ行くことになりました。
富士麓まで来てあたりを見回しても道はあるものの建物は見当たりません。オオキミ御一行はそこでひとまず休んでいると、向こうの方から山の細道を降りてくる人々がいました。彼らは頭に黒くて小さすぎる帽子をかぶり、人が入るくらいの大きな籠から棒が2本出ているものを担いで「エッサ、エッサ」と意味不明な掛け声を発していました。
オオキミの左大臣が彼らに声をかけてみました。

左大臣「すみません」
山伏「はい、なんでしょうか?」
左大臣「この先には何があるのですか?建物はあるのですか?」
二人の山伏は顔を見合わせると、「建物はないですよ。何をお探しで?」と言いました。
左大臣「これがなんだか知ってますか?」と言って手のひらに乗せた鉄製の黒い星を見せました。
二人の山伏は、顔色を変えました。そして、籠の中の人と何やらひそひそ話ました。
すると、中から大きな男が出てきました。背は八咫ほどで顔は赤く、鼻が高く、まゆは太く、目が大きくてくっきり二重でした。(以下、この大男を”天狗”と呼びます。)
右大臣が、オオキミを守ろうと剣に手をかけました。「こちらにあられる方は、ワのヤマトの国のオオキミなるぞ!」
天狗「存じております。」と言って礼をしました。
当時の普通の民は、オオキミの顔を知らない人が多かったので、オオキミの顔を知っているこの天狗がただ者ではないことがわかりました。
天狗「ワはあなた方の味方です。そしてワは誰とも戦いません。」と言いました。
右大臣「よく言うな。この前調査員に怪我を負わせただろう?」
天狗「それは、まだ未熟な修行者が投げたのでしょう。申し訳ありませんでした。」深々とお辞儀をしました。
左大臣「味方というなら質問しよう。これをどこで手に入れた?」
天狗「それをお教えするには、話が長くなります。どうぞワについてきてください。」
と言うと、天狗は籠の中にどうぞと言って手を平にして籠の中を見せました。そしてオオキミを乗せると、自分は歩いて山を登りました。
山の奥の彼らの隠れ家に着くと、話がはじまりました。
鉄の”もののへ(武器)”はスワで作ってもらったこと、それと、味方である証拠に今後オオキミをバックで助けてゆくという約束をしたのでした。ただし普段から付き添って守るのは右大臣の仕事なので、本当に困ったときや有事、また情報を伝達するときや道案内をするときにだけお助けするという内容でした。
その後、約束が達成されるたびに朝貢された米の分け前が増えてゆき、彼らの生活も豊になってゆきました。彼らはオオキミのいる都に移り住みました。



月日が経ち、イセの都ではスサがもたらした『剣』、太陽神1世が創られた『カガミ』、太陽神2世が見出した『勾玉』を”3種の神器”とし、それを持っている者を『大王(オオキミ)』と呼ばれる神のような存在としました。
剣を国防や警察、カガミを民の秩序や農業を支えるもの、そして勾玉がヤマトの魂であるオオキミという風に例える歌もでき、どれを欠いても国は滅びるという詩が歌われました。
やがて、太陽神がいなくなっても、太陽神の考え付いた哲学は引き継がれ、民衆の中にも”偉い人”として浸透していました。都は大きな湖畔に移しましたが、イセは永遠に太陽神のいる場所として残しました。

そのころ、自分を「太陽神の巫女である」と称する女性が現れました。彼女はシャーマンのような役割をして、太陽神のお言葉を代弁する役目をしました。ヤマトたちの不安を占い、これからの進路を決める役目をしました。その頃、ヤマトの国は海の民の船を使って中国と盛んに交流し、毎年中国にお歳暮を贈りました。そして、小さな国ヤマト国を可哀相に思った中国の王は、とてもいいモノを沢山お返しにくれました。
中国では、この巫女がヤマト国の女王ということになっていました。
中国からはとてもいいモノをお返ししているのに、いつも品祖なモノしか送ってこないことで、日の巫女女王に対して、”卑しい”という文字を当てました。周辺国を少しでも見下したい中国では、よくない漢字をわざと当てはめるという、お得意のマウンティングをするのでした。
また既に、イヅモは国譲りでヤマトに飲み込まれていました。イヅモの国で作った勾玉を、中国に送ってみたところ、とても喜ばれました。勾玉の原石が中国では出土しなかったからです。

太陽神の巫女が247年に亡くなりました。その時、太陽が隠れました。あたりは昼間でも暗くなり、人々は戸惑いました。翌年、すぐに男性が”日の祝”となって引き継ぎましたが、再び太陽が隠れたので民衆が不信感を持ち、女性にしろと要求してきたので、娘の6歳半の女子を日の巫女としてたてました。
やがて、彼女が姿を消しても太陽が隠れなくなったたことと、国がどんどん大きくなっていったため、日の巫女の役目は注目されなくなってゆきました。


 
さて、話は最初の0章の続きになります。
馬小屋で生まれた皇子が亡くなると、仏教に反対した右大臣が仏教賛成派の左大臣に殺されました。それを皮切りに大革命がおこりました。
大革命が終わって間もなく、馬小屋で生まれた皇子の子孫もなぜか丸ごと居なくなってしまいました。
死後一度、皇子の寺が炎に包まれてなくなりましたが、祟りが怖くなったある男(”ヒト”ではありません)が再建しました。そしてその男が、古文書の監修をしました。
また、『ヤマト初期』は、百済の人が書いたと言われていて、その時の女帝の気に入ってもらえるような内容にしたようです。正しい歴史を保存するより理想を大切にする習慣は、半島の人には当時から既にあったのでしょうか?この『ヤマト初期』の中では、日の巫女のことは一切書かれていません。そして、初代のオオキミ(ミカド・ミコト)たちは皆、”神様”にされました。そして、馬小屋で生まれた皇子は、優秀すぎるくらい優秀な人物として描かれました。
神々の母であるはずの女性はなぜか醜い姿に変えられ、悪く描かれました。(この女性は、『ホツマツタエ』には東北出身者だと書いてあるそうです。)統一される前の美しい国、『イヅモ』は陰の存在のように描かれ、過去の栄光を雲に隠されました。いつの世も、歴史は良くも悪くも、勝者によって都合よく書かれるものなのです。そして私達も、いつかどこかの時代で勝ってきたから、ここに存在しているのです。



 あるとき、日本人がいました。彼らは、どうして太陽が毎日生まれるのかを知りたくて、星の地図を頼りにどんどん真っ直ぐ東へ進みました。そして暖かい山を発見しました。やがて氷が溶けると、沢山の民族が入ってきました。



   おわり


※この物語はあくまで物語であり、フィクションです。一般市民である私の勝手な想像です!そして私は右でも左でもありません。ただただ本当のことを知りたいだけの人間です。


最初から書き直しました。

2019-10-16 19:38:09 | 物語
『国大トマヤ 国ルヅイ、日』最初から書き直させてもらいました。
③まで編集終わりました。
全く歴史の知識がなく、書きながら勉強したため拙い物語ですが、いつもながらすみません。
間違いもあるとは思いますが、そこは”想像の物語”ということでご勘弁を。