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●商人(しょうにん)(あきんど)●商い(あきない)

2020年03月05日 14時18分19秒 | 文化
●商人(しょうにん)(あきんど)●商い(あきない)
・あきんどの意味や使い方 Weblio辞書
・あきんど【商人】
〔「あきびと」の転〕
物の売買を職業とする人。しょうにん。あきゅうど。
[句項目] 商人の空誓文 ・ 商人は腹を売り、客は下より這う
・あきうど 【商人】
⇒ あきゅうど(商人)
・あきびと 【商人】
商人。あきんど。 「商賈(しようこ)の-は百族満ちにぎはひ/海道記」
・あきゅうど【商▽ 人▽】
〔「あきびと」の転〕
商人(しようにん)。
・しょう にん【商人】
① 商業を営む人。あきんど。
② 〘法〙 商法上、自己の名をもって商行為を行うことを業とする者をいう。また、店舗などの設備により物品販売を業とする者、鉱業を営む者も商人とみなされる。
「商人」に似た言葉
» 類語の一覧を見る
ディーラー 売人 あきんど 商売人 商賈
  
・ディーラー [1] 【dealer】
①販売業者。メーカーの特約小売業者。
②自己の負担で証券為替の売買を行う業者。
③カード(トランプ)の札を配る人。親。
  
・ばい にん [0] 【売人】
① 品物の売り手。特に、密売組織の末端で、麻薬などの密売品を売る者。 「やく(=麻薬)の-」
② 商売人。あきんど。 「ここに酒造れる-に和泉清左衛門といふ有り/浮世草子・五人女 1」
③ 「売女(ばいた)」に同じ。 「色は-の事以来袂にも手は触れまい/おぼろ夜 緑雨」
  
・ しょう ばいにん【商売人】
① 商売をしている人。また、商売の上手な人。あきんど。商人。
「いっぱしの-になった」
② その道の専門家。くろうと。
③ 水商売の女。商売女。
 
・ しょう こ しやう- [] 【商賈・商估】
商人。あきんど。また、商店。
  
一時 この名で呼ぶことが流行った時期がある。
物々交換から始まった職業で独立して古文書などに記載されたのが平安中期以降に成る。
前の士農工商にも少し書いたけれども日本の経済を動かしてきた職業である。
あきんどやあきないなど呼ばれて時には上に時には下に見られてきた。
飽きずに仕事をするからあきないなどと言われていたこともある。
日本は本当にコトバ遊びの好きな国で語源がハッキリしないコトバが多い。
楽しい国である。
コトバ一つ調べていてこんなにもワクワクする。
自分の思い過ごしでトンでもない意味で理解していたり聞かされた事と全然違う意味だったり。
知ることで又楽しみが増える。
有り難い事だ。
 
 
●商人(あきんど)
【意味】あきんどとは、売買を仕事とする人。しょうにん。
【あきんどの語源・由来】
あきんどは、平安中期の辞書『和名抄』に「商人」の意味として「あきひと」があり、『古今集』には「あきびと」の例が見られる。
「あきひと」「あきびと」が音変化して「あきゅうど」となり、「あきんど」となった語で、あきんどの「んど」は「人(ひと)」を意味する。
あきんどの「あき」は、動詞「商う(あきなう)」の「あき」。
「商う」の「あき」は、農民達が収穫物を売買したことから、収穫の季節となる「秋」を語源とする説が定説となっているが、物を買い求める意味の「購う・贖う(あがう・あがなう)」と同源とも考えられるため、正確な語源は未詳である。
 
●商い(あきない)
【意味】 商いとは、売買すること。商売。売り上げ。
【商いの語源・由来】
商いの古形は「あきなひ」で、動詞は「あきなふ」。
商人を「あきひと」と言ったことから、「あきなふ」の語構成は「あき」と「なふ」であることがわかる。
「なふ」は「おこなふ(行う)」や「おぎなふ(補う)」などの「なふ」と同じく、動詞をつくる接尾語である。
商いの語源は、農民の間で収穫物や織物などを交換する商業が、秋に行われたことから「秋なふ(秋なう)」から動詞「あきなふ」が生まれ、「あきない」になったとする説が定説となっている。
しかし、物を買い求めたり、何か別のものを代償として手に入れる意味の「購う・贖う(あがう・あがなう)」と同源とも考えられ、商いの語源は「秋」が正しいとは言い切れず、正確な語源は未詳である。
 
