わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

世界平和の祈りは 小宇宙と大宇宙を握手させる祈り

2012-09-30 07:43:01 | 癒し
自分を明るくし
自分の心を
明るくしてゆく
というのが
一番です

自分が
明るくなれば
まわりも
明るくなって
ゆくのです

光が
それだけ
みなさんの
なかに
入りやすいのです

光というものは
いつもいつも
みなさんのまわりを
とびかって
よろこびだとか
楽しさだとか
をつくり
明るくしよう
明るくしようと
精一杯の
努力を
しているのですが
本体の
みなさんの方が
明るくなって
くれないと
もう一つ調子が
出ないのです

私達の本体というものは
大光明
不夜城のように
ともしびが消えることがありません
私達は
このあかりを
求めて歩いてゆく者同士なのです

それには
まず
自分をきりかえること
おもい
というチャンネルから
神様の愛という
チャンネルにきりかえて
明るい自分を
精一杯
呼吸することです

世界平和の祈りを
祈りながら
アンテナを
神様にむけて
明るい
私達になって参りましょう

         昭和62年2月14日 朝



私は
宇宙なんだ
神様の愛が
私を生かして下さって
いるんだ
とおもうことが
大切ですね

想念というものに
支配されて
それは
人間が
勝手につくっちゃったものですけれど
我々は
何でもかんでも
ちっちゃくちっちゃく
物をこじんまりとまとめてみる
そういうくせがついちゃった
全部
こう枠に入れてね

ところが
人間というものは
いつも
私がいうように
神様の
分生命
分霊だから
神様からずっと
分かれてきた生命で
天が神様ですからね
そんなにちっちゃく
まとまってはいられない
存在なんです

この地球上の
とおもえば
我々が意識する
しないにかかわらず
我々自身が
地球上いっぱいに
光となって
ひろがってゆくわけ
宇宙
とおもえば
宇宙全体
銀河系だけじゃない
もう無限の宇宙ですよね
そこまで
ひろがっちゃう
そういう
とてつもなく
すごいひろがりを
持っているのが
人間なんです

それで
神様って
よぶと
あるいは
神様って
おもうとですね
神様ってのは
我々の親ですよ
ふるさとですからね
すっと
ふるさとへ帰って
何ともいい心持ちに
なってくるという
こういうわけなんです


神の似姿である人間にはね
そのまま
宇宙も
神様も
永遠のいのちのながれも
みんなみんな
内蔵されてるわけですよ
小宇宙
小天地ですよね
人間ってのは
この肉体の
奥の奥に
神界につながる
神様につながる
天地を
持っているわけです

ところが
これをはばむものがある
それが
さっきいいました
想念ですよね
肉体人間の我
とかね


この想念が
このままあったんじゃあ
なかなか
神様にスッキリと
いのちが
とどいてゆかない
そこでですね
こら想念
お前そこどけなんて
五井先生は
そんな乱暴な
口はきかないのね
そうかそうか
お前の気持ちもよくわかる
ってやるんですよ
何でやるかというと
消えてゆく姿で
世界平和の祈り
これでやるんです

想念が
人間のなかで
あばれ出した
苦しい
先生どうしましょう
ああそうだ
消えてゆく姿だ
これで又
浄まるんだ
守護霊様
守護神様
神様ありがとうございます
世界人類が平和でありますように
ってやるとですね
あばれてた想念もみんな
幽界まで浄めるんです

世界平和の祈りは
幽界幽体を
きよめて
すっかりきれいにして
それでもって
スッキリと神様につなぐ  
小宇宙と大宇宙を握手させる
って
こういうお祈りなんです

ですから
まず
私は宇宙なんだと
うんと自分をひろがらせて
神様ありがとうございますって
やってればですね
じねんほうにに
すべてのいのちと
とけあって
ゆくんですよ

よございますか
それでは
どうも
ありがとうございました

         昭和62年2月14日 朝



私の教えは
余分なもの
余計なものを
みんなとっちゃって
とにかく
神様の愛につないでゆく
人間の真実のすがた
光そのものの
すがたを
しらせて
すっきりと
神様のいのちにつないでゆく
そういう教えです
理くつじゃあ
ないんです

