縄文人の志葉楽さんのブログ

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●人恋うは悲しきものと平城山(ならやま)に…

2020年06月12日 08時02分20秒 | 文化
●人恋うは悲しきものと平城山(ならやま)に…
ぷろきおん さんからのメール
 
しつこくしぐれてスミマセン。
 
追伸…。
 
あの曲が呼び水になったのか、昨日あたりから、「人恋うは悲しきものと平城山(ならやま)に…」
 
★平城山(ならやま) 平井康三郎 「平城山」https://youtu.be/YHugwmeSP0E
作詞 北見志保子 作曲 平井康三郎. MP3(872KB)。 再生時間2分28秒。声は、ボーカロイドのMeikoです。
日本古来の陰旋法の例として中学か高校かの音楽教科書に載っていたように記憶しています。
いいなあ、と思ったものです。
だが、夫がいる作詞者が夫の弟子に恋をして、古歌を下敷きにして真情を述べた歌だと知ったのは ずうと後でした。
だが、真情であるが故に若い私にも響いたのだと考えています。

★平城山: Hayatori21公式ページ 
http://hayatori21.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-e226.html
『平城山(ならやま)』
 
1) 人恋うは 悲しきものと
  平城山に もとほり来つつ
  たえ難かりき
 
2) いにしえも 夫(つま)に恋いつつ
  越えしとう 平城山の路に
  涙落としぬ
 
作詞:北見 志保子 作曲:平井 康三郎
現在では 由紀さおり・安田祥子のデュオ、あるいは鮫島有美子の歌で聴くことができます。

★平城山(ならやま): 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/02/post_fd33.html
男性がご自分の「妻」を恋いながら歌うのは、それはそれで大変けっこうだとは思いますが。 (二木紘三)
《蛇足》 歌人・北見志保子が磐之媛陵(いわのひめりょう)をテーマに詠んだ2首に、平井康三郎が昭和10年(1935)に曲をつけ、この名曲が生まれました。

★<人恋ふは悲しき>平城山(ならやま)で<長屋王>が詠んだ歌(万葉を旅する・8)
人恋ふは 悲しきものと 平城山(ならやま)に もとほり来つつ たえ難(がた)かりき
古(いにしえも)も 夫(つま)を恋ひつつ 越へしとふ 平城山に 涙落としぬ
 
これは折口信夫に師事した女流歌人・北見志保子(1885年―1955年)が詠んだ歌に、同郷(高知県宿毛村)の音楽家・平井康三郎が美しいメロディをつけた「平城山」だ。
本日の主人公<長屋王>の詠んだ<寧楽山(ならやま)>の歌を考えているうちに、火山の心に浮かんできてしまった。

★『平城山(ならやま)』
<作者プロフィール>
作詞者:北見志保子(きたみ・しほこ)…1885年(明治18年)1月9日-1955年(昭和30年)5月4日。高知県幡多郡宿毛町(現・宿毛市)出身の女流歌人。大正期からさまざまな歌誌の創刊・編纂に携わった。
作曲者:平井康三郎…1910年(明治43年)9月10日-2002年(平成14年)11月30日。高知県吾川郡伊野町出身。『スキー』『とんぼのめがね』『ゆりかご』などでも知られる。音楽一家の家長で、息子の平井丈一朗(たけいちろう)氏は著名なチェリストである。

★藤山一郎と島田祐子の「平城山(ならやま)」: エムズの片割れ
https://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-bc8f.html
自分がよく聞くいわゆる名曲は、ほとんど紹介し終わったと思っていたが、「平城山」が抜けていた・・・。
まずは、自分が高校2年の時(48年前)に買ったレコードから、藤山一郎の歌で聞いてみよう。(もちろん音は悪いが・・・)

★平城山(ならやま) : 自然が生かす我が人生
するとこの単語がちがうのか・・・・それじゃ、ひとこうは・・・人恋うは 悲しきもの・・・ これ なら歌詞としてしっくりくる。どうだ。 ぽちっ。 あった。有ったのはいいが、自分の無知に 自分で恥じた。 楢山とばっかり思い込んでいたのが、実は平城山(ならやま)で、歌の舞台は楢山とはまったく関係ない奈良市だった。 ...

