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★天理教教祖中山みき

2021年06月08日 02時08分35秒 | 宗教
★天理教教祖中山みき
書物で以前読んだものに 全国から葬儀に10万人以上の人が集まったと。
写真が何枚か付いていたが人人人であった。
これだけの時代にこれだけの人が集まることはほとんどない。
この当時は口コミがマダ時代をしめていた。
天理市が今の何倍にもなったのであろう。
よくこれだけの人が集まったと そんなようなことが書かれていたと記憶している。
★なかやま-みき 【中山みき】https://ja.wikipedia.org/wiki/中山みき
(1798-1887) 天理教教祖。大和の人。一三歳で庄屋の中山善兵衛に嫁ぐ。四一歳のときに神がかり、以来50年間、神意を宣(の)べ、「みかぐらうた」「おふでさき」を書き、弾圧にあいながら人々を教化した。

★中山 美伎  (なかやま みき、寛政10年4月18日(1798年6月2日) - 明治20年1月26日(1887年2月18日))
日本の宗教家、天理教教祖。天理教教会本部では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称させている
寛政10年4月18日の朝に、大和国津藩山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の前川半七の家に生まれる。 前川家は浄土宗の檀家であったので、その感化を幼時より受ける。
 
浄土宗の僧侶になることを希望し、19歳の時に五重相伝を受ける。浄土宗の熱心な信者だった。
 
文化7年9月15日(1810年10月13日)に中山善兵衞に嫁ぐ(この中山家を、天理教では「元のやしき」と呼ぶ)。
 
天保9年(1838年)、まず10月23日に、長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衞を招き祈祷をおこない、みき自ら加持代となり、このとき、「元(もと)の神、実(じつ)の神」と自ら名乗る、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。その神は、みきを「神のやしろ」として貰い受けたいと申し出て、その申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば、中山家を滅ぼすと言ったという。10月26日になって、夫の善兵衛がみきを「神のやしろ」となることを承諾すると、みきの苦痛がおさまったとされる(天理教では、この日を「立教の元一日」としている)。

★天理市(てんりし)は、奈良県北中部に位置する市。日本で唯一宗教団体の名称が市名となっており、市の中心部には天理教関連の施設が集中する等、宗教都市として知られている

★ニセお指図「中山みき最後の天啓の巻」考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/niseosashizuco
【「中山みき最後の天啓の巻」考】
「中山みき最後の天啓の巻」を転載しておく。いわゆる怪文書の類のものである。採り上げる必要もないのだが、知らない者が誑かされるので、れんだいこがこれに逐条コメントしておく。留意すべきカ所、 ...
さあ/\、これまで長らくの間、段々運び、尽くしたりは、皆神 が受け取りてある。年限長らくの間、ようこそついてきた。もう、今に見えて来る誠の道。 これまで、運び尽くした種を、腐らさぬよう、減らさぬよう、消さぬように、段々運び、修理とゆう肥を運んでこそ、稔るのやで。

★はてなキーワード > 中山みき
1798-1887 奈良県天理市生まれの宗教家。天理教の「教祖」。「おやさま」と呼ばれる。
 
1838年?(天保9年)10月26日に阿弥陀信仰深く、慈悲深い生活をしていた中山みきが、病気の息子を治すために、山伏に祈祷を依頼した。しかし、それでも治らなかったため、自ら修験者の霊媒となった際に、「親神(おやがみ)」天理王命(てんりおうのみこと)が天降り、憑依した。その後彼女は、安産の祈願や、人々の病気を治すなどの奇跡を起こしていたらしい。そして、近隣の農民や職人の尊敬を集めた。しかし、地域の寺社からは疎まれ、官憲からも弾圧を受け、中山みきは幾度となく、逮捕・拘留された。
 
中山みきの死後、側近達が彼女を「親様(おやさま)」として祭り、天理教を興した。天理教が「教祖」としている中山みきが、天理教を始めたわけではない。その後、神道本局の所属教会として公認された。1908年に別派として独立し、今日に至る。(集英社編「Imidas2006」集英社、2006より)
 
彼女は自身の能力を「おさづけ」として、適切な人物に取り次ぐ資格と能力を授けたという。
 
「をしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の8つの悪い心遣いを「八つのほこり」と呼んでそのほこりの心を掃う事を主張し、また「うそ(嘘)とついしょう(追従)これきらい」との言葉も残し、その計10個の悪い行為を慎むことなどを教義に残した。

★■神がかり新興宗教の草分け 
寛政10年(1798年)、現在の奈良県天理市に生まれた中山みきは、13歳で同市内の中山家に嫁ぎました。しかし中山家は裕福な家柄でしたが、夫・善兵衛はとても身持ちが悪く、夫婦仲も悪くなり、家運も落ちていきました。
みきが41歳の時、みき夫婦と長男の病気平癒(へいゆ)の祈祷を修験者(しゅげんじゃ)に依頼しましたが、祈祷の加持台(かじだい=神が降りる中継人)の代理になったみきが神がかりとなり、「この世のすべての人を救うため、神の住む社(やしろ)としてみきを差し出せ」「不承知ならこの家を元もこもないようにしてしまうぞ」と夫・善兵衛を脅しました。
結局これに善兵衛が応じ、みきを社として差し出しました。こうしてみきが「神のやしろ」と定まった天保9年(1838年)10月26日を、天理教では立教の日としています。

★天理教教祖中山みきの研究
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/
  更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3)年.2.6日
れんだいこは、江戸幕末期に呱呱の声をあげた天理教教祖中山みきを日本の生んだ 最大の傑物宗教家にして、「西のイエス、東のみき」と並び称されるに値する御方である と受けとめている。この彼女の実像を知れば、同時代に西欧から起こったマルクス主義 と ...

★日本の墓:著名人のお墓:中山みき 
http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/03-57.html
日本を代表する著名人のお墓を解説するコーナーです。天理教の教祖、中山みきの略歴 と中山みきのお墓について解説しています。

★天理教には「存命の理」があるのに中山みきのお墓があるのはなぜですか

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