物語にもならない

へたくそな物語を書く主の部屋

カサンドラの子供 4

2021-01-12 10:21:59 | 物語

 幼少時代は、独りぼっちでいることが多く引っ込み思案で無口でいつもぼーっとしていたので、見る人によっては私のことを「発達障害ではないか?」と感じる人がいたかもしれません。

実際に、私自身も「なぜ周りの子のように友達を作れないのか?なぜこんなにあがり症なのか?なぜ他の子に意地悪されるのか?」など分からない事が多く、「自分は自閉症ではないか?(小6だったので自閉症の意味を正しく理解していませんでした)」などと思ったものです。

大人になってから、ネットが進みあらゆる診断をしてきましたが、全くひっかかりません。IQもいたって普通です。時には電話で相談もしましたが、「ちゃんと話がわかりやすくできているしおかしいと思わない」と言われました。

 

 どうもうちの姉は、頭がいいことがいちばん大事と考えていた節があり、内弁慶の私が外で発散できなかったエネルギーを家の中で動くことで発散していると、それを見て「この子は頭がおかしいんじゃない?」などと聞こえるように母に言って私をバカにしていました。(ちなみに「デブ」も言われました。ぽっちゃりしていたかもしれませんがデブではありませんでした。)

姉からは、「小学校にあがるとIQテストをするんだけど、120以下はバカだよ」とよく聞かされて脅かされました。

ただし私の通っていた小学校では、IQテストの結果を教えてくれませんでしたので、私のIQがいたって普通であることは大人になってから分かりましたし、姉がIQ80であることは、姉が40歳になって発達障害の診断をもらった病院で発覚したのでした。

私は、最初から初めての社交場である保育園に溶け込めなかったことや、性格的にあがり症で内弁慶だったこと、姉とばかり遊んでいたせいで普通の子供との接し方が分からなかったこと、挨拶すらしない家庭であったこと、母親が私と普段の会話をしなかったこと、小1から鍵っ子でいつも一人だったこと(その頃は兄も姉も年が離れていたから私とは遊んでくれなかった)、母親が私の成長を深層心理では喜んではいないこと、姉や男子にバカにされ続け自信を持つことが一つもなかったこと、成長すると自分の家が恥ずかしい家であることが分かってきたこと、などが合間って友達が全くできませんでした。

母が普段の会話をしてくれなかったと書きましたが、母は私をいつまでも”意思のない赤ん坊”だと思っているので、挨拶はしませんし自ら何かをしても褒めません。

しかしその割に、私は赤ちゃん言葉を教わっていないのです。他人の赤ちゃんが車のことを「ブーブー」と言ったり、犬を「ワンワン」と言うのを初めて聞いた時、「え?この子は大丈夫なのか?」と驚いたくらいです。つまりこれは私が一切赤ちゃん言葉を使ったことがない証拠なのです。

また、小学校の時に私の言い放った言葉は同世代の子に笑われることが多かったような気がします。きっとちょっと変わっていたのでしょう。

毎年度クラスに一人は私に近づいて来てくれる女の子はいましたが、私がどう接していいか分からず何を話していいかもわからず、また、「私なんかと一緒にいたら迷惑をかけるのではないか?どうせ途中で嫌われるんじゃないか?」など色々な思いが重なって、自然と離れてゆきました。(今考えると、私の方から嫌ったように見えたかもしれません。本当に私は情けない子供でした。)

あの家庭で生まれ育った私には、とにかく他人と深く付き合う術がわかりませんでした。

 

前章で書き綴ってきたように親も兄弟もドライで非情だったので、私もまた、半生の全般では少しそういう考え方を受け継いだところもありました。

例えば、自分が怪我をしたとしても”痛くても泣いて治るわけじゃない”(つまり、怪我をした他人に対しても自然とそういう考え方になるわけです)とか、動物は人間よりも下等な生き物なので”本当に邪魔になった時には人間の都合で破棄してもよい” というような考え方です。(母は猫なんて嫌いと言っておきながら去勢をしなかったため、子猫が増えすぎて学校の近くに捨てていました。私は母からそれを聴かされていなかったため子猫を家に持って帰りました。)

この考え方は社会に出てから徐々に違うなと感じ、変わっていきました。

もちろん、今の私はそんな考えを持っていません。

このような考え方の親は、末っ子という存在を”意思を持たない人”と考え最後の子供だから親の感情で何をしてもよい(何もしなくてもよい)と考えるのでしょう。

現に、母は幼児の私に対して歯のブラッシングを殆どしなかったらしく、私が物心ついた時には、歯が半分くらい無い状態でその他の歯も虫歯で黒くなっていました。

鼻もかなり調子悪かったのに何もしてくれなかったので、臭くて水みたいな鼻水がポタっと落ちてくることがよくありました。(戦時中の話じゃないですよ!)

ちなみに、兄が中学になって よく鼻血が出るようになったとき、母は心配して病院へ連れて行きました。私は病院に付き合わされたので、母が兄に親身になって悩み病院へ連れて行ったのをよく覚えています。

 

姉とばかり遊んでいる時は、なんとんなく”こんな事をしていていいのかな?”という思いや、姉の奇行で心が暗くなることが多くありました。だからか分からないけど、よく肩が凝ったものです。私が4歳とかの話ですよ。

今思うと、私が いたずらっ子の姉を子守してくれていたので、母親からしたら楽だったのでしょう。しかしそのことは、母にも本当に自覚がないのです。多分、深層心理ではそのような(自分が楽したいという)考えがあったとは思われますが、本人には自覚がないのです。この世に自覚がないこと程、厄介なものはないのです。

 

母は鼻の悪かった私に、「学校で堂々と鼻をかめばいいじゃないか」と言ってよく私にティッシュを持たせてくれましたが、私は母と違って生まれてこの方女性としての感覚を持っていたので、人前で鼻をかめず、トイレにいって水を流しながらこっそりかんだのを覚えています。

一度だけ母の言うとおりに遠足のお弁当の時間に人前で鼻をかんだら、案の定人に嫌な顔をされました。母があまりにも、それが普通のことのように言ったからやったのに「やっぱりね…」の結果でした。

小6になって生理がはじまったとき、あぁ嫌だな~これさえなければいいのに!と思ったことを素直に母に言ってみたら、「お前は男みたいだね」と言われました。いや、そういう意味で言ってないですよねw。どう考えても面倒くさいだけで言っただけしょ? だってプールも入れないし、一週間もナプキンを付けるなんて小6には面倒極まりないでしょう。まさか小6で排卵がどうのとか、妊娠がどうのなんて考えませんよ!(笑)

でも母には”小6がそれを言っている” ということが分からないみたいで、排卵しなくてもいいのに 将来妊娠なんてしなくてもいいのに という意味で言ったように捉えたみたいです。

このように、相手の年齢に見合った会話ができないのも母の特徴でした。今考えると、母の口からは 話している相手の立場に立った言葉を一度も聞いたことがないように思えるのです。

 

こんなエピソードもあります。

幼稚園の年長のときには、みんなが白いピアニカを持ってきているのに、私だけ母が買った”緑色に鍵盤全色が違う色”というカラフル過ぎて恥ずかしいピアニカだったことも覚えています。