神様が
我々を
愛して下さっていることも
守護霊さんが
不眠不休で
みなさん
一人一人を
守って下さってることも
みんな
これは事実なんです

五井昌久って人は
この事実を
そのままに
つたえにきた
人なんです





祈って
祈って
祈り抜いて
ゆくと
ただ
朗らかになって
自分の
いのちと
対面することができます
世界平和の祈りは
人間が
朗らかに
なるための
エレベーターなんです

         昭和62年2月14日 朝




祈ってゆく内に
自分がなくなるって
ことがありますが
これは
無我になって
神様と一体になることであって
決して
その人がその人らしさを失った
ということではないんです

よく 
世間では
法悦境っていいますよね
こういう言葉をきくと
何かしら
浮世ばなれした
世界のように
感じちゃう人が
いるんだけれど
そうじゃないんです
たしかに
そのときは
何ともいえない
いい気持ちになりますが
それは
ぱーっと
こう  
我々のいのちを
あたらしくされる
光を
神様からいただいてる
こういうことでしてね

何のために
いただくかっていえば
それぞれの
職場で
学校で
家庭で
生き生きと
はたらくためなんですね
だから
決して
浮世ばなれじゃない
浮世ひっつきなんです

神様と一体になって
ああ
自分のいのちは
こころは
おもいは
自分のすべては
神様から
いただいてるんだな
神様からきてるんだな
神様ありがとうございます
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
っておもうのは
おもえるのは
これはいのちの充実ですよね

第一巻(神のこころ)でもいったけれど
だから
無ってのは
虚無ってことじゃない
いのちが充実して
いのちがよろこんでいる
状態を
指すんです
それで
さあ頑張ろう
ですよ
みんなを
現実生活に返してゆくわけ

私は絶対に
みんなを
神がかりにはしないんです
生活ってものが
ちゃんとやってゆけなきゃね
話にならないもの

けれど
そのままに
神様の言葉が
きける人
受けられる人
こういう人が沢山
でてこないと
これからの地球は
大変なんです
そういう人を一人でも
多くふやしたいわけ
何も
特別なことじゃないんです
みんなが
スッキリと
自分のいのちに
目覚めたら
一人のこらず
こうなるんですよ
そうでしょう

どうぞ一人でも多くの人が
人間の真性に深く目覚めて下さい

世界人類が平和でありますように

         昭和62年2月14日 朝

自分をいじめないで 生きていらっしゃいよ

2012-09-29 09:21:25 | 癒し
ただただ
本当にやさしい人
というのが
あります
そういう人が
いますよね
道を歩いてる
何でもない人の
なかにね
そういう人を
我々は
目ざしているんです
からだ中が
祈りに
なっている人を
目ざしているんです

宗教とか
何だとか
そんなことを
いわなくても
すーっと
そのまま
天地に通じている人ね
そういう人を
みると
私は
心の中で
合掌します




普段使う
言葉を
やさしくしてゆくと
そこに
光が入って
その人自身の
おもいも浄められてゆきます
言葉は
一つ一つが
神様の光を
受けた
働きなのですから
そのことに
気付いてゆくと
自然に
和顔になって
ゆきます




祈って
祈って
祈って
自分を
かがやかせてゆくこと
これが大事です

自分一人のために
祈る祈りではなく
個我を超えた
世界平和の祈りのような
大きな祈りのなかに
入ってゆくと
たましいが
よろこぶのです




寸言といえども
やさしい言葉を
出すように
してゆきましょう
もし
誤って
人を
傷つけたら
ためらわず
おわびをして
自分を
神様のなかにかえし
神様から
光を
いただくことです




私はただしい
私は間違ったことは
していない
神の前に
そういい切れる
人が
何人いるでしょう
神様は
そういう人間を
よく御存知の上で
愛して
ゆるして
ここまで
私どもを
導いて下さって
いるのです

おもいの奥に
かくされた
自らの光が
はやくかがやくように
世界平和の
祈りを与えて下さったのです
さあ
はやいとこ
古い着物を
脱いで
いのちを
充実させて
ゆきましょう




光を
よぼう
世界平和の祈りのなかに
よぼう
自分自身が
光であることに
気付いて
ゆこう

平和の祈りを
となえるとき
私どもの心は
高く高く
神のみふところにいたり
その
きわみのない
愛に
いだかれるのだ

神をよぼう
私どもの
いのちのふるさとである
神の愛の中に
帰ってゆこう
世界人類が平和でありますように




自分をいじめるってことが
一番いけませんね
みんな私が悪い
なんておもって
ちっちゃくなっちゃう
そうじゃないんです
みんな
あんまりにも
人間の
真実の姿
真実の生き方ってものを
知らなさすぎるんです

