物語にもならない

へたくそな物語を書く主の部屋

カサンドラの子供 5

2021-02-02 13:15:08 | 物語

 私は自室がなかったためどうしても母親の料理姿や掃除姿を目にしますし、お手伝いもよくしました。

そんな中でも、やはり母のおかしな行動はありました。

例えば、マヨネーズが容器の半分くらいの量になると母はよく容器の口に自らの口をつけて空気を吹き込んでいました。「汚いな」と思いましたが子供の頃は「それがマヨネーズにとって良い事だからしているのだろう」と思っていました。しかし、少し成長すると母のその行動は全く無意味なばかりでなく、口腔内細菌が入るし空気が入るしで寧ろマヨネーズにとっては悪いことだと知りました。母が一体なんのためにそのような事をしていたのかは不明です。多分したいからしていたのだと思われます。

また、牛乳パックの口が”あけくち”とは逆の方が開いていることがよくありました。たまたま母が開ける瞬間を見かけた時に、また反対側を開けようとしていたので、私が「こっちが”あけくち”だよ」と教えたのですが、「どっちも同じよ」と言って反対側を開けたのでした。後で知ったのですが、実は牛乳パックは”あけくち”の反対側はのりがしっかり付いているので開けづらくなっているそうです。母がなぜわざわざ(いやわざとかな)”あけくち”を無視して反対側を開けるのかは不明ですが、きっとそうしたいからしていたのだと思われます。

また、初めて作る料理でパッケージに作り方が書いてあってもそれを読まずに作るので、あまりおいしいとは言えない品物が出来上がったりすることが多々ありました。

また、私が保育園に生き始めた3歳の頃、まだ引っ越しする前で距離があったので母の自転車の荷台に乗せられて通っていました。母は自転車を倒し、幼い私が擦り傷や深い傷を負ったこともしばしばありました。そう言ったときも母は忙しいからか共感することはありませんでした。

本当にただの荷台に3歳の子供を乗せていたので、足を乗せる所がありませんでした。1度 足が自転車の後輪にからまってしまい、そのまま倒れて大怪我をしたことがあります。その時の傷はまだ消えていません。当然、毎回痛かったので泣きました。度々倒れる自転車・・・こんな思いをして保育園に行くなら「行きたくない」って思うのが普通でしょう。今思うと不思議なんですけど母は一緒に転ばず、全く怪我しなかったんですよね。。。

さらに、普通なら子供に言わないような事を言う(看護師かつ親であるのに、子供に「自分が病気ではないか!?」と発言したり、仕事の愚痴というより子供の私はあった事も見たこともない人の悪口)などを平気で言うなどもありました。

大人になってから知った話ですが、母は病院を辞めるときよく院長に”たてついて”辞めていたそうです。また、辞める時にはお菓子などを一度も持って行ったことがないということです。

母がそうだったので大人になった私もまた、職場を辞める時にお菓子を持って行くことはありませんでした。しかしある職場である人が辞める時にお菓子を持ってきたのを見て、その方が良いしそれが普通なんだなと知りそうするようにまりました。その方が自分の気持ちも晴れやかですし、そうすることのメリットの方が多いと理解しました。

母についてここで言いたいことは要するに、相手が子供であろうと大人であろうと上司であろうと誰であろうと関係なく自分の言いたいことを言い、したいことをする、そしてしたくないことはする必要がないと独断で決めて行動するわけです。

多々あるこういったところが、母親が発達障害ではないかと疑う理由の一つでもあります。他人と自分の立場や物には理由があってそうなっていること等を、理解する前にとにかく”したいからする”のです。

中でもいちばん引いたのは、以前にも書きましたが 母がトイレの便器内の水でトイレ全体を掃除しているのを見かけた時です。さすがにその場で注意しましたが、どうも治っていなかったようです。

兄も姉も自室があったせいか全く母の手伝いはしませんでした。よって母の掃除している姿も見ていませんでした。

知らぬが仏ですね。。。

自室を与えられなかった私は小3くらいになると、手伝いをせざるを得ませんでしたし楽しく進んでやっていました。学校が長期の休みに入ると私が毎日、母親の代わりに掃除やお米研ぎをしていたと言っても過言ではなかったです。

それでも兄はよく私にこう言ったのです。

「お前はわがままだ」

 

小3の私が夏休みの午前中にいろんな棚の扉を開けて空気の入れ替えをしていると、遅く起きてきた兄にによく怒られたものです。空気の換気のために開けていると思っていなかったのでしょう。いやでも、換気目的以外になんのために開けるっていうんでしょうね??