保育園最後の運動会で使うそのピアニカは小学校上がっても使うだろうと思って買うはずです。普通、永く使えるようなクラスで浮かないような 白いのを買いませんか?(もしかしたら嫌がらせだったのでしょうかね…?いえ嫌がらせではないんです。だからこそ母は発達障害ではないか?と思うのです。)

どんなのがいいか分からないなら、一緒に買いに行けばいいのにそれもしてくれません。

いつもいつの間にか買いに行ってしまうし、いつの間にか大事なモノを捨てられていて、末っ子の私が知るのは事後でした。とにかく、私の意思や気持ちを聴くということを一切してくれませんでした。

割愛しますが、他にもこういったことが多々あります。母が私を一人の人間だと思っていないことがよく伺えます。母は自分がこれでいいだろうと思ったモノを買い与えるだけで、「その時私がクラスでどんな思いをするか?将来も使えるのか?」ということを一切考えない人でした。

こういう子供がクラスメイトからいじめられるのは必至でしょう。

私はその都度、我慢しました。普段からお金がないと言われているので、買ってしまったものは仕方がありません。

 

 母は、姉が小さなころには縫物をよくしていたそうなのですが、私が物心ついた時には、家のローンのために働きに出ていたのでそんな余裕はなかったのでしょう。私の記憶には殆どありません。お菓子作りなども全くしませんでした。私が小3くらいになって編み物をしていたので、どうやるの?と聞きましたが、教えてくれることはありませんでした。”末っ子”には何もできないと思ったのでしょう。知りたいことを質問してもいつも、「大きくなったら(自然に)分かるよ」と言うだけでした。(私なら、一緒にネットしたり図書館に行って調べるか、忙しくて時間がなくても調べる術を教えます。)

大きくなって初めて「化粧をしたい」と母に言った時も、デパートではなくその辺のプレハブ小屋みたいなその場限りの化粧品店に連れて行かされたので、デパートの1階で売っているのを知ったのは、二十歳を過ぎて街に働きに出るようになってからです。

また、家に帰ってからも”化粧のしかた”を教えてくれるかと思いきや、笑ってごまかすだけで教えてくれませんでした。

昔から母は、デパートに行く時には着る物を選ぶのに時間がかかって大変だったため殆ど行きませんでしたし、化粧に興味のない子供時代には化粧品売り場は目につきませんので、知らなかったのです。

今考えるととにかく、母は女としてかなり変わった女性でした。

一度、姉がお風呂に入っている時に家の脱衣所が覗かれたという事件(りっぱな事件です)があったのにかかわらず、その後もずっと脱衣所の窓もお風呂場の窓も開けられていました。湯気を逃がしたいからだそうです。理屈は分かりますが、普通女の子を持つ母親なら締めます。ちなみに家には塀もなかったのです。

 

 

 昭和の時代には世の中にも、ろくな大人がいませんでした。

新幹線みたいな窓も開かない電車の中で、どんなに小さな子供がいても大人たちは平気な顔をしてぷかぷかタバコを吸いましたし、道はゴミだらけでした。(私たちが二十歳になったくらいから私たちの世代の意思によって道にゴミを捨てなくなりましたが。)


学校の先生は当たり前のように子供を叩いて怒りましたし、性被害にあった子もいたようです。なんらかの事情で不登校になった子供に対して「登校拒否をしている」と言い、TVに出ているちょっと有名な男性は女性と不倫をしてなんぼだと思っている時代です。

真夜中になれば、平気でHな番組もやっていました。もちろんなんの保護もないので、未成年だって見られます。

そしてそんな中で私は小4のとき、おばあさんに近い年齢の女性教師にいじめられていました。被害妄想ではなく、明らかにいじめでした。その根拠はエピソードを上げればいくらでもありますが、この物語には直接関係ないので割愛します。

時代背景だけ書かせていただきました。

 

他にも、母のおかしなところを抽象的にかつ時系列なしで上げてみます。

父が再婚した後、母は弁護士の無料相談会に出向き私も付き添ったのですが父の再婚を「養子に入った」と表現するので弁護士さんが少々意味不で困っっていたこと(私が修正しました)や、相手が何歳で誰であろうとも思ったことをなんでも口にするので子供の立場である私を混乱させたことや、ガンとして自分の言い分が間違っていないと言い張るので、子供の私がいつも折れるしかなかったことなどなど…

 

とにかく、私がどのような状態だったかを感じ取っていただければそれでよいのです。下の妹や弟が発達障害なのとはちょっと違うんですよね。

ずっと年上に逆らってはならない、それが普通だと思って生きてきました。

そして家庭の基準で学校生活や社会生活を送るため、外へでると恥ずかしい思いばかりするわけです。それがおかしなことだと分かると、恥ずかしい思いをし、友達がいなくなるのではないか?という不安といつも隣り合わせでした。

そんな私は”自分が悪いのだ”と思うことで心が慰められていました。そういうものなのです。人のせいにしたら私は既に生きてなかったでしょう。

”全てが自分のせい”そう思わないと生きていけないのです。

ちなみに私は、小6の時に毎日ように自殺を考えていました。母が帰ってくるまで、兄も姉も自室に居て誰も居間にはいなかったので、誰もいない時間を見計らって泣いていました。もしも誰かがトイレなどに1階に降りてきたらいけないので、コタツに潜って鳴き声を殺して泣いていました。

そして勿論、母が帰ってきたら普通にしていました。

ここではとにかく、カサンドラの子供がどんな状況なのを分かってくださればそれでよいのです。

 

 

続きます。

 

 


カサンドラの子供 3

2021-01-06 10:07:38 | 物語

 正確な年数は忘れましたが、兄には約7年、母には約10年、父には約17年、姉には約24年の間、会っていません。

私は末っ子によくある母親っ子でしたので、今でも母とは電話では話します。その電話の内容は大抵、母と姉の現状を聞くことと、私がちゃんと意見を持った一人の人間であることを教えるための会話なのかもしれません。(会うのは御免です。会うと必ず私が嫌な思いをするのが分かるからです。)

とはいっても、人間の考え方の癖はそう簡単に変わるものではないので、本当に変わってくれることを期待するよりも、友達のいない私が話し相手にどうしても困ったときに電話することが多いです。

衣・食・住だけ与える ”放任主義” という名の ”放っとく教育” を受けてきたとしても、結局のところちょっとでも私の味方をしてくれる可能性のある人は母親だけだったのです。ですから私は、母には嫌なことは嫌だと気兼ねなく言えましたし、喧嘩もしてきました。父とは最後まで、心が通じ合ったと感じたことはありませんでしたけれども。

子供といえば、夫婦喧嘩を見た時は母親の味方ですし、女の子は思春期になると父親が嫌いになります。後に嫌いという感情がなくなったとしても、それまで殆ど話をしなかった父との溝はそのままでした。

特に一度でも家族を酷く裏切った人は、悪いけど無理です。

ちなみに、家族の誰も今私がしている職業も住所も知りません。電話番号は、母と兄と父が知っています。しかし母と兄の方からは、かかってきたことはありません。兄は「困ったときには言ってね」とメールで言ってくれますが、目の前で姉にいじめられていても助けてくれなかった人です。おかしいでしょ?()

しかしまぁ、人間というのは ”人を助けてあげたい” という ”欲” を持っているものです。そういう意味では心からのお言葉なのでしょう。お気持ちだけありがたく「ありがとう」と受け取っておきます。

