縄文人の志葉楽さんのブログ

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●福井県の自慢 いい意味も悪い意味も含めて

2021年05月26日 06時33分10秒 | ●我がふるさと
●福井県の自慢 いい意味も悪い意味も含めて
◆朝倉義景    https://ja.wikipedia.org/wiki/朝倉義景
朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。
越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
最期
一乗谷にある墓所
従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃した。ここに至って、義景は自刃を遂げた。享年41
 
◆柴田勝家    https://ja.wikipedia.org/wiki/柴田勝家
柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い天下統一事業に貢献した。
最期
喜多川歌麿画
西光寺にある柴田勝家の墓(福井県福井市左内町)
天正11年(1583年)3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙する(賤ヶ岳の戦い)。事前に勝家は、毛利に庇護されている足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を毛利を介して出し背後を突かせようとするが、義昭では既に時代に合わずうまくいかなかった。同様の働きかけは3月ごろに高野山にもしており、各地にしたようだが実を結ばなかった(『古証文』所収勝家書状」)。4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めるが、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害した(北ノ庄城の戦い)。享年62。 辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」。
勝家の最期は、『毛利家文書』とそれに所収された秀吉書状に、このように描かれている。
 
◆【戦国こぼれ話】もう一つの天下分け目の戦い、賤ヶ岳合戦。柴田勝家が滅亡に至る過程を検証する
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210518-00238423/
2021/05/18 — 渡邊大門 | 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
滋賀県長浜市の曳山博物館で企画展「長浜大秀吉展―春の陣」が開催され、「賤ケ岳合戦図屏風」が目玉として展示された。この戦い以降、柴田勝家が滅亡に至った経過を確認しよう。
  
◆福井県立歴史博物館 天下人の時代―信長・秀吉・家康と越前―
https://www.pref.fukui.lg.jp › Cul-Hist › kikaku › kako
2020/07/18
  現在、明智光秀を主役とするテレビドラマの放映や、さまざまな関連イベントの実施により、戦国時代への関心が高まっています。
 戦国の乱世から天下の統一へ。激動する時代のなか、多くの武将たちが活躍しました。そのなかでも馴染み深いのが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった「天下人」ではないでしょうか。江戸時代の狂歌「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」は大変有名です。
 しかし、「天下人」になるための歩みはそう簡単なものではありませんでした。本展では、こうした「天下人」の動向について、特に越前との関わりを通じて紹介します。
 「天下人」に関する肖像画、合戦図屏風、古文書など多数の貴重な資料を一挙に展示します。
*期間中、展示替えがありますのでご注意ください。下記の資料一覧でご確認ください。
 
◆歴naviふくい(れきなびふくい)「結城(松平)秀康」
http://www.fukui-rekimachi.jp/b_jinbutu/e_yuuki.html
    ゆうき(まつだいら)ひでやす
生没:天正2年(1574)~慶長12年(1607)
徳川家康の次男で幼名は於義丸。天正12年(1584)豊臣秀吉の養子となり、秀吉、家康から1字づつとって秀康と名乗った。
天正18年(1590)秀吉の命により、下総(現茨城県)結城家の養子となって10万石余を領有した。 関ケ原の戦いの功により越前68万石を与えられ、慶長6年(1601)に入国。直ちに北ノ庄城の大改修に着手し、6年の歳月をかけて城と城下町を築いた。
4~5重の堀を廻らした巨大な城郭を築き、現在、内堀と石垣が残っている本丸には4層5階の大天守閣を建てた。同時に九頭竜川から芝原上水を掘削して城下の飲料水を確保した。
秀康の時代に築かれた城と城下町は、現在の福井市街地の骨格を成しているといえる。
慶長12年(1607)34歳の若さで病死した。
 
◆結城秀康とは 文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる
https://senjp.com/yuuki-hideyasu/
結城秀康が羽柴家(豊臣家)に赴いた際に徳川家康は名刀・童子切安綱(国宝)を授け、傅役・小栗重国(小栗大六)、小姓・石川康勝(石川勝千代)、本多成重(本多仙千代)が従っています。
1584年12月22日に、羽柴家にて元服すると、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取り、羽柴秀康と称しました。
 
◆越前松平家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/越前松平家
越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。
 忠昌以降の福井藩歴代藩主の名乗りに関して、藩主交代時の混乱があり、かつわずか2年ほどの治世であった第5代昌親を除き、「光通、(昌親)、綱昌、吉品、吉邦、宗昌、宗矩、重昌、重富、治好、斉承、斉善、慶永、茂昭」と、幕府から歴代藩主に対し、当代の将軍の偏諱を与えられた(偏諱授与・一字拝領)。
 
