縄文人の志葉楽さんのブログ

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●日本文化⑤ 八百万の神々を信じる文化

2020年01月01日 08時54分00秒 | 文化
●日本文化⑤ 八百万の神々を信じる文化
イタリア好きの夢見る子猫さんの日記
イギリス人の友人に、「日本の古来の宗教では、すべてのものに神性が宿っていると考えている」と言われて戸惑ったことがある。私にとって、「八百万の神々」というのを誰かに教えてもらったという記憶もなく、したがって、「日本古来の宗教」という考え方もなく、私は、その当時、「神」とか「霊魂」は存在しているだろうが、この存在を信じることだけで、「宗教」と言えるのかというところにも疑問があった。しかも、私の感覚では、日本語で何か考えたこと、特に単語やそのニュアンスを英語に翻訳して答えるのは至難の技だったからです。例えば、現在では、イギリスにおいても、宗教学上の翻訳として、「神」の訳に「GOD」を使うと誤訳になることは知られていますが、それじゃ、なんて翻訳したらいいのかまでは教わりませんでした。しかも、現在の日本では、私の祖母や母の時代と違って、宗教というものが形骸化していました。

「八百万の神々」とは、しかし、日本人が天地自然すべてに神性を見出していたことの証で、日本人は、山、川、草、木、鳥、獣、風、雷など、あらゆる物事に何か恐れ多い霊魂の存在を感じ、これを「数え切れないほどたくさんの」という意味の「八百万」を用いて「八百万の神々」となったのではないかと思われます。そして、この概念自体は、どのような宗教を否定するものでもありません。しかし、キリスト教を1神教とみて、「神々」と言う言葉を、「Gods」と訳してしまうと、確かに、2つの考え方は対比するものだと思われてしまうのです。しかし、「神々」をspiritsとか、別の意味で捉えると、特に矛盾はないものとなります。

「八百万の神々」というアイデアは一体いつから始まったのでしょうか?私たちは、誰からこの考えを引き継いだのでしょうか?私は、これは縄文時代、といいますか、石器時代、あるいはもっと古い時代から始まっている、と断言できます。人間の歴史において、何か変わらないものが存在するのだな、と感じたのは、縄文文化を勉強し始めてからです。私が大英博物館で、縄文土器(Cord marked pottery)を見た時、私は、縄文文化とは、イコール縄文土器なのかと思っていましたが、どうやらそうではないようなのです。著者を忘れて申し訳ないのですが、ある学者は、縄文土器というものは、おそらく、縄を使って籠などを編んでいたものが、そこから「鍋」というものを発明した時、何らかの理由でその模様をつけることにした可能性が高いとおっしゃっています。そして、私は、アイヌ文化を調べて行きましたら、有名なアイヌで国会議員でもいらっしゃったアイヌ学の研究者が、「縄」は、アイヌ民族にとって、「守ってくれるもの」であったと言っています。つまり、縄文土器をつくった人たちは、縄目を土でつくった鍋に入れることにより、縄で出来ていない「代用品」とした可能性が高いといえます。このことを考えて行く時、私たちがお正月に使用する、しめ縄や、神社になるしめ縄、大きな木に回されている縄が、なぜ使用されているのか、分かって来るのです。そして、「天地自然すべてに神性を見出す」という行為は、私たち本土の人間より、アイヌの中に深く根付いていました。そして、北海道アイヌの人たちは、オホーツク文化人と言われる人たちとハイブリッドになった人たちと私は定義したいのですが、樺太アイヌの人たちは、昔の青森や東北の文化を深く引き継いでいた人たちでした。その人たちも今は北海道で暮らされていると思いますが、その人たちのアイヌ語を調べていけば、縄文人たちが使っていた「原始日本語」の姿がよみがえるであろうと、私は信じております。(ちなみに、本土日本語は、朝鮮半島の百済、新羅、加羅の3つの種族と、原始日本語のハイブリッド語です。)

ところで、私の父と母は、大叔母の関係で、金光教に入っていましたが、その宗教の教えが書かれている本など読んだことはありませんでした。日本人の多くの人たちは、教えより、何らかのご利益がいただきたいと思っているようです。これが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などと違うところです。これらの宗教では、戒律が存在し、その戒律を守るという「契約」を、人格を持つ「神」とすることによって、その神が人々を守ってくれ、天国へ導いてくれるということになっています。

私の父母の宗教である金光教ですが、父母には、信仰深くなること以外は、何も求められてはいません。とても自由なのです。特に守らなければならない戒律もなく、教えはありますが、あまり教えてどうこうしようとする気もなさそうです。私は信者ではないですが、私がこの宗教を面白いなと思ったのは、よくこの団体がパンフレットに載せている、「あいよかけよ」と言う言葉であり、しかも、あの世とこの世が助け合いの関係にあるという考え方でした。そして、大叔母は、まるで神社の巫女さんそっくりの感じでお仕事をしていました。その時はよくわからなかったのですが、現在では、なんだかいろんなことがわかってきたような気がします。私は信者ではないけれど、最近になって、金光教とは、特に悪いものではないと分かりました。それは、今になって、やっと、「あの世とこの世が助け合いの関係にある」という意味がわかってきて、金光教は、日本の宗教だと分かってきたからです。あの世とこの世に関する私の結論は、あの世とは、いろいろな霊魂が存在しているところで、そこでいろんな霊魂(カミ)が、この世にいる私たちを助けようとしているのです。そして、それはなぜかというと、霊魂は、永遠の命を生きており、もう一度、人間として生まれ変わってきたり、また、霊界で上に行ったり、下に行ったりしているわけです。(これは丹波哲郎や、幸福の科学の大川先生なども言われていることです。)そのような観点に立って見ると、なぜ、あの世がこの世の人を助けたら自分たちにもいいことがあるのかということがよくわかります。つまり、この世がより住みやすいところになれば、あの世からこの世に生まれ出た魂がすんなりと迷わずに帰って来られ、順調に来世への準備ができるのです。しかも、あの世の人がこの世の幸福を増すことができれば、おそらく、あの世で助けた人の霊的レベルがアップするのであろうと思います。これは、西洋でも、「天使」という観念において、同じことが言われているのです。西洋社会では、昔は、天使というものは必ず羽があるといわれてきましたが、最近はそうでもないという霊能者たちもいます。ま、羽があるなしを除けば、西洋でも、この日本でも同じ考え方があるのだなと思った時、金光教は、明治期に起こった宗教ですが、実は、日本古来の八百万の神々の考え方に則った古式ゆかしいものでもあるなと思いました。日本では、神仏習合がすすみましたし、キリスト教の信仰も受け入れられました。これについても、実は、日本には、「八百万の神々」という考え方があるので、キリスト教もその一つとしてすんなり受け入れたということで、日本人がキリスト教信者になったからといって、たいていの人にとって、「八百万の神々」という考え方を捨てたのだとは、どうも思えないのです。それは、ついこの間、麻生元首相の実家を案内する動画を拝見した時に、同氏の自宅に神棚がたくさんおいてあって、玄関には、しめ縄がはってあったことから、そう思ったのです。つまり、「八百万の神々」という考え方は、私たちをとても自由にさせてくれる考え方であるということです。いくらでも外国の神々を祭ってもよいという、そのようなおおらかな考え方であるということです。

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