父からは一度だけ番号を通じてSNSに誘われましたが、無視しました。ある日大けがをして兄だけ病院へ会いに行ったエピソードを後で兄から聴かされましたが、その時には父には新しい家族がありましたし、特別になにか思うところはありませんでした。

 

 さて、私に友達がいない理由ですが、保育園に入園したその日から外部の同年代との接触に失敗しているからです。

知らない迫力のある男の子が、教室に入るやいなや私のところへ来て「ブス!」と言ってきたのです。これでもうダメです。当たり前ですよね?こっちは意味が分かりません。そして明らかに悪意のある悪い言葉です。何も悪い事をしていないのに。

あまりに突然だったので気持ちは萎縮しますし、内気な女児が最初から園に来ることに不安があったというのに、いきなりこれなんですから。しかも、それを見ている周りは誰もそれを良くない事だと諭しません。

私はそれまで、自分の顔について全然考えたことがありませんでしたが、いきなり指摘するほどひどい顔なのかなぁと考えました。見ているとイライラするような顔なのかなぁ?と。それから小学校6年生まで、私は下を向いて歩くことになったのです。

せめて幼稚園や保育園は、気の弱い子供と迫力のある子供とをクラス分けするべきだと私は思っています。

しかも私は途中からクラスに入ったので、右も左もわかっている子供の中に、ポンといきなり右も左も分からない3歳児が入れられたのです。なんの心の準備もできていないのに、嫌々連れてこられただけなのに、いきなりこれです。

それだけではありません。県民性もあると思うのですが、同世代の子供たちは、とにかく浅はかで意地悪でした。

例えば、おやつにバナナがでます。バナナは前から順番に回されて房から自分で取るシステムでした。私に「ブス!」と事あるごとに言ってくる男の子はいつもいつも、シールの付いたバナナを先生からもたっていました。

私は背が高い方だったので、いつも最後の方でしたし、周りの女の子も自分がいいバナナを獲得することしか頭になく、いつも腐ったような茶色いバナナが私のところへ来ました。

「わざとだな」と感じましたが、誰にどう訴えていいか分からず、いつもそれを嫌嫌食べていました。いくら嫌だとして私が誰かとそれを交換しても、その人が私の代わりに嫌な思いをするだけなのですから。

言っておきますが、私の運が悪かったから汚くて茶色いバナナが私の所へ来たのではありません。現に、おやつにバナナが出た時には毎回こうでしたから。

用意した先生も含めた周囲の子供たちの意思です。つまりこれは、りっぱな ”いじめ” なのです。

同世代の児童たちは、私の足を踏んでも謝らないし、いつもいつもたった一人ぼっちでいる私を遊びの和の中に入れてくれるような児童は、誰一人としていませんでした。(途中から入園した私は、溶け込めず誘われるのをずっと待っていたのですが)

なんでじゃあいつも待ってるだけなの?と思う人もいると思います。初めて社交の場に出た内気な私には友達を自分から作るなんて、とても大きな壁でした。友達の作り方を教えられたもいませんでしたから。せめて、母親が配慮できる人だったら違ったかもしれません。

私なら、友達にかけるべきセリフを教えてあげます。

ちなみに、ここまで書いてお分かりだと思いますが、保育園の先生の目はただの節穴でした。

例えばある日、独りぼっちの私は、お庭のウンテイで縄跳びで首つりの真似をしたことがありました。みんなと遊んでいる最中だったある女性の先生が、それをみつけて「そんなことしたら危ないよ」と少し離れたところから言ってきただけで、すぐにみんなと遊びに戻りました。おかしいでしょ?()

このように、私の周りには大人がいませんでした。

このウンテイ事件の時、小さな私がどう感じたか想像つきますか?(あえて具体的には書きませんけども。)

確かにこの広い世界には、好んでたった一人で遊びたがる子供もいるのかもしれませんが、私はいつも誰かが誘ってくれるのを待っていました。

だからこそ隠れて遊ばず、いつも誰かに見えるところで一人ぼっちでいました。(ひとりで居ることを見られるのが恥ずかしい日には隠れて遊んでましたが。)そしてあえて見える場所で首を吊る真似をしたわけです。

周りが楽しそうに「きゃーきゃー」大きな声を出して、好き勝手に自分のエネルギーを発散しながら遊んでいる中、私だけはそれをする場がありませんでした。ただ、内気だというだけで。

(誤解されやすいのですが、内気な人は特別我慢強いわけではありません。表には裏があるように、周りが好き勝手やれる背景にはその逆の人が必ずいるのです。ですから、たまには代わってあげてほしいです。そのチャンスを与える仕事をするのが親や先生です。それができないのであれば、最初から適正検査をしてクラス分けをするべきです。”修羅のクラス”と”天使のクラス”ってことで。)

そんな中でもたまに、園長先生が私に名前つきで話しかけてきてくださいました。(いちばん偉い人なので)緊張しながらも敬語で(とはいっても「はい」程度)受け答えたのは覚えています。名前を呼んでくださったことで、この園長先生だけは、少なくとも一人一人を見ているように感じました。

 

突然ですが、ここに ”いじめられやすい子供” の共通点を書きます。

●親に真の意味では大切に育てられていない。(親の身勝手で甘やかされたり放っておかれたりした。また、一人の人間として成長する過程を紡ぎ育む教育をされていない。)

●よって親から真の意味での愛情を注がれていない。親だけが気持ちいい身勝手な疑似愛情は、その子にとって迷惑な事の方が多い。(別の脳みそを持った生き物として尊重されていない証。)

●その延長線で、家でも意見を言わせてもらえないので、自分の意見の言い方がわからない。よって外に出ても、級友などに ”意思のない人” と思われがち。

●家庭で挨拶をしないので、いきなり外で挨拶ができない。(私の場合は、心の中では凄くありがたいとか悪いなぁと思っていても、言葉として「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉は、とても気恥ずかしくて言えなかった。言ったらウソになるような気すらした。)

●自分に自信がない。(いつも親にとって ”いい子” である またはいい子でなければいらない環境だから、自分の好きな事や嫌いな事が考えないと分からない。よってその場ですぐに「嫌です」と言えない。また、言うとそれはワガママであり相手を怒らせてしまうと思ってしまう。)

●誰からも正しく助けてもらったことがないので、他人の助け方も分からない。

●自分の家族を、恥ずかしい家族だとどこかで思っている。

などなど、他にもあると思いますが。

ただこれらはどうして起こるのかというと、親が子供が出来たという現実に、いつまでだっても心理的に”腹を括らない”(または括れない)からなのです。

腹を括っていない親は、相手側(=自分の子供)に対して、人として共感することもできないし、学校やいじめっ子の家に注意をしに行くなどの、自分の子供の為に具体的な行動をすることができません。また、子供が大変悩んでいるのに直視できないため妥当な所に相談することもしませんし、自分の子供の話をちゃんと聞くこともできない親すらいます。

また、そういった話を自分の空いている時間にしか聞かない親もいます。

そういう親に聞きたいです。自分の空いている時間=その子が「ようし、思い切って言ってみよう!」と思う時間 ですか?

