拝復
人間界に呼びかけるのに、人間の
心のこもった言葉以外で何が出来る
というのかという点について、私は
今一度かいてみたいのだ。
ただいたずらに自分を高みに
おく者を僕は信じない。人間
というものの真性を、等しく
みんなが理解するためにも、言葉
というもののやさしさ、深さを
極めることは大事だと思っている。
やさしさというものは極めて
ゆけば強さにつながる。しかも、
その強さは、人間の心の内奥を
つつむものであると僕は思っている。
このつよさを獲得するために、人は
さまざまな道のりを経てゆかなければ
ならない。どこをどう点検しても
つよさにつながらない道を歩かせ
られる場合もあるのだ。
しかし、その道を歩く時間も、永遠
という神の眼からみれば瞬間にすぎない。
君の道筋も、永遠につながって
ゆくものだ。
人間界は、神界に到るまで顕われの
世界だ。そのあらわれは、人の心が
つくってゆくものだということを理解
できれば、この世の争いもなくなって
ゆくのだがと思う。おもいだけでは
この世はよくならない。おもいを
祈りに高め、祈りを光にかえて、僕等の
本心のなかに光体をかがやかす
ことこそ、今、つとめるべきではないか。
今、この時期だからこそ、一人一人の
光をつよめてゆこうではないか。
祈りのなかに僕はいる。世界人類が
平和でありますようにという祈り言の
なかに、僕はいるのだ。五井先生は
遠くにいるのではない。ここに
いるんだよ。一人一人のなかに、君達の
なかにいるんだよ。
自在身のよろこびと、それゆえの
切なさとを、今、僕はしみじみと
味わっている。しかし、真理の光─神の
愛はこんなことでいささかもゆらぐ
ことはないのだよ。
僕は白光を愛している。白光に
つながっている同志の一人一人を
愛している。しかし、僕の念願は、その
君達の祈りを結集して、真の人間の
進化にむけてのそなえを一日も早く
成し遂げたいということだ。
神界の光を、今地上に放射して、肉体を
持ったまま霊人になってゆくという、今は
そのはじまりの時なのだよ。人間という
ものの奥深さ、光の朗らかさを、祈りの
なかで覚えて欲しい。それは元々、我々
人間のなかにあるものだ。君のなかにも
あるのだよ。(疑ってはいけない)人の
おもいを澄ませていれば、その時、人は
自然に光になってゆく。光というものは
闇を照らして心と心を結ぶものだ。そして
その心は、僕にも通じているのだよ。
この頃僕は、人生の真実ということを
考えている。真実に人生(天命)を
走り抜くということは、人の力だけでは
できることではない。その背後に、守護霊、
守護神があり、神の愛があり、ゆるしと
みちびきがあって、はじめて走りとおせる
のだ。けれど、ここで僕は、へんに宗教の
話をしたくはない。人生の真実を完う
しようとおもえば、やはりやさしさ
なのだよ。どれだけのやさしさを人から
受け、より以上に人に返してゆくか
ということなのだ。宗教などという
面倒な言葉より、ただ、あたたかい、
やさしい雰囲気を持った人として
生きてくれる方が、僕ははるかに
うれしい。宗教にもとらわれずにいて
くれ給え。世界平和の祈りは、そして
僕は、そうした君の助けをしてゆくわけ
だけれども。
やさしさというものは、人の痛みを
覚えているとやさしくできるものだよ。
相手に身をおくということだ。僕は
それをずっとやってきた。
地上での六十余年はその連続だった。
そして、今もそうしている。やさしさの
極みは神の愛だ。しかし、神の愛を仰ぐ
僕らのやさしさを目ざす旅は、これでいい
ということがない。お互いに、自己の
本心をかがやかそうではないか。
僕が今、寂しさの中にいることを、君は
承知してくれていることとおもう。
この寂しさも、真理の前に一瞬にすぎる
ものだとはおもう。しかし、寂しい。
それは僕が認められないからではなく、
人が神の愛のなかに素直に溶け入る
ためには、どれほどの時をついやさ
なければならないのかということを
観じ切った上での寂しさだ。こんなことを
書くと、君は困るだろうか?
