わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

花ひともと

2014-12-31 09:29:15 | 癒し
花ひともとの美しさということを
この頃しみじみとおもうようになった

私の家の狭庭にも
四季折々に
それぞれの花がひらいて
その美しさが
偶々一人の時を得た私の心にひびき
足をとどめて
一ひら一ひらに見入ったものであるが
私の歩みをおもわずとどめさせたのは
神の愛と光とが
どんな小さな花びらにも
いっぱいにそそがれて
いのちというものが本来持っている
すこやかさを見せてくれたからなのである

毎日
私のまわりを影のように
通りすぎてゆく人間に
まとわりついた業想念の波を
きよめながら
ふと、寂しさが心にあらわれて
そんな時
私は何もいうこともなく庭におり
ほほを吹き過ぎる風を受けながら
人間のさまざまないのちのすがたに
おもいをはせる

花ひともとの美しさは
そんな時
私をなぐさめ
神のいのちが
少しもそこなわれず
現在も、そしてこれからも
美と愛をあらわしていて下さることを
教えてくれるのである

花ひともとに込められた
神のいのちのすこやかさよ
人のいのちもかくあれと
私はまた元気になって
世界平和の祈りを
祈りつづけるのである
     昭和61年12月2日 記

いのちの源

2014-12-30 06:53:21 | 癒し
いのりは、いのちを生きしめる源
であります。我々人間のいのちというものは、
この世に、ただ20年30年生きている
それだけのいのちではないのであります。

 宇宙の星々を浄めきよめて、そうして
地球に降立ったのが私達なのです。

 生命はもともと神の光を受けた
澄み清まった流れなのですが、人間が
この地球世界に住むようになって、
いつの間にか業を自分の主人だと
思うようになってしまった。

 今はこうした業をすっかり払い、
世界平和の祈りのなかで、新たな
光にみちた霊人の生命(いのち)を
回復する時なのです。

 障りなどというものの一切なかった
霊止(ひと)のいのちへと帰す時
なのです。

 といって、肉体を亡ぼすのでは
ありません。そのまま、肉の身のまま
霊身になるのであります。その一番の
近道、易行道が消えてゆく姿で
世界平和の祈りという私の唱導した
この教えなのであります。

 これは全く、私個人の我から出てきた
教えでも祈りでもありませんで、
五井昌久という一個の人間が、神様に
この身、このいのちをささげて、どうぞ
この人類世界を真実に救い導く方法を
お教え下さいと、うまずたゆまず
自分というものを忘れ、自分という
ものをおいて祈った末に、神様の心が
私のなかにひびき、私は真実の
私自身との、自己との対面を果たす
ことができたのであります。

 真実の自己は、全く白光そのもの、
光そのものの自己でありました。私は
その対面を果たした瞬間、自分の
ふるさとへ帰ることを許された者のみが
味わう何ともいえぬ感激を味わったので
あります。

 そして人は、人のいのちは、みな等しく
このようにかがやいていることを知ら
されたのであります。この真実を伝え
つづけてゆくことが私の使命であることを、
この身にも心にも識らされたのであります。

 このいのちのかがやきは、神様の愛と
知恵によるのでありますが、さらに、この
かがやきを、つよめ、深めるのが、私ども
一人一人の世界人類が平和であります
ように、日本が平和でありますように、
私達の天命が完うされますように、
守護霊さん守護神さんありがとう
ございますという世界平和の祈りなので
あります。

 この祈りには、一点の私もありません。
 それでいて、私ども一人一人の個々の
いのちと、この地球世界に生きる
すべての人々とをしっかりと結んでいる
祈りなのです。

 聖書に、神は光あれといわれた、すると
光があったと世のはじまりと記しています
けれども、実際、宇宙は、混沌のなかから、
神が、自らの愛と光をなげわかって、創造
された大生命なのであります。

 このことをおもいますと、我々の
いのちの源は、宇宙であり、宇宙を創造
された大生命である神の愛と光であり、
その神、宇宙神のみこころそのままを
あらわした世界平和の祈りをとなえる
ことで、我々はすでに、我々のいのちの
源、愛と光のなかに抱かれている
ということがいえるのであります。

 我々は、肉体をまとう前は、霊
そのものであり、霊止(ひと)であって、
宇宙の星々を経めぐり、いのちの光の
花々を咲かせながらこの地球にくだって
きたのであります。
 我々の本心本体は、よくこのことを
記憶しているのでありますが、世界人類、
宇宙人類の一人として、世界平和の
祈りを心にひびかせますとき、私どもの
ひびきは、宇宙大奥のひびきと一つに
溶け合って、光をおりなし、おのずから
いのちの源へととけこんで参るので
あります。このことを考えて、日々
世界平和の祈りを唱えてまいりましょう。
    昭和61年11月22日・12月2日 記

いのちについて 序

2014-12-29 09:33:05 | 癒し
      序 詩
             五井 昌久
いのちは
神の光
人間は
その
ひかりを受けて
のびやかに生きる
存在
神のいのちと
人のいのちは
一元となって
今こそ
みこころの
愛と深さを 
知らしめてゆくのである
      昭和61年11月22日

(漢詩)無 題(四十一)

2014-12-28 07:38:26 | 癒し
水者今昔不問唯澄己
人間生者心裡満光岩
水は今昔を問わず唯己れを澄ます。
人間の生(いのち)も心のうちにみちて
光のごとし。


 水は、時を問わず、今とか昔とかに
とらわれずに、ただ自分自身をすませている。
 それとおなじように、人のいのちも、本心に
みちみちて、ながれゆく神の光のようである。

(漢詩)無 題(四十)

2014-12-27 06:41:13 | 癒し
神慮難計然其内百代乃
光者今日是人乃生命
 神慮計り難し。然れどもそのうち
百代の光は今日これ人の生命なり。


 神のみこころというものははかりがたい。
 しかしながら、神から放射された光が
ながい歳月ののちに、今日の私達の生命
となっていることも、神慮のひとつである。
 我々は、この神慮を受けて、生き、
生かされている者なのである。