またそういう親は、もし自分の子供がいじめられ不登校になったとしても、それは想定外のことであり、まず驚きます。(この世はいつの時代にもいじめの連続であるのに、自分の子供には無関係だと思うことの方がおかしいのだが。)

そしてただただ慌てて蓋をし 無かったことにするか、アドバイスにならないような(自己満足の)意味不明な言葉を言い放ってしまうのです。子供に起こっている現状と心理よりも、自己の安心感を求めてしまうのです。

そうならない為には、子供が生まれると分かったその日から、夫婦で話合って子育てのルールを作るべきです。ルールのない子育てなど、生まれてきてくれる子供に失礼極まりないだけです。セッ○スを一人前にできる大人なのなら、それが出来そうにない相手を選ばないことです。

男性も、責任を持てないのならそういうことをするべきではありません。避妊は失敗することもあるんですから。そして体を傷つけるのはいつも女性であることも、肝に銘じていただきたい。

女性にも言いたい。そういう気持ちのない男性は、あなたの事を愛していません。「そんなの関係ねぇ!」という女性は、セッ〇スが気持ちいいからというだけで、好きになってしまったという”錯覚を犯している”だけです。それは新しい命に対して、大変失礼なことです。

 

障害やカサンドラとは、多分あまり関係のない ”いじめられやすい子供” について熱く語ってしまいましたが、本題に戻りましょう。

 

兄に関してですが、ここに実はあまり書きたくない思い出があります。

小学校1年生くらいの私は、姉に性的虐待に似たことをされていました。

4つも年上の大きくて重たい体が上にのしかかってきて、上から唾をはかれたり、下半身を脱がされて露わにされたり、それを兄に見せてこいという命令をされたりしたのです。

その命令をもし拒否したら、どうなるかはお分かりいただけますよね?幼く力のない私は、もっと酷い虐待を受けないためにもやるしかありません。

普通の人なら傍から見ていても、それが分かるはずです。

しかし中学生お兄はそれを見て、”何をバカなことをやってるんだ” という ”ろくでなし” を見るような顔をして横で騒いでいる私達を無視してTVを見続けていました。私は姉に同意してやっている風に見せていましたが、反面、心の奥では「分かるでしょ?助けて」と思っていました。が、兄にその思いが届くことはありませんでした。つまり兄にとっては、私はそういうことを自主的にする子なのです。

なんで紛らわしいことをするの?って思った人に言い訳を言いましょう。「私だって、兄が絶対に助けてくれるような人間だったら、素直に助けを求めています。」

他にも、私が小学校1年生のときに兄と一緒に登校させられていたのですが、家を出るときは一緒に出るのに、速足でドンドン先へ行ってしまい結局一人で登校していました。

このエピソードは後に一度だけ母に言いましたが、それは普通だと言われておしまいでした。なぜなら、母自身も小さくて足の遅い弟を置いてさっさと登校していたからだそうです。

現在、登校は1年生から6年生まで一緒にしている学校が多いと思います。そこでもし、6年生と5年生の子がみんなが遅いからという理由だけでさっさと先に行ってしまったら、どう思いますか?だいたい何のために一緒に登校しているんでしたっけ?

あと、2階の自室から降りて来た兄が、暇そうに居間でTVを見ていた私に向かっていきなり「ろくでもないな!」と言い放ったこともあります。えっと、私は宿題はちゃんと済ませています。あまりにいきなりで、なんと受け答えていいか分かりませんでした。またその心も不明です。

人としてドライで冷たいエピソードは、まだ沢山ありますが割愛します。

 

 父は私が寝起きの時に無理やりキスをすることが時々あって、気持ち悪くて困っていました。

ある日、母も兄も見ている朝にそれをやってきたので、”今日は助けてもらえる!”と思った私は、力いっぱい両手で押しのけながら(全然力は勝てなかったけど)大きな声で泣いたのですが、それを横目で見ていた母はアイロンをかけ続けていたし、兄も「うるせぇな」と言う顔で無視して朝からTVを見続けていました。

小学校4年生の私にとって、大嫌いな父に無理やりされるキスはレイプされるのと似たような感覚でした。しかもその時はクラスに片思いをしていた大好きな男の子もいましたので、余計に苦しかったです。

 

そこで、姉が40歳になってから、初めて聞いた(嘘つきなので本当か嘘か分からない)話なのですが‥‥

姉が小4で父親に性的虐待を受けていたというのです。ただ、姉は昔から被害妄想がひどい所もあるので、私と同じくらいのことをされていてもそう感じたかもしれません。

ただ、思うところがないわけでもないのです。

というのもある日、小学校1年生くらいの私が帰ってきて玄関を開けると、真っ直ぐすぐ見える場所に姉が壁にもたれていました。下半身だけ裸で〇〇〇を触りながら座っていたことがあったのです。

姉は父親の職場(うちは家の中に父の会社の小さな事務所がありました。)の方向を見て座っていました。しかし辺りには、姉以外は誰もいませんでした。

私は、姉の奇妙な言動を常々見せられていたので、自分で脱いで私にショックを植え付けようとしているのだろうか?とか考えたりしましたが、やはりショックだったし、彼女が何を考えているのか分からないので、声もかけられず後に母にも言えませんでした。(言ったところで母が正しい行動をしたでしょうか?)私自身、姉の奇行になるべく絡みたくなかった というのもあります。

そのエピソードは今でもあまりにもショックで鮮明に覚えています。

しかしもしかしたら、私に性的虐待の真似事をしたのも、父親にされていたからだと考えると しっくりくるのです。。。

 

 

一方母は、本当に女性として育てられたのか?と疑問を持つほど、女の子が洋服が欲しい気持ちや、好きな男の子がいること、お菓子作りをしたい気持ちやおしゃれをしたいという気持ちが 全くわからないようでした。

(家のローンもあってか)「お金がない」といつも言い聞かされていた為、洋服をせびることもできず我慢をしていました。

小学校4年生くらいから、姉が4~5年生だったときよりも体が大きかったので、地味な男色の兄のお古を着せられました。Tシャツもトレーナーも靴も全部です。

(だがその矢先の小学校5年の時に第一章に書いた『パジャマと40万円の鍋セット』のエピソードがあるわけですけど。)

ちなみに、この家のローンのせいで私は一人ぼっちの鍵っ子になったわけですが、私の部屋はないわけです。ここにもご注意を。

なんだかまとまりがなく私の愚痴で汚してしまい、申し訳ありません。

 

再び、父親に関してです。

父は自分の建てた家の一角に、そのとき務めていた会社の事務所を作りました。当初は、そこで働いていました。

父は性的に気持ちの悪い”何か”を持っているなぁと感じていました。子供の私がそう思えるエピソードがいくつかありますので、書けるものだけ書きます。

●私の寝起きに舌をいれるほどの気持ちの悪いキスをしてくる。(これについては、寝ているフリをする以外ありませんでした。起きて抵抗したら、もっと余計なことをされると思ったから。)

●お風呂上りに脱衣所で着替えていると、決まってパンツを履いたくらい時にドアを開ける。(姉もやられていたそうです。なぜ母が気づかなかったのか?また気付いていても注意しなかったのかは不明です。)

●その他

よって、私は防衛線を張りました。

髪をバッサリ切って(これは学校で担任の先生にいじめられ嫌なことが続き、白髪になり、次の年は自分を変えたかったからという理由もある。)家の中ではちょっと男っぽくし、TVでドラマのレイプの場面などがあったときには「こんなことをされたら、相手を殺すか自分が死ぬしかないよねー!」と言うなどです。私は内弁慶だったので、外では大人しかったけど家では大きめの声がでました。

