わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

光満ちた世界(5)

2023-02-28 09:04:42 | 癒し
     (前日からの続き)
神様というのは、あなた方がお呼びになれば、
あなた方のすぐそばへ来て下さる。
守護の神霊たちは、お呼びになれば
すぐ来て下さる。
そして、寄り添って下さる。
目には見えないかもわからない。
けれども、祈りの中に神様を呼べば、
あるいは、五井先生を呼んでもですね、
すぐあなた方のそばに行ってあなた方を守り、
あなた方を支えて、そうして、光へ光へ、
明るい方へ明るい方へ導いてゆく。
で、ここを根幹といたしませんことには、
闇と見えるものを闇と見まちがえてしまいます。
思いまちがって、憂い辛い世の中のこの表面の
現象面のことだけに把われてしまって、
自分も憂い辛いそのうずに巻き込まれて
しまいます。
けれども、本当に強いやさしい真実の光の世界
というものは、そういうものにのみ込まれない
ものであります。
そういうものに引きずられないものであります。
あるいは、そういうものを労わり溶かし、
そうして、人間のいろいろな苦というものを
包み込みながら、さらに深い大きな神様の
愛へと導いてゆくもんであります。
で、ここをやはり覚えていただきませんことには。
           (つづく)

光満ちた世界(4)

2023-02-27 10:20:38 | 癒し
     (前日からの続き)
荘子に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)
というのがございます。
逍遙遊篇というのは何かというと、ご存じの
方もあるかもわかりませんけれども、
つまり、大鳥鳳凰というのがあって、
鳳凰(ほうおう)のあの大きな鳥が天空を
かけ巡ってゆく、その姿の壮大なこと、
それを最初にうたっております。
そうして、鳳凰というのは元を正せば、
北の方に大きな海があって、そこに
こんという大きな魚がいて、その大きな
こんという魚が鳳凰になったんだというふうに、
冒頭に書いてあります。
で、後の注釈者などは、これは何を言って
いるのかよく分からない。
非常に混沌として、大魚が出てきたり、
鳳凰が出てきたり、なんだか気宇壮大では
あるけれども、それ以上何を言おうと
しているのか、非常に空想的な物語であると、
たいがいの人がそういうことを申します。

けれども、人間の智恵とか知識とかいうもの
では推しはかれない程の、深くて大きい、天空
そのものさえもおおいつくしてしまうような、
そういう絶対的な愛の存在というものが
ございまして、そして、それが、この地上に
生きている私たちも、あるいは、地上に
這っているけものたちも、すべての草木たちも、
ありとあらゆる生命の中に息づきを与えて
いるのだということ。
そのことを覚えていただきたいと思う
のであります。
つまり、我々の生命というものは、我々の想い
いかんに関わらず、憂い辛いとかいろいろな
ことがございますけれども、そういうものに
関わらず、我々の中で光へ光へと導いていく、
我々を明るい方へ明るい方へと導いてゆく。
そうしてついに、真実に何ものにも動かされ
ない、不動の心と私は申しましたけれども、
そういう不動の心に導かれて、そうして、
光そのもの、光一妙の世界へ連れていって
下さる。
そういうことなんです。
そして、それは遠くにあるのではない。
       (つづく)

光満ちた世界(3)

2023-02-26 08:34:59 | 癒し
     (前日からの続き)    
本当の真実の姿というのは、それでは何か
といえば、それはどんな時にも動かされない、
どんな時にも迷うことがない、疑う余地のない
神様の愛の光というもの。

例えば、どんな業の中にあっても、その業を
ゆるやかに、愛情をもって消してゆきながら、
ついに、その業の闇をも光に変えてゆく、
そういう大愛。
それが真実の光の世界であります。
で、この真実の光の世界というものを、実は
私たちはそれぞれの心の中にもっておりまして、
本当はこれが原動力になって私たちが生きて
ゆくことができるということであります。
ですから、そこへずっと気持ちを集中し心を
集中し、祈りを集中してゆけばですね、いつも
私が申しましたけど、一分キリスト一分釈迦
一分老子になることができる。
老子が無為と申しましたのは、何もしない
ということではありません。
あるがままの自己というものをほがらかに
認めて、そうして、そのほがらかな自己という
ものをさらにポーンと投げ出して、笑顔
でもってそれを見つめていると、そこから光
というものが見えてくる。
光以外に見えてくるものはない。
そういう世界であります。
そういう世界に本当は人間は遊ぶことが
できる。
          (つづく)

光満ちた世界(2)

2023-02-25 15:15:36 | 癒し
    (前日からの続き)
本当に信心深いということはどういう
ことかとよく聞かれますけれど、本当に
信心深いということは、ただひたすら神様と
一体になっていて、そして、神がかりになる
というんじゃなく、ちゃんと自分を持ち、
その上で何かひたすらに打ち込んで、喜んで、
動いている。
語っている、働いている。
その時に、信仰というか信心というか、
そういうものが動いてゆく。
と私は思います。
そのあたりが、我々の肉体を本当に動かして
ゆくもんである。