★奈良山(奈良市) - すさまじきもの ~「歌枕」
http://saigyo.sakura.ne.jp/narayama.html
平城山丘陵(ならやまきゅうりょう)は、奈良県奈良市と京都府木津川市の県境を東西に延びる丘陵。また、西部を佐紀丘陵、東部を佐保丘陵と独立して呼ぶことがある。
平城山は多くの別表記を持つ。古綴では、平城山の他に那羅山、平山があり、さらに奈良山、乃楽山とも。国境にあったことから手向山ともいった。
奈良の地名の語源の一とされる。
この丘陵は奈良盆地と京都盆地に接し、古くは大和から京都へ行く際は、奈良時代は西の歌姫越、平安時代以降は東の般若寺越が使われ、ともに奈良坂とも呼ばれた。万葉集では小松、峰の黄葉、霧、黒木、鳥、児手柏などが題材として詠まれ、八雲御抄には大和の名所として、五代集歌枕には山城の名所として挙げられている。
(WIKIPEDIA「平城山丘陵」)

★平城山(ならやま) 
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-narayama.html
 奈良坂
少し前、平城山の奈良坂に立って、北見志保子の「平城山」を偲んできました。下から徒歩で般若寺まで行ってきましたが、最初のイメージとは違って、下町風の家が軒を並べた坂の道でした。上から奈良市街を見渡すポイントはないかと探しましたが、カメラアングルもなく、ゆえにここに写真を掲載することはできません。

★動画でお散歩 / 懐かしの戦前の歌謡曲 【 平城山 】
http://nagomi-web.com/senzenkayou/senzenkayou_index.html#na
懐かしの戦前歌謡曲 曲名/検索 【あ】 【か】 【さ】 【た】 【な】 【は】 【ま】 【や】 【ら】 【わ】
藤山一郎は、静寂な美しくも哀しくもあるこの歌曲を、敢えてテノールのレジェロな明るさを捨てバリトンの音域で独唱しています。
今年は、平城遷都1300年目とか。偲ばれます。
美しい歌です。いつまでも歌い継がれていって欲しい。
この「平城山」は、歌人北見志保子の短歌を二首選んで、平井康三郎が曲をつけたといわれています。

★”平城山(ならやま)の背景“ 
https://ameblo.jp/yf4y-uemr/entry-12198963234.html
これは、北見志保子の短歌だったんです。
それに曲をつけたもの。
この物悲しい韻律が生まれた背景には悲しい伝説がありました。
日本書紀の、影媛(かげひめ)の悲恋と志保子自身の道ならぬ恋・・・。
“ひとこう”は人恋う・・・だったんです。
ユーチュウブで宗次郎さんが吹いていますので、聞いて見てください。
忍んで篠笛「平城山」
https://youtu.be/hAGSpdtA0HM
21,233 回視聴  2013/04/21
C. irizuki
チャンネル登録者数 211人
篠笛で一度は吹いてみたくなる名曲です。
蘭情・六本調子(B♭管)使用。

★名曲 『 平城山 (ならやま)』&【放射性物質拡散予想図】 : 伊那の谷から ... https://utukusinom.exblog.jp/17886633/

★日本書紀  http://p.tl/9mbJ
影媛 千人万首 - asahi-net.or.jp
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kagehime.html
影媛 かげひめ. 物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の姫。平群鮪(へぐりのしび)の恋人または妻であったが、横恋慕した武烈天皇によって鮪を殺された。その時の哀傷歌が日本書紀に伝わる。以下はその二首である。
石上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 嬬籠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉椀に 水さへ盛り 泣き沽ち行くも 影媛あはれ
【通釈】布留を過ぎて、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、佐保を過ぎ、お供えの美しい食器にはご飯まで盛り、美しいお椀には水さえも盛って、泣き濡れて行くのだ。影媛、ああ可哀相に。
【語釈】
◇石上(いすのかみ) 原文は「伊須能箇瀰」。奈良県天理市、石上(いそのかみ)神宮周辺の土地の古称。ここでは「布留」の枕詞。
◇布留 天理市布留町のあたり。
◇薦枕 「高」の枕詞。薦で編んだ枕は普通の枕より高いので。
◇高橋 奈良市杏(からもも)町に高橋の地名が残る。
◇物多(さは)に 物が多い意から「大宅」に掛かる枕詞。
◇大宅 奈良の白毫寺あたり。
◇春日(はるひ) 「春日(かすが)」の枕詞。春の日はかすむことから。
◇春日(かすが) 奈良市の春日山の西。
◇嬬籠る 「小佐保」の枕詞。掛かり方未詳。
◇小佐保 奈良市法蓮町・法華町一帯。
【補記】古事記下巻。処刑された恋人の平群鮪の後を追う影媛の、布留から奈良山までの道行を抒べる。詳しい経緯は次の歌の補記を参照。

★影媛(1)【かげひめ】デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
記・紀にみえる女性。
「日本書紀」によれば,菟道彦(うじひこ)の娘で,景行天皇3年祭祀(さいし)のため紀伊(きい)阿備柏原(和歌山県)にきた屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)の妻となり,武内宿禰(たけしうちのすくね)を生んだという。「古事記」には山下影日売とあり,宇豆比古(うずひこ)の妹。比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)(彦太忍信命)との間に建内宿禰をもうけたという。

★影媛(2)【かげひめ】デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
⇒物部影媛(もののべの-かげひめ)

★武内宿禰(たけしうちのすくね)http://p.tl/A1al
... 母は紀直(きのあたい)氏の祖先莵道彦(うじひこ)の娘の影媛(かげひめ)。『古事記』では、孝元(こうげん)皇子の比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を父 ...