姉が暴れたり母に文句を言って他人を変えようとする性格(結局17歳で家を出て行きましたが)なら、私は自分の工夫によってなんとか凌ごうとする性格でした。

そんなこんなで、私は、自分の子供の頃を思い出すとき、とても複雑な気持ちになるのです。

そして相変わらず、家族から見た私は いちばん甘えん坊でワガママな子供でした。少しでも私が何か主張すると、父には「我が強い子だ!」と言われ、兄には「ワガママだ」と思われるという具合です。母は私に躾をせず、私が何を考えているかも知りませんでしたし、気にも留めていませんでした。

(私の成績の良さも知らなかったので、自信のない私が行く高校を2ランクも下げたことを知らずに、そうなの、そこがいいならそこにしなさいね♪と言ってた人です。兄の時には凄く悩んでいました。子供3人いる中の末なのに、県内に何校あるのかも把握していないようでした。)

 

姉は自分の経済力も考えず家を出ましたが、私は家を出るまでに引きこもったりアルバイトをしたり、ある場所に逃げたり、紆余曲折ありやっとの思いで暗い伏魔殿を出ました。

 

よく、「なんでひきこもるのかわからない」とか「なんで働かないのか分からない」って言う親の立場の人っていますけど。

考えてみてください。ご近所はみんな、学区内の人です。クラスメイトなんです。

奇声あり・猫屋敷であり・友達を連れて来るのにためらうような家。

そんな家で育って、堂々と外に出て友達を作れると思いますか?

クラスでなんの噂もたたなかったと思いますか?

私が行く学校は、姉が先に卒業してるんですよ?先生にどんな目で見られたと思いますか?

親はいいですよね。ご近所さんなんて、たまに顔を合わせるだけの人ですから。自治会から抜ければそんなに付き合わなくてもいいし、職場だって嫌になったら辞めれるんですから。

 

 

続きます。

 


カサンドラの子供 2

2021-01-04 10:05:25 | 物語

次は、姉の話です。

姉は幼い私から見ても、少し変わった言動をする人間でした。

ただ私が3歳の時に姉が7歳です。変だなと感じても指摘するようなことはありませんでした。

第一、何が変なのか どこがおかしいのかを分析して言葉にできるほどの能力は、3歳の子供にはないでしょうし、姉を怒らせても怖いですし、姉の歳に追いつくことはないのでその年齢を経験してから目撃することはなかったからです。

 

ここに、姉の奇行を書き連ねます。

私が3歳の頃、姉はご近所に配達されている牛乳を勝手に手に取り、私の目の前で道路にぶちまけていました。

さすがに他人の家に配達されたものにそんな事するのは良くないと思って指摘したのですが、姉は大丈夫だよと言ってまったく動じず、私にもやれと勧めました。

私が4歳くらいのこと、よく一緒にぬいぐるみごっこをしたのですが、姉は自分のぬいぐるみをハサミで切ったり、わざと汚したりしていました。そんな風景を見る度に、心が暗くなったのを覚えています。

そういうのは予期せず急に始まります。私は姉の奇行を一々全部母に言ったりしませんでしたが、1回や2回は報告したと思います。

ただ、母も発達障害だとすると、注意の仕方がわからなかったのかもしれません。

それどころか母親にとってみれば、妹の私が姉のいい子守りになっていたのだろうと、今は感じるのです。

私は引っ込み思案ということもあり、殆どの時間を姉との遊びに費やしていて外では友達ができませんでした。誰かと友達になりたいと母に言うと、「あの子と友達になりなさい」と言って知らない子を指さすだけでした。

 

姉は数回、斜め向かいにある私の同級生の男の子の家に黙って侵入しました。男の子の妹の服を盗みに入ったのです。

全く見慣れない服を大きくてピンク色したウサギのぬいぐるみに着せて、「アヤコ、アヤコ」と勝手に名前をつけて呼んでいました。「その服どうしたの?」といくら聴いても、姉は質問には答えません。

その服は斜め向かいに住む私の同級生の男子の家の妹、アヤコさんの服でした。

そのことが母に発覚したとき、姉は泣きじゃくっていました。

姉と母は一緒に私の同級生の男の子の家に謝りに行ったのを、私はこっそりベランダから複雑な気持ちで見ていたのを覚えています。情けなく、恥ずかしい気持ちでした。でもこれで母も姉をきちんとしてくれるだろうと思っていました。

しかし、姉はその後も何度かそれを繰り返し、私は恥ずかしい思いをしました。『反省する』という言葉は、姉にはなかったようです。

 

また姉には、私にくれた物をしばらく後になって返せと言われたり、意味不明な酷い嘘などをよくつかれました。私は姉が嘘をつく理由をしりたくて真似をしてみたことがありますが、嘘には嘘を重ねなければならず毎日がつまらなくなったので、小学校2年生の一年間して止めました。

 

姉とは一緒にお風呂に入っていたのですが、私が体を洗った後姉はいつも二つの洗面器に冷たい水と熱いお湯のどちらかしか用意してくれなくて、そのどちらかを選べと言うのです。

私がお湯は怖いから水がいいと仕方なく選ぶと、冷たい水を頭からかけられました。

それが嫌で熱いお湯を選ぶと、火傷しそうなほど熱いお湯を、私の頭からかけました。

ある日、姉が私の同級生のお父さんは悪い事をしている。だから一緒に殺そうと言ってきました。それを二人で遊び半分に計画を立てた日も一緒にお風呂に入りましたが、私は全く悪びれていない姉を見て、なんとなく気持ちが悪くなって凄く嫌な気持ちになったのを覚えています。

 

ここに書いたのは、全て姉が小学校4年生~5年生のことです。私の小学校4~5年生の時と比べると、かなり人間的にも精神的にも幼いというか‥‥明らかに”おかしい”のが分かります。

 

姉は兄弟で何か選ぶ時、いつも私より先に好きな色に手を出し選びました。私が選びたい色はいつも選べませんでした。母はそれを見ていましたが、私が我慢することで家族の平和は保たれました。

その割に、母親と姉の喧嘩がはじまると、姉は私をひどく侮辱しました。「私という存在がいるから、自分が愛されないし苦しいんだんだ!」ということを永遠と母に訴えるのですが、勿論、私の耳にも届いています。私は酷く傷つけられたまま彼女たちの喧嘩は続くのです。

私は否が応でも、自分の存在を否定せざるを得ない状況でした。頭では「姉はわざと私の聞こえるように言っている、自分は悪くない」と分かっていても姉の吐く言葉は、知らず知らずのうちに私の深層心理を傷つけてゆきました。

姉は、人間的には幼かったのですが、私の嫌がることをみつける能力にはかなり長けていました。

そして、母も姉と一緒になって喧嘩するだけで、私の心のケアはしてくれませんでした。

第一章を読んでいていただいている方には、私の母親が幼い私の心のケアをするはずがない事はお分かりいただけるでしょう。

(私の母は、私の大切なぬいぐるみを勝手に全て捨ててから事後報告をしたり、私の寝ている間に普段から嫌がっている前髪切りを、勝手にしようとした人です。

もしかしたら母は、私には自分の考えや意思などないと考えていたのかもしれません。こういう事は、言葉にせずとも普段からの態度で出るものです。伝わってくるものです。

このように毎回、私の意思は母親の屈託のない笑顔によって、ことごとく崩されてきたのです。)