●商い、あきない - 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味
http://bit.ly/39r52y1
https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%82/%E5%95%86%E3%81%84-%E3%81%82%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%84%8F%E5%91%B3/
あきない(商い)とは、商売、商売をすることという意味。日本語の「あきない」は、漢語の「商売」「売買」「商業」などと比べると、「その日の分だけ稼げばいい」といったのどかな響きがあり、一攫千金でがっぽり儲ける事業には結びつきそうもなく、いまどきの会社で「あきない」をやっているところはほとんどない。
「あきない」の「あき」は、季節の「秋」や満ち足りるという意味の「飽き」と同根で、収穫期になって満ち足りた作物を交換するという意味があるのではないかとされる(他に諸説あり)。「ない」は、「占い(うらない)」「償い(つぐない)」のように、名詞や形容詞の後について、その行為をする意を表す接尾語であり、「あきない」は「あき」を「すること」となる。「商い」は「飽きない」でこつこつやるべきものだから「あきない」というのだという俗説があるが、語源から考えると、ほんとうの商いは飽きてもなおがんがんやるべきもののようである。(CAS)
 
面白い意味で物事をしていて飽きるかなあきないにならないから飽きないという
こんなことも聞いたことが有る。
飽きたら何にも出来ないからね。
兎に角 色んな語源からこんな言葉が生まれてきている。
日本語とは こんなに楽しい意味が裏に隠れた言葉多い。
だから 語源がはっきりしない言葉が多いのだろうね。
 
 
●商人(しょうにん)http://bit.ly/wI3W3n
商品を他の商品との物々交換、あるいは貨幣とをもって交換を行う作業を仲介する職業(商業)に従事する者を指す。
農業を尊んで商人を卑しい人間と見なす慣習(農本主義)がある。日本で独立した商人階層が形成されるのは、律令制と中小豪族が没落する平安時代中期以後であるとされる。
市 以外の場所で商売を行う者が出てくるようになる一方、有力な権門と結びつく者も現れるようになる。
貞観6年(864年)に市籍人が貴族や皇族に仕える事を禁じた命令が出されている。
やがて、有力権門や寺社の雑色・神人などの身分を得てその権威を背景に諸国と京都を往復して交易を行うようになる。
やがて、権門や寺社を本所として仰いで奉仕の義務と引き換えに諸国通行自由・関銭免除・治外法権などの特権を保障された集団「座」を結成するようになった。
 
●著者名:五島邦治著『京都 町共同体成立史の研究』 評 者:小西 瑞恵
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho635.htm
掲載誌:「日本歴史」696(2006.5)
 都市京都の研究史を回顧すれば、膨大な著書・論文が挙げられるが、その基調を形作ってきたのは、林屋辰三郎『町衆』(中公新書、一九六四年)であり、京都市編『京都の歴史』全一〇巻(学芸書林、一九六八~七六年)や、秋山国三・仲村研『京都「町」の研究』(法政大学出版局、一九七五年)などであった。これらは戦後から一九七五年頃までの仕事であり、一九七〇年代から都市研究が隆盛期を迎えるなかで、京都についての優れた研究が積み重ねられていった。具体的には、戸田芳実・脇田晴子・網野善彦・黒田紘一郎・五味文彦・瀬田勝哉・川嶋將生の諸氏による研究で、理論的にも実証的にも、京都研究は豊かに成熟していった。しかし、研究が精緻になる一方、「町衆」論と研究との乖離も生じてきたと思う。
 この著書で五島邦治氏が提起しているのは、従来の「町衆」研究の基調を継承しながら、現在生じているさまざまな難問を解決する試みである。著書は「第一部 都市民の誕生と祭礼組織」、「第二部 町共同体の成立」、「第三部 地域の都市民」に分かれる。
第一部の「第一章 平安京の成立と都市住民の形態」で、まず、京戸と平安京に住む都市民の実勢とのずれが指摘され、新興都市民を表すことばには、
(イ)市人・市籍人・市廛百姓・市郭之人、
(ロ)下級官人・有力貴族の下部、
(ハ)豪富之室・富豪之輩、
(ニ)漠然とした地域をさすことばを冠する者、があり、初期都市民をさす特定のことばは、成立しなかったとする。
(イ)(ロ)(ハ)は、実は同一の都市民の実態をさし、新興都市民の実態そのものが、都市と地方をともに生活基盤としてそれぞれ分有し、その間を往来するという都市民としては不徹底なものであった。この背景には、本質的に都市と地方との未分化があった。しかし、平安京のなかにも都市的な文化の発生がみられることが、「焼尾荒鎮(しょうびこうちん)」(任官・昇任等の際の祝宴、荒鎮は大酒すること)と「御霊会」の分析を通じて語られる。
 
