前提として
私と父は仲が悪い。とにかく相性が悪い。
子供の頃から会話は少なく、歳を重ねるごとにひどくなる有り様。
そんな父との不仲が決定的になったのは、私が高校生の頃の三年戦争。
会話はなく、進路相談も事後報告。
喧嘩もなく、会話もない。
ある意味冷戦のような状態でした。
というのも、父には高校の学費を払えるだけの貯金がなかったのです。(昔の借金のせい)。
なので父が子に対して言う「誰が金を払ってると思ってるんだ!」みたいな会話は成立しない。
だって父には出すお金がない。
そんな父を嫌うのは年頃の子供にとってはある意味当然でしょう。
他所の家庭では当たり前に払われている学費が貰えないんですから。
そんな私は、祖母の遺産と親戚の協力によってなんとか高校に入学できたのでした。
和解は病と共に。
さて、そんな父との和解に至るまでついて書きましょう。
その後も戦争を繰り広げたまま私は奨学金を借りて進学し遠方で一人暮らしを始めました。
ワンルームの広い部屋。
汚れたりきれいになったりするけど、どれも立派な私のお城。
やっぱり嬉しい。
「私の城だ!もうお父さんとは会わないぞ!」
私は父親に対して籠城作戦を開始した。
籠城作戦は三年間続いた。
その間の三年は楽しくも退廃的な日々。
モラトリアムの意味も理解できないまま、酒に溺れたりしていました。
途中から勉学に励み、なんとかかんとか学びを深めていくことでそれなりに楽しい学校生活を送っていました。
当然、父から連絡が来たことは一度もありませんでした。
そんな私も就職活動を行わなければいけない時期が来ました。
幸い、就職活動はすぐに終わりました。
確か、四月の初旬。
同回生で一番早かったのを覚えています。
「いくら仲が悪くても就職活動が終わったことぐらい伝えないと」
そう考えた私は、約3年と半年ぶりに父に連絡を取りました。
「もしもし。私だけど。仕事決まりました。」
簡潔で情緒のない会話。
連絡といった方が的を得ているかもしれません。
いつもなら父は「そうか。了解した」と言うところ。
こちらも簡潔で情緒のない会話。
やはり連絡と呼んだ方が相応しい。
私もそう予想していたから上記のような連絡をしたのです。
しかし、予想を裏切り父は弱々しい声でこう言いました。「すみません。ガンになりました。前立腺がんですが転移してて明日入院で、明後日手術です。」
いきなり父の病の報告に呆気にとられる私。
思わず「何でもっと早く言わない?!」と言いそうになりましたが、ぐっと我慢しました。
それまでの父との関係性を考えれば、気軽に報告できるような間柄では無かったことは明白。
ましてや私は籠城作戦を開始した身分。
お互いの意地と見栄と愚かさが現状を招いている。
だから、お互いに攻めることは出来ない。
私たちは人に折れるよう作られてない。
しかし、無関心でいることも出来ない。
私と彼は親子なのだ。
私は苦し紛れに「明日はそっちに用事がある。ついでに病院につれていくよ」と虚偽の連絡と予定を伝えました。
父は「わるいな。」と消えそうな声での感謝。
見え透いた嘘を彼は見抜いたのです。
ついに、長く続いた戦争は私の勝利に終わった。
得るものもないまま。
バカだなぁ私は。
父と私がすれ違う
よく人生はマラソンに例えられる事が多い気がします。
若い人は前半で年寄りは後半。
その方程式に乗っとれば、父が病気になるのは至極当然。
後半になればなるほど、見栄が落ちて体にガタが来る。
なのに、現実はどうだろう。
私はその事実をいまいち認識できていない。
当事者である父もきっと同じだろう。
だから、お互いに戸惑っている。
対した会話もない中でここまで来てしまった後悔が胸を掠める。
父は私の好物も知らない。
私も同じ。
私は父の好物も知らない。
私たちは、お互い同じようなコースを走っている。
見栄っ張りのコースだ。
それは虚しく自己満足とほんの少しばかりの称賛位しか得られるものがない。
父はそのコースの折り返し地点に来た。
その知らせとして癌を患った。
私はコースを始めたばかり。
心身ともに健康とまではいかないが病院の世話になることがない。
似ているけど、なにかが決定的に違う。
父と私は病と言う知らせにより和解を果たした。
病の知らせを受けることでしか和解できなかった。
やはり後悔が胸を掠める。
「今更どの面を下げていけば、そもそも何を話せば良いのか。」
言語化できない感情を胸に秘め、私は父を迎えるってに行く為、自分の城を自分の足で出た。
続く(火曜日か水曜日に出します)