●日本人の特質
天保騒動(てんぽう そうどう)は、江戸時代の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。Wikipediaより
天保騒動(てんぽう そうどう)は、江戸時代の天保7年(1836年)8月に甲斐国で起こった百姓一揆。甲斐東部の郡内地方(都留郡)から発生し、国中地方へ波及し一国規模の騒動となった。別称に郡内騒動、甲斐一国騒動、甲州騒動。Wikipediaより
打ちこわし(うちこわし)とは、江戸時代の民衆運動の形態のうち、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為のこと。打毀。主に都市部において、買占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して行われることが多いが、百姓一揆に伴って、領主の悪政と結びついたとされた特権商人や村役人に対して行われることもあった。家財の略奪なども行われたが、一方で正当な制裁行為であることを主張するために、家屋の破壊だけにとどめ、略奪や放火は厳に戒められた事例も多く知られている。
都市における最初の打ちこわしは、元禄16年(1703年)に長崎で発生し、享保18年(1733年)には江戸でも初めて発生した。それ以後も飢饉や政情不安などによりしばしば発生し、特に物価が急に上がった幕末にかけて増加した。
Wikipediaより
Wikipediaより
一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。ドイツ語のPutschの訳語としても使われる(カップ一揆やミュンヘン一揆など)。
Qajinさんの日記から
天保の打ちこわし
浅間山の噴火などで米が不作となり値が上がった際、味噌などが便乗値上げしようとした際に行われた打ちこわし
・参加者5000人。けど首謀者なし
・女子供は参加させず
・目指す商家だけ壊して隣近所には被害出さず
・どさくさに盗みを働こうとする者がいたら皆で止め
・死傷者0
・途中で昼食休憩入れられるくらい統率され
・打ち壊す前に火の元を消火する徹底振り
これを見た役人が呆れて「まことに丁寧礼儀正しく狼藉つかまつり候」
と評したそうなw
天保の打ちこわし
浅間山の噴火などで米が不作となり値が上がった際、味噌などが便乗値上げしようとした際に行われた打ちこわし
・参加者5000人。けど首謀者なし
・女子供は参加させず
・目指す商家だけ壊して隣近所には被害出さず
・どさくさに盗みを働こうとする者がいたら皆で止め
・死傷者0
・途中で昼食休憩入れられるくらい統率され
・打ち壊す前に火の元を消火する徹底振り
これを見た役人が呆れて「まことに丁寧礼儀正しく狼藉つかまつり候」
と評したそうなw
ご先祖様すげー(*´ー`)
これが日本人の心意気というモノか。
コメントがいくつか有り結構面白かった。
江戸時代にはお上に対して訴えることが数有り何百にも上った
けれども殆どが話し合いにより解決した。
映画などで貼り付けなどの処刑者の描写があるが資料として
残っているモノに数人しか首謀者は処刑されていない。
これも特筆に値するモノである。
日本人は昔より人の命を大事にしてむやみやたらに傷つける事は少なかった。
異論は只あるだろうけれども平和主義で国内をまとめてきた歴史がある。
けれども殆どが話し合いにより解決した。
映画などで貼り付けなどの処刑者の描写があるが資料として
残っているモノに数人しか首謀者は処刑されていない。
これも特筆に値するモノである。
日本人は昔より人の命を大事にしてむやみやたらに傷つける事は少なかった。
異論は只あるだろうけれども平和主義で国内をまとめてきた歴史がある。
お上
支配者を指す言葉。
この言葉には、政治制度的な権力をまるで自然権のように錯覚
含まれている。
これに正確な意味での対義語が存在しないことが、
それを裏付けているといえる。
極めて「日本的」な感覚に基づいた、
無自覚に諦観的な現状肯定の言葉だといえる
支配者を指す言葉。
この言葉には、政治制度的な権力をまるで自然権のように錯覚
含まれている。
これに正確な意味での対義語が存在しないことが、
それを裏付けているといえる。
極めて「日本的」な感覚に基づいた、
無自覚に諦観的な現状肯定の言葉だといえる
コメント
天保の甲州一揆には数人の首謀者がいて、穏健派だった
「犬目の兵助」は一揆集団が次第に暴徒化したことから離脱しました。
幕府からの追っ手を避けながら西日本を流浪し、幕末には木更津で
寺子屋を開いて犬目(上野原に近い犬目宿)に帰る機会を窺っていました。
天保の甲州一揆には数人の首謀者がいて、穏健派だった
「犬目の兵助」は一揆集団が次第に暴徒化したことから離脱しました。
幕府からの追っ手を避けながら西日本を流浪し、幕末には木更津で
寺子屋を開いて犬目(上野原に近い犬目宿)に帰る機会を窺っていました。
維新直前に兵助は犬目に帰り、墓もそこにあります。
兵助は流浪の旅をしながら、算学を教えて糧を得ていました。
彼の日記によると、平方根、立方根、微分まで教えていたようで、
当時の在郷の知識人のレベルの高さが知れます。
当時の在郷の知識人のレベルの高さが知れます。
秩父困民党事件の首謀者井上傳蔵が北海道で生き延びたのも
知識が豊かだったからでしょうか。
知識が豊かだったからでしょうか。
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