人間というものは
明るい神のいのち
永遠のいのち
すべてのおもいは
消えてゆく姿なんです
自分が悪いんじゃない
背後が
消して下さるんです
生きやすいように
ちゃんと
道がととのうように
余分なものは
消して下さるんです

かなしいことがあったら
世界平和の祈りを
祈りましょう
祈れない時は
五井先生
すいませんって
私を呼べば
いいんです
全部あなたの
辛いことは
引き受けます

ですから
安心して
私は
明るいんだ明るいんだ
とおもって
自分を
いじめないで
生きていらっしゃいよ
ねっ
いいですか
それでは
どうもありがとうございました

         昭和62年2月13日 夜

神様は人間を愛する方法に 一切の無駄がない

2012-09-28 07:47:00 | 癒し
みこころのままに
と祈る
私達の天命が完うされますように
という祈り言は
正にこの祈りなのです
ただ素直に神様に任せてゆく
ということです

私達はみんな
お任せのいのちなのだから
神様のみこころが
この地上に成ってゆくためには
私達を
どんな風にも使われるんですから
いのちをささげますって
みんな唱えてるでしょ
あれはこういうことですよ

あらわれとして
この身に
どんなことが
起こってきても
神様ありがとうございます
って
いえるようになるための
それを導くための祈り言なんです

イエスがいってますね
ほっぺたを片側なぐられたら
もう片方も差し出せって
あれは
こういうことなんです

神様って方は
一切の無駄がない
人間側からみて
そんな無茶な話とか
何で私だけが
こんな貧乏くじを引くんだろう
とおもってもね
神様って方は
人間を愛する方法ということについて
一切の無駄がないんです
ということは
あらわれの世界で
我々が経験してゆくことは
全部
我々のいのちにとって
魂にとって
必要なことなんだ
ということなんです

人間のいのちというのは
いつもいってるように
この世だけのいのちじゃ
ありませんからね
自分にとって
苦しいことも
辛いことも
耐えがたいことも
起こってきます
しかし
それは
大きな意味での
一人一人のいのちに
対する
運命修正ですよね

向こうがわで
こう
じっと我々をみてましてね
よし
前々生のあれを
こういうかたちで
消そう
というわけ
消えれば
それだけ
楽になってくわけですよね

ところが
肉体の想念に支配されていますと
今の今
おこってきたこと
目の前で
面と向かって人から
やいのやいのいわれること
これが辛くて辛くて
仕方がないわけです
とうてい
業が消えたと
おもえないんですよね

で、そこで、
世界平和の祈りという
自分も他人も
大光明、大円光の中に入れ切る
こういう祈りが神様から
与えられたわけです

世界人類が平和でありますように
って祈ると
今まで
自分自分自分
だったんがね
ぽっと
世界人類のなかに
入っちゃうんですよ
ああ私の世界は
広かったんだ
とこうなる

この祈りは
宇宙の
愛と平和の気を
自然に
肉体にながしこんで
そのまま
光でみたしてゆく
そういう祈りですからね

この祈りを唱えることで
本来の自分の大きさっていうか
人間の深さっていうかね
とにかく
自分のなかで眠っていた
光の粒子が所を得て
本心をよびさましてゆくんです

で、この祈りを
一ぺん
一ぺんよりは二へん
とくりかえしていますと
そのうち
何だか大きな愛に
抱かれているという
気持ちになってきて
それで
あんまり不幸だ不幸だとか
あいつが
あの野郎が
なんておもわなくなってくる

それは
どういうことかといいますと
その人が意識するしないにかかわらず
世界平和の祈りは
すべての業を浄化する祈りですからね
祈ってゆくうちに
不幸が
あいつが
あの野郎が
消えてくんです
気がついたら
きれいにきえて
後かたもなくなっちゃうんです
嘘だとおもったら
みんな
村田さんだとか
そういう人に
きいてごらんなさい
そのとおりだって
いいますから
ねえ村田さん
そうですよね

業ってものは
人間の本来じゃないんです
とらわれや
こだわりや
そういうやっかいなものが
色々とりついて
よろいを着させるけれど
けれどそれが
その人自身じゃないんです
西園寺昌美なら西園寺昌美の
天命ね 
村田正雄なら村田正雄の
天命という風にですね
その人がその人自身であるというところに
突きすすむ
で、突きすすんでゆくと
光ばかりの天命の世界ですよ