ただ、母には悪気がないように思われましたが、姉には明らかに私に対する攻撃的悪気があったように思います。

また、姉と私は2階の同じ部屋でしたが、小学校3年生のある日突然、追い出されました。しぶしぶ1階おふすまだけで仕切られた仏壇のある部屋が私の部屋になりました。母親が布団を敷いて寝る部屋です。

そして、姉は部屋が自分一人のものになると、いよいよ本領を発揮し始めました。

ある日突然、奇声を発しながら2階の床が壊れるんじゃないかと思う程暴れました。そんな事が何度もありました。急に始まるのでなぜ怒っているのかは誰にも分かりません。

「床が抜けるんじゃないか?!」という親の言葉に、私はただただ家が壊れる心配と、訳がわからない恐怖心を抱いたのを覚えています。

一番怖いのは、その勢いのまま1階に降りて来た時です。その時は、間違いなく私がやられるでしょう。

 

家族旅行も、姉が行きたがらないという理由で自動的にしなくなりました。よって私には殆ど家族旅行の記憶がありません。

私が家に友達を連れてきても、姉がいつ暴れるか分からずハラハラしなければなりません。

いつのころからか、「この家に姉さえいなければなぁ…」と思うようになっていました。

理解できない言動、嘘、奇行や奇声‥‥私にとって、姉はただただ人の良心や常識が通用しない”悪魔”のような存在でした。

それでも私は、

夕飯を家族と一緒にとらず母が姉だけのために買ってきた別メニューを一人で食べ、私が後ろから見えないくらいTV画面に上着で覆いかぶさって観ている姉   をみて、”たまには運動した方がいい”と考えて、無邪気なフリをして風船でバレーごっこをしようと誘ったら少しだけ乗ったのを覚えています。(私小5姉中3)

しかしその後も、姉の行動は何一つ変わりませんでした。

 

姉は高校受験の時には、自らが全く勉強をしなかったくせに、どの学校にも入れない現状にとてもガッカリしていました。

仕方なしに定時制の高校へ行くことになったというのに、「バカと一緒に勉強したくない」と言って1週間で辞めました。

自分の蒔いた種で咲いた気に入らない花を、結局最後に踏み潰す姉の行動は、全く理解しがたいものでした。

”なら、そうならないように過ごそう”という気持ちは最初から持ち合わせていないように見えました。

 

ちなみに余談ですが、姉は 小学校6年生の時には「目指せ東大!」という目標を書いた紙を自室ではない家族に見える場所に貼り付けて、長時間 自室の机にかじりついていました。

私はそれを異常行動だと感じたのですが、母にとっては”手がかからない子はいい子”です。私が「ちょっと変じゃない?」と指摘しても、母はなんとも思っていない様子でした。

また姉は子供の頃から、特殊学級などの知的障害の児童を執拗にバカにしました。

そのため、40歳になって自分が発達障害だと診断された時、認めたくないがゆえに非常に暴れたそうです。その後、発達障害に関する救いの手を差しのべる人が家に訪れるのですが、その人に対しても いきなり飛び蹴りをしたり、罵声を浴びせて帰らすなどして追い返したそうです。

ちなみにその時母は70代。25年以上働いていましたが加入期間が十分ではなく、老後の年金は月に6万ちょっとだそうです。本来なら2倍はもらえていたと思うのですが・・・。

姉はその母に「あの時愛してくれなかったから」という理由を掲げて、そんな母にお金をせびっているそうです。母は、電話では困っているような声でそのことを話しますが、心の奥底ではそれが生きる糧になっているかのように生き生きしています。

私の母は、子育て中は手のかかる子を嫌がりましたが、今になっては手のかかる子供が好きなようです。

母は、いつも意味不明なことで心配し自分の中だけで考え、行動は他人に任せます。

本当に心配するべきこと(例えば女の子を育てる為の躾や 気を付けるべき点、また一人ぼっちにされる幼児の寂しさや、子供が訴えるいじめ等)には気にもかけませんでした。

こちらから見ていると、まるで好みで心配事を選び、それを糧にして生きているように見えます。

このことは、母の周りを取り囲む友人もそのように言っているそうなので、私の偏見ではないと思われます。

(母には友人が多いです。屈託のない人は他人に好かれるものです。それが家族であるか他人であるかでは、全く逆なのです。

私には友人が一人もいないので、自分が自閉症とか発達障害なのかと悩んだこともありましたが。)

 

そして、私の父もまた父親の資格のない人間でした。”資格がない”とハッキリ書くには理由があります。

それは父が最初から姉妹の教育を放棄していること、私が小5の時には殆ど家に帰らなくなったこと、まだ母と婚姻関係にあるのに外に家族を作った事です。

また、姉妹を叱る時にはわざと嫌がることをして裏声で笑う癖がありました。姉は悪いことをしたので叱られていましたが、私に至っては悪い事をしていないのに1度だけ閉じ込められた記憶があります。

また、職場をすぐやめては転々とした(母親はそのことを包み隠さず愚痴を吐いたり夫婦喧嘩する)ので、子供たちにとっては心配がつきませんでした。

これは十分親失格と言っていいでしょう。

兄は成績が良く優秀で、自室で自分の趣味に没頭していました。一見家の中でいちばん質の良い人間に見えましたので、母親は兄の為なら正しく悩みましたし、進学の時なんて頼まなくても悩んだり、兄が反抗期で「ワン(はい)」「ニャー(いいえ)」という返事以外全く話さなくなっても、母は兄に言われる通りにしていました。(滑稽な風景でした。)

そんな兄の実態は、嘘みたいに冷たくドライで人間味に欠けた人なのです。。。。

 

 

続きます。

 


カサンドラの子供

2021-01-03 13:08:06 | 物語

 突然ですが、みなさんは当たり前に挨拶をしているように見えます。でもなぜそんなに自然に挨拶ができるのですか?

なぜそんなに、気恥ずかしさも、躊躇いもなく挨拶ができるのですか?

 

私の母親は、「ありがとう」「ごめんなさい」「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「おやすみなさい」「おかえりなさい」「行ってきます」「いただきます」を一切言いませんでした。

家で教えてもらっていない私にとって、外で言うのはとても気恥ずかしくて難しい壁でした。

このように、私は一人前になるための”躾の第一歩”さえもされたこともありません。ですから、社会に出てから非常に苦労しました。

かろうじて父親に食べ物をこぼしたら叱られたりしたくらいです。逆に父親の叱りかたは、怖すぎて理不尽ではないかと思うくらいでした。

最近になってやっと気づいたのですが、私の母は多分 発達障害だと思うのです。

 

今から、そう思う理由を書き連ねます。

まず、母は日常的に私と姉の名前を平気で間違えました。

私たち姉妹は双子ではありません。

ですから私もまた、人の名前を間違えて呼ぶことを失礼なことだと思っていませんでした。

後に歯科医院の受付で仕事をしたとき、患者さんの下の名前の漢字の読みが分からずテキトーに呼んでみたら、後で先生に怒られました。

私としては、自分の子供の名前を間違う人がいるくらいなのに、「知らない人の名前を間違えただけでそんなに怒ることかな?」と思ったことを覚えています。

その時の私は既に二十歳でした。今思うと、非常に恥ずかしいことです。

 