●京戸 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/京戸
京戸(きょうこ/けいこ)は、日本の律令制において、京に本貫を持った住民のこと。
「京戸」の存在は、日本独自の制度とされている。
日本の律令制がモデルとした唐の都長安の場合、関内道(後京畿道)-雍州(後京兆府)の下に万年県(西側)・長安県(東側)が設置され、他の地域と同様の道-州-県という地方制度の下に置かれていた。
これに対し、日本の場合には大和国や山城国といった令制国とは別に京職と呼ばれる別の官司の管轄下に置かれていた(京職は「京」という都市空間において、国家機能を円滑に機能させるための維持・管理を行っており、京の地方行政のみを行っていた訳ではない)。
養老律令には、「京戸」という語はないが、令義解の戸令注釈(居狭条・穴記)より古令(大宝律令の令)に「京戸」の語が存在したことが知られている。
また、『続日本紀』以降の六国史にも「京戸」の語が見られる。
 
●商品(しょうひん)http://bit.ly/yhfNpe
経済活動において生産・流通・交換される物財のことである。商品には具体例として食品や衣類などの物のほかに、法律相談や郵便配達などのサービスや、証券などの権利、情報などが含まれる。
販売する物財に主眼を置く場合には、商材(しょうざい)とも呼ばれる。
 
●物々交換(ぶつぶつこうかん、英: barter:バーター) http://bit.ly/yWIUm8
貨幣などの媒介物を経ず、物品と物品を直接に交換すること。
「物」とあるが、無形のサービスについても使う。
近代では、貨幣への信頼が無くなったり、超インフレーションが起こったり、貨幣の発行が途絶えたりして、貨幣経済が麻痺した状況下で行われる。近年では、ソ連崩壊直後のロシアでの物々交換経済が顕著であった。
正常に貨幣経済が機能していても、片方に支払い能力が乏しいとき、バーターとして、商品で支払われることがある。給料の現物支給なども、物々交換の一種である。
物々交換は、決算に金額として現れないので、定量的に評価することが難しく、経営の障害になる。
マクロには、経済政策を立てる上での障害になり、課税も難しい。
 
●貨幣(かへい)とは、http://bit.ly/zIB9tQ
商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つもののこと。
商品の価値尺度、交換手段として社会に流通しているもので、またそれ自体が価値あるもの、富として蓄蔵を図られるもの。
 
●商業(しょうぎょう)
財やサービスなどの商品を所有している人やまたは存在している場所と、必要としている人または必要としている場所を結びつけることにより利益を得る職業または経済活動である。
多くは貨幣の媒介を経て市場や個々の店舗において取引(商取引)という形式をとって行われる。
ただし、貨幣や市場などを媒介しないケースを含める場合には「交換」と呼ぶこともある。
また、「商業的」という場合、「営利を目的として」という意味になる(例:商業的生産)。
商業を生業としている人を「商人」という。
 
●商行為(しょうこうい;独Handelsgeschäft;仏acte de commerce)とは大陸法系の商法において、その適用範囲を確定する際に用いられる基本概念の一つ。
また、企業活動の意味でも用いられる。http://bit.ly/yizQ3w
 