 
◆戦前までは徳川の威勢があり北陸の主な役所などは殆どここに集まっていたと聞く。
●軍需工場などもあり大規模な空襲を受けている。
大都会の空襲ばかり取り上げられているが ここにも全国で行われた大空襲が有ったことは知られていない。
福井空襲 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/福井空襲
福井空襲(ふくいくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月19日の午後11時24分から翌日午前0時45分にかけてアメリカ軍により行われた福井県福井市に対する空襲(戦略爆撃)である。福井大空襲といわれることも少なくない。
福井市広報広聴課写真帳 - 戦災 (福井市による作成、福井市立郷土歴史博物館所蔵デジタルアーカイブ) ...
戦災概況図福井(せんさいがいきょうず ふくい)
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/index.html
昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図は作成されました。まえがきには、当時帰還しつつあった復員軍人軍属の内地上陸にあたっての質問第一声が、概ねまず戦災概況についてであることを知り、この調査の重要性とその迅速な調整の必要とを痛感した、と述べられています。
原図サイズ:55cm×40cm
目録情報
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000126
URI: https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000126
Manifest URI : https://www.digital.archives.go.jp/api/iiif/001892102/manifest.json
コレを見ると現在の市街地のほとんどが被害に有っている。
福井市広報広聴課写真帳 - 戦災 デジタルアーカイブ
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/index.html
ここでは写真で見ることができる。

●敦賀と鯖江には駐屯地があり鯖江の36連隊と子供の頃から聞かされている。
鯖江の36連隊 どんがなったら昼飯じゃ
などという歌をよく歌ったもの。
調べてみると http://ja.wikipedia.org/wiki/歩兵第36連隊
歩兵第36連隊(ほへいだい36れんたい、歩兵第三十六聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。
となっている。勘違いか間違いを教えられたのか。

どちらにしてもこの地は結構重要地点で有ったようだ。
今の県民にはそんな意気込みの有ったとわとても思えない欲の無い温和な
人格の人しか見当たらない。
猜疑心は人一倍持ち合わせているようだ。
裏を返せば自分だけ良ければ良い。
だから社長が多いのかな。独立心が強いと耳障りの良い言葉で言われるけど。
人間 欲というものは持っていないといけないものなんだね。

●岡田 啓介(おかだ けいすけ、慶応4年1月21日[1](1868年2月14日) - 1952年(昭和27年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。階級は海軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B
海軍大臣(第14・18代)、内閣総理大臣(第31代)、拓務大臣(第7代)、逓信大臣(第37代)などを歴任した。
慶応4年(1868年)、福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。
1934年(昭和9年)、元老・西園寺公望の推奏により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。
●存命にもかかわらず新聞に死亡記事が出た内閣総理大臣
首相官邸に乱入した武装青年将校により岡田と容貌がよく似ていた義弟で秘書の松尾伝蔵が銃撃される。
松尾を岡田と誤認した青年将校が総理死亡を発表(二・二六事件)

●昭和天皇の覚えも良かったと見えて1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣を2人ずつ呼んで意見を聞いた。
岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。
天皇も、岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと『昭和天皇独白録』の中で述べている。
終戦を決めた鈴木貫太郎内閣では、女婿の迫水久常が内閣書記官長の職にあった。
岡田は迫水を通じて、終始鈴木に助言を行った。その働きぶりはすさまじく、「鈴木内閣即岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。破局への流れは食い止められなかったものの、「和平」は岡田の執念となった。

●福井県 - Wikipediaより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C
福井県(ふくいけん)は、日本海や若狭湾に面する、日本の県の一つである。
県庁所在地は福井市。
山中峠・木ノ芽峠・栃ノ木峠を通る稜線を境にして、北側の嶺北(越前地方)と、南側の嶺南(若狭地方および敦賀市)より構成される。
越前の緑豊かな山々と、若狭の清らかな水の流れに代表されるように、自然が美しい場所であり、それを代表する語に越山若水(えつざんじゃくすい)がある。
●歴史
  ・先史時代
・旧石器時代
県内には遺跡が各地に点在しており、約1万5000年前から人が住んでいた事が窺える。
・縄文時代
鳥浜貝塚(若狭町)からは草創期の縄文式土器(隆起線文・斜格子文土器)をはじめ竪穴式住居跡や丸木舟、弓矢、土器に模様をつけるための縄などが出土している。
・弥生時代
前期頃には稲作が伝わったとみられ、それを窺わせる土器が出土している。
金属器、玉、布の生産も行われていたようである。嶺北は銅鐸が出土した日本海側の北限である。
中期頃には首長の墓が作られ始め、後期後半になると大型化してくる。
・古墳時代
4世紀初め頃には嶺北で前方後円墳がつくられはじめ、4世紀中頃からは九頭竜川中流域で大規模な古墳がつくられはじめる。
     
コメント
三丁目の夕日
すごい わーい(嬉しい顔)
よくしらべましたね。

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