私が子供の頃から母は、以前は大丈夫だった事をある時急に怒ったりしました。私が3~4歳になると、自分でやりたいことを母に阻まれ、そのことに私が怒ると母も一緒になって怒りました。そんな風に喧嘩になって空気が悪くなることが度々ありました。

しかし母からは「ごめんなさい」も「あやまりなさい」も言ってきません。

そしてまだ何も展開のないうちに、母親の機嫌が直るやいなや向こうから笑って何事もなかったかのように話しかけて来るのです。

あまりの急変に、幼い私でさえも戸惑うほどでした。

このように私が幼いころから、私がやりたいことはさせてくれなかったし、私の大切にしていたぬいぐるみを、断りもなく勝手に全部捨てられたりもしました。報告はいつも事後でした。

 

小学校3年のときある職業に就きたいと、思い切って告白してみたら、「お金にならない」とか「お前には無理でしょう」と笑ってバカにされたので諦めました。子供というものは、親にやめろとかバカにされた職業は選択肢から外すものです。

でも今よくよく考えてみたら、母は私が将来何になりたいかなんて質問をしてきたことがありません。現に、成人式も何もしてくれませんでした。

ハレの日事件で、被害者さんの娘が成人式の着物を着れなかったのを、その母親が娘と一緒に泣いてるシーンを見た時、「え?お母さんてこういうものなの?」と驚いたくらいです。でも自分が母親になって娘がいたとしたら、やっぱり娘と一緒に悔しがるか抱きしめて泣くと思いました。

きっと私の母は、私が人間として成長すること自体に興味がなかったのでしょう。ここでは省きますが、そう思えるエピソードは多々あります。

 

また、新築で注文住宅を建てたのに、既に生まれている私(当時4歳)の部屋を作ってくれませんでした。せっかく一生に一度の家を注文で買ったのに、おかしくないですか?その後、外に大きな倉庫まで作っているというのに。私は、3畳でもいいから自分の部屋が欲しかったです。

今になって母に、家を建てた時なんで私の部屋を作らなかったのかを聞くと、「父親が勝手に家を建てたからだ。私には何の話もないままあれよあれよと決まってた。」というのです。

後に知ったのですが、母は、ご近所さんにも同系統の理由を言い訳したことがあります。

当時うちは去勢もせず猫を飼っていて、アッ言う間に10匹近くになりました。しかも平気で外へ出して家に帰ってくると餌をやるという飼育方法だったため、ご近所さんから苦情を言われたことがあるそうです。その時も母は「あの猫たちは主人が飼っているので私には関係ありません。」と言ったそうです。

ちなみに、私の父と母はちゃんと一緒に暮らしていました。

私は、なんとなく猫のことで近所から白い目で見られていることを感じながら生きていました。いくら昭和の話とはいえ、今考えると、とても恥ずかしい家だったと思います。

しかも、親が反省の態度を全く見せないものだから、私もまた、そのことで反省する必要はないのだと学習していました。子供にとって家庭は社会そのものです。親の真似をして生きるものです。

そんなある日小学生の時に、クラスの友達からもうちの猫で迷惑被った件を言われたことがありました。ですが私からしてみたら”猫が勝手にしたことだからしょうがないのに”と思っただけでした。

私は本当に、バカで恥ずかしい子供でした。そりゃいじめられても仕方がないなぁ と今では思います。

 

小学校5年生くらいの頃、私のパジャマを全く買ってくれなかった母が、鍋セットを40万円で購入しました。

その日、私が「この鍋とかはどうしたの?」と聞くと、母は私にこう言いました。「高かった~ だまされて買っちゃった!」

私は満足に小学校に着てゆく洋服もなく、2~3日おなじ服を着たことも多々ありました。本当は思春期にさしかかりおしゃれをしたかったのですが、常日頃からお金がないと言われ続けていたので我慢していたのです。

私には部屋がなかったから、母親が帰る前にこたつに潜ってそのみじめさを泣いてたというのに。。。。。

そんなある夜、突然母親がこんな質問してきました。

(私には部屋がないので母親と同じ部屋で寝ていました。)

母は、私が翌日着て行く服を着て寝ようとしているのを見て「なんで明日着ていく服を来て寝るの?」と質問してきたのです。

ずっと同じ部屋で寝ているのだから、その事は知っているはずです。

私はどう答えてたらよいのかよく分からなかったので、「今日来ていた服を来て寝るよりいいでしょ」と返しました。

 

 

母は私が幼い頃から、一番上の優秀な兄と、素行の悪い姉と、私のことを「うちには、良いこ・悪い子・普通の子がいる♪」と楽しそうな顔で言っていました。

また母は、半年に一度は自分が病気かもしれない宣言をしたものです。「私は癌かもしれない」「私は慢性疲労症候群かもしれない」等々です。。。癌は体の部位を変えて何度も訴えてきています。

ちなみに私の母は、看護婦(看護師)でした。

それも高看なので准看よりも凄いんだ、という事を普段から聞かされて知っていました。(仕事の愚痴も毎日聞いていました。部屋がないので聞くしかない。)

知識のある医療従事者からそんなことを言われた小さい子供は、どう思うと思いますか?小学校低学年から高校生まで、ずっとこれが続いたのです。

普通の人なら、我が子がどう思うか分かるのと思うのですが、母には分からなかったようです。普通、親が病気かもしれないなんて知ったら、子供は心配になりますよね?不安になったり悲しくなりませんか?

 

 

 少し成長した私が不登校になってしばらくしたある日のことです。

母が「一緒に医者に行こう」と懇願するので、仕方なしに二人で電車に乗って隣町の医者へ行きました。

私は母が診てもらうのかな?とか二人で診てもらうのかな?それともやっと誰かに助けてもらえるのかな?とかうっすらそんなことを考えていたような気がします。

理由は何も言われずただただ一緒に医者へ行く必要性があるということでした。行った先は、神経内科でした。

そこには男性の若めの医者がいました。自分の住んでいる街にもいくらでもいしゃはありました。私には、”なぜわざわざ隣町のこの病院なのか”とか、”その医者がどこの誰なのか”など、全く知りません。

診察室の椅子になぜか私が座らされ、母は私の斜め後ろに座りました。

私は、なぜ来たのかを知らされていないわけですから、得に何も話す事はなく(引っ込み思案な子供でもあったから)、先生に言われる通り椅子に座って血圧なんかを測ってもらいました。

今思うと、医者も”何をしていいかわからない”といった雰囲気だったのを覚えています。いくつかの質問には答えましたが、意味不明な空気が流れました。

最近になって、あの時何をしに行ったのか聞いたのですが、母にも分からないそうです。母に分からないのなら、私にはなおさらです。。。

 

更に、(体だけ)大人になった私(当時30代)が電話で離婚相談をすると、母が「とにかく為になるから出てきなさい」「あの人ならなんとかしてくれる」「絶対に合うべきだ」的なことを言って聞かないので、電車に乗って、母と母の言う凄い人(母はしきりにその人の名前だけは言うけど、私にとっては全く縁もゆかりもない知らないおじさん)に会いに行きました。

現地に着いてよくよく聞くと、そのおじさんは母が学生時代に付き合っていた人で、現在は社長をしている男性でした。

そこから山手線で2駅くらい行った高そうな中華料理店で食事をさせられて、高そうなタワーマンションの一部屋(おじさんセカンドハウス)に連れて行かれました。

しかし考えてみてください、私には全く接点のない人です。一体、私たち夫婦の何を話せるというのでしょうか?