●商法(しょうほう)http://bit.ly/zSZghb
商人の営業、商行、その他商事についての一般法である。
 
●農本主義(のうほんしゅぎ)http://bit.ly/wmNKyg
明治時代以降の日本において、立国の基礎を農業におくことを主張した思想もしくは運動である。
英語ではpeasantism(農民主義)。
 
●権門(けんもん)http://bit.ly/xhAun4
古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団を指す言葉。
類似した意味を持つ勢家(せいか/せいけ)と組み合わせて、権門勢家ともいった。
「権門」と「勢家」はともに中国の古典に記された故事に由来する語で、平安時代初め頃から使われるようになる。
902年(延喜2年)3月13日付太政官符(すなわち『延喜の荘園整理令』)には、「権門」「多勢之家(勢家)」などの語がすでに見られ、諸院諸宮王臣家あるいは五位以上の貴族の意味で用いられていたことがわかる。
摂関政治の時代に入ると、地方の在地豪族が国司の介入を排除するため権門に土地を荘園として寄進して不輸権・不入権を獲得するようになった(荘園領主)。
特に藤原北家でも摂関の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」として没落するようになった。
当時の政治は権門によって運営されていたために、荘園整理などの権門抑制策には消極的だったが、一方で政治的権威の基盤である太政官 - 国衙の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、官物率法の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた。
しかし院政の時代に入ると藤原北家への権力の集中に翳りが見え始め、それと平行して治天の君(皇室の家督)、村上源氏、興福寺や延暦寺などの大寺社勢力、そして平家に代表される武士団を背景とした新しい武家勢力の棟梁などが、新たな権門として浮上するようになる。
これらはしばらくの間互いを牽制するかたちで並列的に存在したが、やがて平安時代末期の源平合戦の動乱から鎌倉幕府の成立を経て、いわゆる「荘園公領制」の時代に入ると、「権門体制」と呼ばれる新秩序が確立されたと考えられている。
 
●荘園整理令(延喜の荘園整理令から転送)http://bit.ly/waN2VF
荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。
特に有名なものは、1069年(治暦5年 = 延久元年)に後三条天皇が全国の荘園を一斉整理する目的で発令した延久の荘園整理令であるが、実はこれを遡ること150年前の醍醐天皇の時代から天皇の代替わりごとに度々発令されている。
 
●荘園 (日本)http://bit.ly/zqQi0C
日本の荘園は、奈良時代に律令制下で農地増加を図るために墾田私有を認めたことに始まる(初期荘園)。
平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。
 
●簒奪(さんだつ)http://bit.ly/ypvC3B
本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。
あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。
ないしそれを批判的に表現した語。本来その地位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる。
 
●君主(くんしゅ)
一般に、世襲その他血統を背景とする権威により、主権国家を継承し、統治する臣民の畏敬の対象となる地位にある者をいう。
 
◆関白(かんぱく)  https://ja.wikipedia.org/wiki/関白
成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。
 
◆豊臣秀吉#関白任官と紀伊・四国・越中攻略
https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉#関白任官と紀伊・四国・越中攻略
天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任され[28]、これにより公卿となった。この際、将軍兼任を勧められたがこれを断る[29][注釈 22]。
天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。そして3月21日には紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで紀伊国を平定した(紀州征伐)。
四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず、7月25日に降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。
秀吉はこの四国討伐の最中、二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久の猶子となり、7月11日には関白宣下を受けた。
 
◆本姓について  https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川氏#本姓について
日光東照宮に残る家康の口宣案等はすべて源家康となっており、徳川氏が源氏を継続的に称していたことになっているが、これは三代将軍徳川家光の代である1645年(正保2年)に、散逸した分を補填したとして改変されたものであると見られている
永禄9年(1566年)の叙爵は実際には、「系図発見」の経緯もあって藤原家康としておこなわれており、この時点では藤原氏を称していた。笠谷和比古は源氏の棟梁である足利将軍家に家康がつてを持たなかっただけでなく、将軍家が当時当主不在であるという異常事態を迎えており、取り次ぎを行った近衛前久が官位奏請を行うためには藤原氏一門であるほうが好都合であったという指摘を行っている。





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