僕が神界に帰って、より人間らしく、
生き生きと、人のこころを持って生きて
いることを、僕は伝えたくて
たまらないのだよ。僕だけではない。
人はみな、こんな風に生きている
ものだということを伝えてゆきたいのだ。
そうすることで、みんな本当の意味での
安心を得られるのではないか。五井先生
だからできているのではないのだよ。君も
僕とおなじなのだよ。すなおであって
欲しい。よろこびにも悲しみにもすなおで
あって欲しい。僕に遠慮する必要はない。
背のびをする必要もない。神様に
かっこうをつける必要はないのだからね。
言葉は言霊だ。光がとびかって
いるのだ。言葉に光をやどすのではなく、
元々光が言葉になっているのだよ。
又追伸をかくかも知れないが、
とりあえず、この短信をおくることにする。
ほがらかに生きてくれ給え。
昌 久
人間界に呼びかけるのに、人間の
心のこもった言葉以外で何が出来る
というのかという点について、私は
今一度かいてみたいのだ。
ただいたずらに自分を高みに
おく者を僕は信じない。人間
というものの真性を、等しく
みんなが理解するためにも、言葉
というもののやさしさ、深さを
極めることは大事だと思っている。
やさしさというものは極めて
ゆけば強さにつながる。しかも、
その強さは、人間の心の内奥を
つつむものであると僕は思っている。
このつよさを獲得するために、人は
さまざまな道のりを経てゆかなければ
ならない。どこをどう点検しても
つよさにつながらない道を歩かせ
られる場合もあるのだ。
しかし、その道を歩く時間も、永遠
という神の眼からみれば瞬間にすぎない。
君の道筋も、永遠につながって
ゆくものだ。
人間界は、神界に到るまで顕われの
世界だ。そのあらわれは、人の心が
つくってゆくものだということを理解
できれば、この世の争いもなくなって
ゆくのだがと思う。おもいだけでは
この世はよくならない。おもいを
祈りに高め、祈りを光にかえて、僕等の
本心のなかに光体をかがやかす
ことこそ、今、つとめるべきではないか。
今、この時期だからこそ、一人一人の
光をつよめてゆこうではないか。
祈りのなかに僕はいる。世界人類が
平和でありますようにという祈り言の
なかに、僕はいるのだ。五井先生は
遠くにいるのではない。ここに
いるんだよ。一人一人のなかに、君達の
なかにいるんだよ。
自在身のよろこびと、それゆえの
切なさとを、今、僕はしみじみと
味わっている。しかし、真理の光─神の
愛はこんなことでいささかもゆらぐ
ことはないのだよ。
僕は白光を愛している。白光に
つながっている同志の一人一人を
愛している。しかし、僕の念願は、その
君達の祈りを結集して、真の人間の
進化にむけてのそなえを一日も早く
成し遂げたいということだ。
神界の光を、今地上に放射して、肉体を
持ったまま霊人になってゆくという、今は
そのはじまりの時なのだよ。人間という
ものの奥深さ、光の朗らかさを、祈りの
なかで覚えて欲しい。それは元々、我々
人間のなかにあるものだ。君のなかにも
あるのだよ。(疑ってはいけない)人の
おもいを澄ませていれば、その時、人は
自然に光になってゆく。光というものは
闇を照らして心と心を結ぶものだ。そして
その心は、僕にも通じているのだよ。
この頃僕は、人生の真実ということを
考えている。真実に人生(天命)を
走り抜くということは、人の力だけでは
できることではない。その背後に、守護霊、
守護神があり、神の愛があり、ゆるしと
みちびきがあって、はじめて走りとおせる
のだ。けれど、ここで僕は、へんに宗教の
話をしたくはない。人生の真実を完う
しようとおもえば、やはりやさしさ
なのだよ。どれだけのやさしさを人から
受け、より以上に人に返してゆくか
ということなのだ。宗教などという
面倒な言葉より、ただ、あたたかい、
やさしい雰囲気を持った人として
生きてくれる方が、僕ははるかに
うれしい。宗教にもとらわれずにいて
くれ給え。世界平和の祈りは、そして
僕は、そうした君の助けをしてゆくわけ
だけれども。
やさしさというものは、人の痛みを
覚えているとやさしくできるものだよ。
相手に身をおくということだ。僕は
それをずっとやってきた。
地上での六十余年はその連続だった。
そして、今もそうしている。やさしさの
極みは神の愛だ。しかし、神の愛を仰ぐ
僕らのやさしさを目ざす旅は、これでいい
ということがない。お互いに、自己の
本心をかがやかそうではないか。
僕が今、寂しさの中にいることを、君は
承知してくれていることとおもう。
この寂しさも、真理の前に一瞬にすぎる
ものだとはおもう。しかし、寂しい。
それは僕が認められないからではなく、
人が神の愛のなかに素直に溶け入る
ためには、どれほどの時をついやさ
なければならないのかということを
観じ切った上での寂しさだ。こんなことを
書くと、君は困るだろうか?
僕が神界に帰って、より人間らしく、
生き生きと、人のこころを持って生きて
いることを、僕は伝えたくて
たまらないのだよ。僕だけではない。
人はみな、こんな風に生きている
ものだということを伝えてゆきたいのだ。
そうすることで、みんな本当の意味での
安心を得られるのではないか。五井先生
だからできているのではないのだよ。君も
僕とおなじなのだよ。すなおであって
欲しい。よろこびにも悲しみにもすなおで
あって欲しい。僕に遠慮する必要はない。
背のびをする必要もない。神様に
かっこうをつける必要はないのだからね。
言葉は言霊だ。光がとびかって
いるのだ。言葉に光をやどすのではなく、
元々光が言葉になっているのだよ。
又追伸をかくかも知れないが、
とりあえず、この短信をおくることにする。
ほがらかに生きてくれ給え。
昌 久