 

そんな兄は、良い大学へ行ってそのまま都会へ一人暮らししたのですが、柔軟剤を洗剤だと信じて使用していました。

泊まりにいったとき「朝ごはんはちゃんと用意したから先に出るわ」と言われたので、翌朝起きてからどこにあるのか探したのですが、ベッド下のお菓子以外食べ物はありませんでした。(冷蔵庫はなし)

車の運転をすると、相手よりも自分が悪いのにパッシングして注意したつもりになっていたり、ただただ自分の好きな曲だけ流したり(母も小4の私にオフコースや演歌ばかり聞かせましたけど。)

私が都会で一人暮らしをする時部屋を借りるときの保証人になってもらったのですが、いざ契約する時になると仕事が忙しいからと言って、中々1枚のファックスを送ってくれなかったりもしました。

でもこう言うのです。

「困ったときにはメールしてね」

苦笑。お気持ちは、ありがたく頂戴いたします・・・。

 

母はよくこう言いました。

「〇〇(兄)は、わたしに似たのね♪」「〇〇(姉)は、生まれつきおかしかった(自分のせいじゃない)」

父はよくこう言いました。

「うちの女の子は教育に失敗した お前(母親)が悪いんだ」

また両親ともどういう訳か、姉と私の区別をハッキリとついていない様子でした。しつこいようですが年齢は4つ違いますし、性格は全く違います。

母はなにかと私を褒めました。しかしそれは私にとって、大袈裟か身に覚えのない賞賛でした。何故そうなるかというと、母は私をきちんと観察していませんでしたし人格を尊重してこなかったため私というパーソナリティを理解していなかったからに他ならないのです。

逆に姉のことはよく分かっているようでした。”手のかかる良くない子”とうい意味でです。

 

母の行動はいつも問題を起こす姉に向けられていたため、私の成長の過程でおこった出来事や相談事をする時間はほぼ全くと言っていいほどありませんでした。

たいてい私が困っているときに限って姉が問題を起こす、ということの繰り返しでした。

その上母は私が小さなころから働いていたわけですし、自分のやりたいことには敏感なわけです。

ですから、母は私という人がどんな人間なのか分かっていないのです。

おまけに姉は20歳を過ぎても30歳を過ぎても、「昔自分はおまえに愛されなかったからこうなったんだ!」と母親を責め続けました。そして母親はお金を与えていました。

私から見たら、姉は十分手のかかる子として愛されていました。姉のためによく母親は行動していましたし悩んでいました。しかし姉の頭の中では、いつでも自分以外の人が悪くいつまで経っても親の愛情不足でした。

 

今では彼らに会わない私ですが、それでも結婚式にはもちろん家族全員を呼びましたし、父と母と兄は結婚式に来てくれました。

その後しばらくは交流しようと努力したのですが、(まだ自分がカサンドラということを分かっていなかった時から)どういうわけか彼らに会うと暗い気持ちになるのです。家族なのに。

 

自分に問題があるのかと思ってよくカウンセリングへ行ったものです。しかしさほど意味があったとは思えません。

実は18歳の時、自立しようと頑張っている矢先に、急に実家に帰ってきた姉から逃げたい気持ちもあり 自ら精神病院に長期入院したことがあるのですが、マイナスな経験となっておしまいでした。(その時、薬はもらっていません。自分的には避難するためと自立するためだったので。)

それまで私は自らが私の親になるしか育つ方法がなかったわけですが、病院の先生はどうやら私に問題があると仮定して全てを進めていったので無意味どころかマイナスだったのです。まるで警察に冤罪をかけられて取り調べをされているような感覚でした。

結果は、私の中のたったひとりの本物の親が心の中から居なくなっただけにすぎず、私が必死でしがみついていた藁をもむしられた結果となりました。精神科医の先生は、私が親に愛されたいと感じていると勝手に仮定したのです。しかし当の本人は全くの逆で、早く自立して外へ出たいが方法が分からなかったから病院を頼ったのです。マイナスでしかありませんでした。

あの家庭と、甘やかす母(私の要求を受ける意味での甘やかすではなく、教育や躾放置の甘やかしです。)は、私にとってみれば 絡まったら最期の”蜘蛛の巣”だったのです。18歳の私は、早くここを逃げないと絡まって一生逃げられないだろうと予感していたのです。

それなのに、「家庭でもう一度甘えてきなさい」というのが精神科医の答えでした。また、その精神科医は私が全く思ってもみなかったことを言ったのです。「親に愛されなかったんだね」白衣を着たプロの先生にこんなことを言われたのですから、本当のことにちがいありません。それまでそんなことは感じたことがなかったので、驚きました。

また、「言いたくない事は言わなくてもいいよ」とおっしゃったので何も言わないでいると、遠まわしに叱られました。

そしてよく昔のエピソードを話すように言われ、その時どう思った?とよく聞かれたのですが、その時の自分がどう思ったかなんて、その時に戻らなくてはわかりません。

さらに、小さな言い間違え(したい⇔しなければならないの言い間違いや、明らかに悪者があっても誰も悪くないと諭されたり などなど)を指摘されたので、とても疲れました。

私は、人に話しても解決しないことは話さない性格でしたが、彼らのやり方は「話せば楽になる」の一点張りでした。実際は話せば話すほど、苦しくなり”私”が崩れてゆきました。