真実の
自分自身との出会い、合体ですよね
それがおこなわれてゆく
何も昌美や村田さんだけじゃない
人間みんなそうなんです
みんな
光りかがやく天命ってものを
自分が自分であることのよろこび
大神様から生かされていることについての
よろこびってものを
持ってるわけなんです
それに気付くには
そのかがやきをよろこぶには
どうしたらいいかといえば
私がいつもいっている
消えてゆく姿で世界平和の祈り
これなんです

祈りってのは自分のいのちを
のり出すことでしょう
自分の真実のいのち、姿ってものに
ちゃんと
対面しょうとおもえば
神様の前に
人の前に
はだかになって
無一物になって
はだかで
愛してゆくこと
これしかないんです
宗教は哲学じゃありません
まして祈りはそうです

世界平和の祈りを祈って
神様、あなたの前に
私の生命をささげますって
いうなら不借身命をちかうってことは
これは
なまなかなことじゃないんですよ
そうでしょう
言葉では色々なことがいえます
必要とあらば嘘だって
つける
自分の対面や位置を守るために
みんなきゅうきゅうとして
不自由になっている
それが
今の
肉体界にあらわれている世界です
しかし
神様を信じている私達は
まず
何よりも
このきゅうくつな
おもいの世界から
業の世界から
自分を
とき放ってゆくことが大事なんです

そしてどんな小さな
目立たないことでもいい
ささやかでいいから
愛の行為をしてゆく
これなんですよ
言葉だけが立派で
先生先生って
いわれても
裡をつとめるって
ことがなければ
何にもなりゃしない
かえりみて
今日
一人の人にでも
心をきずつけるようなことを
言ったんなら
その人のところに行って
あやまる
これが信仰者の行為ですよ
私はいつもそうしてきた

私の場合
いい加減にいのちを張ったりなんかしたら
すぐにあの世行きでした
そうでしょう
私は真剣なんだ
今も真剣なんだ
そして
このことを
地球人類のために
メッセージしつづけてるんです
わかりますか
誰のためでもない
人類のために
神が私を使って下さってるんです


自愛他愛っていうことを
いってますよね
教義で
本当に
自愛他愛ってのは
きびしいもんなんです
ただ
神様が
そのはじめから
人間を
極みまで
愛して下さっている事実をおもうと
そのきびしさは
むしろ
ありがたいんですよ

ペテロだって
三度主を拒みましたよね
愛ってものを
あれ程
イエスの近くにいて
身に沁みて
知ってる筈のペテロが
やっぱりイエスを拒んだんです
そこを通らなければ
ペテロは
さながらのペテロにはなれなかったんです
それを
イエスは
誰よりもよく承知していたんです
その時
イエスは
人間としては
やはり寂しかったでしょうよ

そくそくと
その寂しさが
私の胸に迫ってきています

世界人類が平和でありますように
っていう
この祈りが
あまり
簡単にみえて
はなれていった人も
沢山いますからね

そのとき
はなれる
私のこころ
私ってものが
神様ってものが
わからないっていう風に
させられるのが
その人にとっての
修行で
必要なことなんですけどね
だから
安心してるけど
やっぱり
人間の心を持つ身としては
寂しいですよ
正直に
そうおもいますよ

そういう
色々な心というんですか
気持ちといったらいいのか
やり切れなさね
そこを通って
みんな光に
なってゆくんです
神様が
絶対に
人間を
愛して下さったように
辛くても寂しくても
そこの、ああ辛いな
寂しいな
けれど神様
どうぞここを無事に過ぎて
私を朗らかにして下さい
私を朗らかにして
真実の自分のいのちと
対面させて下さいって
いうのが
世界平和の祈りなんです

まちがっちゃいけないんで
いっときますけれど
業ってのはやさしくいえば
とらわれ、こだわりです

ただ
寂しいとか辛いとか
その瞬間
ぐっと人間が
味わう気持ちね
これは大事なんです
それは人間の気持ちなんですから
我々が
神様の分生命だからって
人間を
肉体身をすぐに脱ぐってわけにはまだ
ゆかないんですから
胸にきた
人としての心を
抱くってことは大事です
ただそれを下手に持続させちゃうと
つもらせちゃうと
業になるんです
抱いて
パッとはなすということですよね
これが大事なんです