ところが何か信仰といいますとね、遠く
離れたもののような、あるいは、神様や仏様
というものも遠く離れたもののような、光明
とか何とかいいますけれども、それも何か
自分からは遠く離れたもののような、そういう
気持ちに皆なりがちですけれども、そうでは
ないんですね。
あなた方も一人一人が皆光なんです。
そうして、その光というのは、目には見え
なくても、例えば、笑顔で人に接する時に、
自分の中の元々もたされている、
いただいている生命というものの中から
光が奥深く出てまいりまして、その光が
パーッとあたりを照らしてゆく。
だから、よく歩くだけでお浄めになる
ということを申しましたが、実際そうなんです。
自分は何も思っていない、お浄めするとか
何とかいっさい考えないで、動いてゆく、
歩いてゆく。
ただ無心に歩いてる。
何にも考えないでぼんやり歩いている。
歩いているんだけれども、それだけで
あたりが浄まってゆく。
本当の人間というものはそういうもんですね。

神様の愛というのはそういうもんですね。
例えば、太陽というものは、誰を照らして
誰を照らさないということはありません。
また、この人は優しい人だからここには
雨を降らせて、この人はいじわるだから
ここには日照りでと、そういうことも
ありません。
皆平等に、神様は雨を降らしたり
照らしたりいろいろします。
あるいは、星の光などというものもずい分
人間の心の慰めになります。
星の光や日の光をうたった詩だとか言葉
だとかいうものも沢山ありますね。
そういうものを通して我々の心が慰められる
のは、私もうたをよみますけれども、詩人や
歌人という人々が神様の心というものを感受
いたしまして、感じとりましてね、そうして、
その心をいただいてうたや詩にする。
そうすると、それがひびきになって我々の
中へ帰ってきて、そして、我々の中の生命の
火をかき立てて、往相還相じゃありません
けれども、我々の中の光がまわりまわって
ですね、あたりを浄めてゆくんですね。

そういうふうに考えますとね、ここだけが光に
満ちているとか、あそこは光に満ちているとか、
ここは光がないとか、というのはこれはやはり
人間の想いなんですね。
人間の想いというものは、実にさまざまな世界を
つくります。
例えば、この人と仲良くなりたい、この人と
いつまでもつき合いたいと思うと、やわらぎの
光が出ますね。
そして、争いたくないというただ単なる平和主義者
ではなくて、本当に調和をして生きてゆく。
そのための祈りによって、祈りの光が出るから、
やわらぎがまことになっていって、なぐさめに
なっていって、本物の光が出る。
だけども、別のことも言える訳です。
我をもってる人間の側から言えば、こんな人とは
仲良くなりたくないとかね、ありますよね。
あいつの顔なんか見たくないとかね。
ありますでしょ。
そういうことで分けてしまうと、そこに
たちまち闇が出てきますね。
そして、何かいやな空気になってまいりますね。
それは人間の想いがつくり出す世界。
不思議なことに、やわらぎの世界も、それから、
いやな空気の世界も不安に満ちた世界も、
皆これはどこから出てくるかというと、これは
人間の想いから出てくる。

実に、人間というものはさまざまなものを
つくり出すことが出来る存在。
ところがこれは皆空なんです。
本当の真実の姿のものではございません。
         (つづく)

光満ちた世界(1)

2023-02-24 10:07:48 | 癒し
こうやって壇上から見ていますと、本当に
光が満ちておりましてね。
皆さんの体からも心からも、それから、
気持ちの流れからもね、本心からも、
ありとあらゆるところから光が出ていて、
そうして、お互いの体とか心だけ
じゃなくて、光がお互いに呼び合って、
大光明になって内も外も浄めてゆく。
そういう情景が私の方から見えます。

本当は、人間のその見える見えないという
ことなどは些細なことでしてね、ささやかな
ことで。
光というものはとにかくあるんだということ、
光のいのちによって我々は生きているんだ
ということ、そのことが一番大事なこと
なのであります。

光のいのちというのは何かというと、
これは神様のいのちだ。
神様というのは何かというと、これは
愛と平和とゆるしの源だ。
愛と平和とゆるしというものが我々の
生命の根幹にもなっているし、大宇宙の
秩序にもなっているし、もう話を大きく深く
していったら、神様という方は、この
三つのものを現わすためのものにすぎないと。
大愛という大河の流れの中にいらっしゃる、
それが神様だということが言えるんで
ありますが、しかし、そこまで話を大きく
しなくても、私たちの中にこの光が交通
しておりましてね、交流して我々は実は
生きてゆくことができる。

光というものを見えなくても、例えば、
ほほえみですね、
笑顔によって心をなごませることができる、
なごむ心があるということを申しましたけれども、
その笑顔の中にやっぱり光が宿るんです。
ろうそくの光がポーッとともるとそこが明るんで、
そうして、夕暮れ時や夜など、他にあかりが
ありませんと、そこにあかりが集中しますね。
そして、お盆に、宗派によってはね、浄土真宗
なんかだと、お迎えの桃燈があり、その
あかりを頼りにして帰ってくるという信仰が
ありますね。
そういうろうそくの一本のあかりというものが、
その中に何が入っているかというと、皆の愛念
ですね。
迎えよう迎えたい、一緒になりたい一体に
なりたいと。
私たちは、生きている人も死んでいる人も
そうですけれども、この人と一体になりたい、
話がしたい、仲良くなりたい、喧嘩をしたく
ない、いろいろな想いでもって、相手と関係を
結んでゆく。
相手と仲良くなりたいということで笑顔を
送る時に、その中に光が入るんですね。
祈りが入ってゆくんですね。
その時に、別に南無阿弥陀仏と言わなくとも、
祈り言を唱えなくとも。
だから、笑顔というものはすごいものです。
笑顔は本当に光を生み出すものですね。
           (つづく)