普通に話はしましたが、いったい何のためにあの日わざわざ私が電車に乗ってあそこへ行ったのか、今でも分かりません。

ただ、母は私が離婚したいと話したことで、私が路頭に迷うんじゃないか的な考えを持ったようです。

”ひょっとしたら母は、この社長さんに抱かれてお金を貰ってしばらく過ごしなさい”と言いたいのかな?とか、後になってからもかなり考えました。またそれを、母は何の考えもなしに行動はしたが、なんとなく深層心理でそう考えていたのではないか?とか。

ただ、社長さんは「まだまだ若くてまぁまぁの容姿を持った この子(私)が、路頭に迷うはずはない。この時代、逆に引っ張り凧だ」的な当然の意見を言ってました。

しかしどうやら母には、それが分からないようでした。

 

その他にも、

●私の歯は3歳にして真っ黒で、7割の歯は素人が見ても分かるような虫歯によって溶けていた状態でした。これは母親が歯磨きをさせていなかったからに他なりません。母は、よく私に「乳歯は生え変わるから大丈夫なのよ」と言いました。

●私が小6くらいの時に偶然母親のトイレ掃除を見たことがあるのですが、1度流してキレイだからと言って、便器内の水でトイレ全体のそうじをしていました。

あまりのショックに私が今後はやめてくれと言いましたが、つい最近聞いたらまたやっていることが判明しましたので、きっとその後すぐに同じことをしていたのだろうと想像しています。

ちなみに、母は私の言葉はすぐに忘れる人でした。(なぜか私が何を意思表示しても馬の耳に念仏、私を意思のある子だと思っていない様子だった)

●私が故郷から遠く離れた所に住んだ時、人生に困って泣いて母親に電話したら、母は母のお姉さんに折り返し電話をさせました。

私は殆どあったことがない人です。何も話せませんでした。とても悪い事をしたと思って電話を切りましたが、私が悪かったのでしょうか?

●私が倒れた時に、救急車を呼んでほしいと言ったら近所の目を気にして断られました。後に知りましたが、救急車の代わりに私をいじめていた女の子のお母さんに車を出してくれないか と頼んで断られたそうです。(その後日談に、私は複雑な気持ちになりました。)

●私が不登校の時に、知らない女の子が私に会いに来た時がありました。

母はその子がどこの誰だか全く確認することなく、友達が来ているよと言って玄関先で私に会わせて、自分はさっさとキッチンへ行ってしまいました。

その知らない子が来た理由は、宗教の誘いでした。

●母が離婚して私(独身社会人)と二人暮らしをしていたある日、母が眩暈で倒れました。

母は自分で救急車を呼んで病院へ行ったはいいものの、「切り替えたばかりで保険証がないから、すぐに作って持ってきてほしい」と、切羽詰まった声で携帯に電話してきました。

私はデートを中断して市役所の人に無理を言って保険証を速めに作ってもらい母のいる病院へ持って行きました。

後々病院から聞くと、その日に保険証がなくても大丈夫だったそうです。母は元看護師さんなのに、そのことを知らなかったのでしょうか?

 

 

まったく、子供として散々な事ばかりです。。。。

私は子供の頃からよくこんな夢を見たものです。

 3歳くらいの私が積み木を3つ4つ積み重ねていると、母がやって来て屈託のない優しい笑顔で、その積み木を崩す

     という夢です。

 

 

 そしてずっと分からなかったことですが、姉もまた発達障害だったのです。そのことは姉が40歳になったときにやっと判明したのでした。

私としては、ずっと小さい頃から”姉は少しおかしいのではないか?”と薄々感じていましたが、母には全く感じなかったのだそうです。

後に聞いた話ですが、学校の先生が家庭訪問で姉の奇行を忠告した時、母は怒って先生を追い返しています。

母は、私に対してはとても穏やかでいつも笑顔でした。だから、結構最近まで”優しい人”というイメージしか持っていませんでした。しかし、兄に聞くと母はとても気が強くすぐにカッとする女性だったというので、驚いたのですが、よくよく記憶を辿ってみたら、そういえばそういうところもあったな とすぐに納得がいきました。

 

学校の先生に対する態度で言えば、私が学校を休む為に母に電話してもらった時、先生を呼び出している保留中に電話を切ってそそくさと仕事へ行ってしまった事が何階かありました。先生から折り返し電話がかかってきたとき、母から何も聞かされていなかったため、戸惑ったものです。

その行動が相手に対して失礼だ、とは思っていなかったようで、ただ自分が仕事に遅れるからというだけの理由です。そしていつもどおり私には何の報告もありません。

 

母は、私が熱を出して連日嘔吐していても、休んではくれませんでした。それが当たり前だと言った感じでした。ただ、看護師だったので抗生物質ばかり飲まされていたのを覚えています。

ですから、今でも子供が微熱を出しただけですぐ休む女性を見ると、その子供が羨ましいと同時に少しイライラします。「何故、”そうしてもらわなかった私が”その人の休んだ分を請け負わないといけないの?!」と。

こんな感情を持ちたくはありませんが、私のように、怪我をしても熱を出しても学校でいじめられても、全く母親に共感されたことのない人はこのように思うのは当然ではないでしょうか?

幼稚園の男の子の「ブス」という心を殺すような酷い言葉に関して訴えても、母は「その男の子はあなたと仲良くなりたいのよ。あなたが好きなのよ」と軽い感じで笑って言ったのです。

これは、言われて傷ついている私に言う言葉でしょうか?言う相手を完全に間違えているのです。言われて「嫌だった」「傷ついた」と訴えている3歳の女の子に母親が言う言葉でしょうか?

この言葉の裏を返せば、”敏感すぎる私が悪い”ということになりかねません。特に言われた私自身は、そう思うしかありません。

 

とにかく母は、私には躾もせず、叱ることもせず、いつも優しく私を甘やかせて一人ぼっちにし(私は小1から鍵っ子です)、笑顔で私の言うこと全てを否定する上に、共感力の欠片もありませんでした。

 

 

そして私は、幼い頃から発達障害の姉から虐待に近いいじめをされていました。母がネグレクトだとしたら、姉からは虐待です。

4歳年上だった姉は、いつも私より先に色々経験し、私より先に好きな色を選び、とても嘘つきで、私の困ることをわざとしてきました。

そして父親と兄は、いつも私がワガママを言っているという印象を持っていました。

それは私が駄々をこねているところを見ているからだと思います。しかし、何一つこちらの要求を満たしてくれない親に対して子供がだだをこねるのは、当たり前ではないですか?

 

続きます・・・・

 


迎 春

2021-01-01 11:30:15 | 日記

新年 あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

コロナ以外のニュースはないのかいっ!

と突っ込みたくなるような2020年がやっと終わりました。

今年はコロナという言葉を聞かないでいいように、なるべくネットニュースで選んでニュースを見たいと思います。

ちなみに、ワクチンは3か月しかもたないけど 罹ると6か月もつそうです。

 

世界ではワクチンワクチンって騒いでるけど……

要するに、

ワクチンによる人工的な副反応と自然に罹って被る副反応どちらを選びますか?っていう話ですよね?

なんか違いますか?