最後の面接で父親と母親の直してほしいところを言ってくださいと言われたので、思い切って素直に言ったのですが、両親には伝わっていませんでした。一体何のために言わされたのかが今でも分かりません。ただ他人に恥をさらしただけでした。

ちなみに、私は別に親に直してほしいとか思っていませんでした。親は親であり自分は自分で別の人間ですし、子供の頃の体験から私が何を言っても治らないのは分かっていたからです。

「親は親であり別の人格を持っているから、多少の理不尽なことはしょうがないのだ。」という考え方により、間違いなくそれまでの私は救われていたのです。

 

「親に愛されていない」という言葉は明らかに、あの時の私にとっては不適切な、言うべきではない告知でした。もし言うなら、親に言うべき言葉です。それを私に言われても困ります。一体、私にどうしろというんですか??ガンですねと医者に告知されて治してくれないのと同じことです。それに、これは遠まわしに「親を憎め」と言っているに等しいのです。親を憎むということは、私が自分の人生を歩むことを遠ざけることでもあるのです。

プロの医者が、「あの姉と同じムジナになれ、姉やってることの方が正しかった」というのです。そして医者は、私に「正しいとか誰が悪いとかない。」と自ら言っておきながら、自分の正しさだけは絶対に変えようとはしませんでした。私は医者に聞かれたエピソードについてその場で悪かったのは誰だったのかを知りたくて話ましたし、一人一人のパーソナリティをいちばん大事にしていました。「人は人、自分は自分だから」と思って生きてきたからこそ18歳まで生きてこられたのに、医者がそれをごちゃまぜにしてしまいました。

私が丁度多感だった時代は、このような酷い時代でした。精神科なんてまだ確立していないことも多く、(DMSなんて今や5です。つまり5回も改定されているわけです)私たちのかかった精神科はまるで実験科でした。

その後私がいかに苦しんだかはご想像にお任せします。

とにもかくにも、精神科医は私の掴んでいた藁を抜き、私の心のカサブタを無理やり剥がすと「もう大丈夫ですね」と言って退院させたのです。

退院直後実家に帰った私は自分を無くし、混乱しました。それまでの人生より苦しいことになりました。

元々武器を全く持っていない私の、せめてもの鎧すら全て剝ぎ取られ、全く外へ出られなったのです。人として生きる希望を全て失ない、全てが以前よりもひどくなっていました。あの時期はまるで地獄でした。

外へ出られなかったのもあって、精神科医との面接は代わりに母親に行ってもらいました。その裏の本心では、母親を診てもらいたかったのもあったのです。

母親といろいろと家庭のことを話しているうちに、「医者なら分かるはず」と思ったのですが、その医者は分からなかったようです。

結局、本当に病院へ行くべき人をみつけてはくれませんでした。

 

 私は思春期からつい数年前まで、自分がカサンドラだとは気づかず色々な精神的な病様の症状が発生しました。過食症、引きこもり、寡黙症、鬱的症状、アルコール依存 などです。友達もできませんでした。まるで私が発達障害かうつ病のようでした。

どのケースも自ら病院やカウンセリングに頼っています。いつも私が病院へ行く、つまり”自分を直さなければならない状況”に置かれていました。そして結局のところ、いつも自らの努力によって克服してきました。またいつ再発するか分かりませんが、そういったキケンがあることは知っています。

私が一人暮らしに疲れて実家に帰ってみたら、私の部屋は父の愛人の部屋に変わっていました。私の愛デスクは雨ざらしになっていて、いつか取に行こうと思っていた私の大事なノートや教科書は1階の元事務所に 兄のや姉のとごちゃ混ぜにされ、どれがどれだか分からない状態になっていました。

すっかり愛人の部屋と化した私の部屋見せられて、呆気に取られている私に父はこう言いました。「きれいになっただろ!」

私はテレビでよくあるように、暖かく迎えられるのをちょっとばかり想像していました。今まで嫌な思いばかりしてきた家ではありましたが、久しぶりに帰って、まさかここまで酷い目に合うとは思ってもみませんでした。

私もバカですよね…”家族”というものをあまく見ていました。

 

そんなこんなで、いろいろと苦しい思いをした故郷ですが、なぜか私はあの場所が今でも好きです。山とか河とか空気、そして物をです。今考えると、そんな風に思える理由は、私が崖っぷちで色々工夫し投げ出さず一生懸命だったからに他なりません。

しかしもう帰ることはないでしょう。迎え入れてくれる人は一人もいませんし、あの頃のあの空気はもうどこにもないのですから。今実家は姉がひとり、暮らしています。

しかしいくら心の中にある故郷を懐かしく思えたとしても、実家・姉から虐待を受けながら目にしたTV番組などを見ると、懐かしいと思うよりも気持ち悪くなって変に暗い、なんとなく吐きたい気持ちになります。

そして小学1年生から一人ぼっちにされた、あのダイニングの窓から差し込む まぶしい西日が大嫌いなのです。

 

 

終わり