★紀氏(きうじ) https://ja.wikipedia.org/wiki/紀氏
紀氏(きうじ)は、「紀」を氏の名とする氏族。
大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。

★歌垣(うたがき) https://ja.wikipedia.org/wiki/歌垣
歌垣(うたがき)とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗。現代では主に中国南部からベトナムを経て、インドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる。古代日本の常陸筑波山などおいて、歌垣の風習が存在したことが、『万葉集』などから、うかがい知ることができる。
記紀万葉の時代に、山、磯(いそ)、市(いち)などに男女が集まって、豊穣(ほうじょう)を祈り、共感呪術(じゅじゅつ)である性の交わり(植物も繁殖に人間と同行為をするという観念から、生産=生殖の信仰)を行った行事。歌(かがい)に同じ。飲食歌舞を伴うこともあり、求婚の場でもあった。農耕予祝儀礼として民俗行事のなかに遊楽化され、今日に伝承されている。『古事記』清寧(せいねい)天皇条に伝える海柘榴市(つばきいち)の歌垣は、美人(おとめ)の大魚(『日本書紀』では影媛(かげひめ))を争う志毘臣(しびのおみ)と袁祁命(おけのみこと)の歌の掛け合いだが、これは信仰圏の産土神(うぶすながみ)を担う巫女(みこ)を祭祀(さいし)者が争った伝承であろう。 ...

★磐之媛陵(いわのひめりょう)
・磐之媛【いわのひめ】世界大百科事典
《古事記》《日本書紀》《万葉集》に伝えられる仁徳天皇の皇后。葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)の娘で武内宿禰(たけうちのすくね)の孫にあたり,皇族外の身分から皇后となった初例とされる。ひどく嫉妬ぶかい女性として語られ,天皇の召し使う女たちは皇后を恐れて宮廷への出入りもかなわず,目立った言動でもあると〈足もあがかに(じだんだふんで)〉嫉妬したという。仁徳天皇には妻妾が多くいて,そのひとりの吉備(きび)の黒媛は皇后をはばかり吉備へ船で逃げ帰ろうとするが,それに天皇が歌を贈ったのを聞き激怒した磐之媛は,黒媛を船より追いおろし徒歩で国へむかわせたとも語られている。
・いわのひめ 〔いはのひめ〕 【磐之媛/石之日売】 デジタル大辞泉
仁徳天皇の皇后。葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘。履中・反正・允恭天皇の母。万葉集・巻2にその作とされる歌を収める。
★磐之媛命(いわのひめのみこと)(磐之媛から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/磐之媛命
磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 - 仁徳天皇35年6月)は、古墳時代の皇妃。『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐姫とも記す。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城襲津彦の娘で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。孝元天皇の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。

★<長屋王>の詠んだ<寧楽山(ならやま)>
★長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日)) https://ja.wikipedia.org/wiki/長屋王
飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。

★奈良(なら)(寧楽(なら) から転送) 日本という国の発祥地である
https://ja.wikipedia.org/wiki/奈良
かつて大和と呼ばれ、また平城京にも相当した。
「那羅」「平城」「寧楽」と書いて「なら」と読む事もあり、平安京(京都)に都が遷った後は南都(なんと)と呼ばれた。

★寧楽遺文【ならいぶん】世界大百科事典
奈良時代を中心とした史料集。竹内理三編。上下2巻。1943,44年刊。62年に補遺改訂して上中下3巻。政治編(戸籍,計帳,正税帳,四度公文枝文,太政官符),宗教編(寺院縁起幷流記資財帳,献物帳,造寺所公文,写経所公文),経済編(諸国田券,奴婢帳),文学編(風土記,人々伝,詩集,人々啓状,金石文)からなり,計16目に類別し,《正倉院文書》を中心とする主要な古文書や,記録,金石史料を収録し,巻末に奈良時代の基本文献,史料についての紹介,および収録史料の解説を付している。
★寧楽遺文【ならいぶん】百科事典マイペディア
奈良時代を中心とする史料集。竹内理三編。1943年・1944年に上下2巻で刊行され,1962年補訂のうえ上中下3巻で再版された。上巻は総目録・政治編,中巻は宗教編・経済編上,下巻は経済編下・文学編・解説からなり,政治編から文学編までは計16項目に分類される。





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