そのためにも
自分の心をみつめる
座におりてゆく覚悟をつけるって
ことが大事なんです

心を大事にして
世界平和の祈りを唱えて参りましょう

   昭和62年2月13日 午前

我々の本心が よろこぶことは・・・

2012-09-27 09:57:45 | 癒し
人を責めちゃあ
いけません
人を責めてしまうと
折角
今まで積んできたもの
努力してきたものが
また
はじめっから
やり直しになってしまう
おもいというのは
人をさばくおもいというのは
それだけ
つよくて
おそろしいということです

人を責めて
己れ尊しってのが
一番いけないんです
それとゆうずうのきかないの
神様ってのは
寛やかな方なんです
もう愛し抜いて
ゆるしっ放しの
方でしょう
今  
人間だけですよ
枠をはめて
ほっとしてるのは
これじゃあいけません
これじゃあ救われていかないんです

人を責め自分を責めるところからは
何も生まれてはこないんです
愛すること
つつむこと
いたわること
おもいやること
ここから
はじめて
神様の光がゆたかに
入ってくるんです
あるいは
我々を生かしめてる
本心が
よろこぶんです

愛して愛して愛し抜くこと
これが
神様の人間に対する姿勢
であると同時に
人間に
のぞんでおられることでも
あるんです
愛する時
人は光ってゆくのです
愛すれば愛する程
その光は
澄み極まってゆくのであります

          昭和62年2月12日 夜

みんな 手をつないでる

2012-09-26 07:45:59 | 癒し
愛という言葉と
神様という言葉とは
おなじです
愛は
神様からきてるんですから
だから
私たちが
神様神様って
よぶ時は
実は
私は愛します
愛しますって
いってるのと
おなじなんです
そういって
よびかけてるんです

神様
愛をありがとうございます
生かして下さって
ありがとうございます
っていう
感謝の
おもいが
ひびきが
祈り
なんです
            昭和62年2月12日



飾らないことが
大切です
飾りはじめると
自分は
もちろん
相手も
みえなく
なるんです

飾りをなくして
余分なものを
とっちゃって
生命そのままに
その人を
みること
愛すること
そのとき
自分も
一個の
生命になり切って
いること
これが
大切なんです

人間に
上も下も
ありゃしない
教える者

教えられる者

ないんです
ただ
ひたすらに
愛し
祈ること
そして聴いて
自分の生命も
相手の生命も
尊敬すること
そういう風に
心がけることで
みんな
随分
楽になるんです
自分の生命も
朗らかに
なってゆくんです
           昭和62年2月12日 夜



神様
私は
あなたを
愛します
したってます
という心が
私は
若い時から
強い人間でした

完全円満
人間神の子
という
ことは
そのとおりだと
おもいながら
この世の中の
不幸に
うちひしがれる人々を
世の中に
生きてゆくということの
現実の
厳しさを
神様は
どんな風に
考えていらっしゃるんだろう
我々人間は
どう考えれば
いいのだろうと
思案しつづけたんです

勿論
その時も
神様の
愛を
一ぺんだって
うたぐった
ことは
なかった
それで
愛し
したいつづけている
神様に
私は
うまず
たゆまず
祈りつづけたわけ

汝のいのちは貰った
覚悟はよいか
といわれた
ときも
何も
考えなかった
ただ
とっさに
ハイ
という返事が
出たんですね
そのときには
私自身が
すっぽりと
神様のなかに
入ってたんです
愛するとか
したう
とか
いうのを
通り越しちゃって
任せてたんです

私が
こういう
すべての
地球世界の
業を
引き受けて
世界平和の祈りの
もとに
大そうじをする
光明をしらしてゆく
仕事をしに
生まれてくるって
ことは
もう
ずっと
前から
決まってた
ことですけれども
覚悟はよいかって
いわれた時に
一たん
個人個我としての
五井昌久は
きえたんですね
それで
直霊の
本来の
自分と
出会って
まあ
それから
色々
あったわけですけれど
私が
人間の心を
五井昌久の
個性を
持ったまま
こうして
語りつづけてきたって
ことは
これは
大事なことだと
思うんです

人間というのは
本来
そういうものなんだ
ということね
神がかりにも
ならずに
ごく普通に
あたりまえに
くらしていて
それでいながら
人の心が
スーッと
わかる
奥の奥の
天命を
みせられるって
ことですね

実は
人間というのは
一人一人が
ちがうようで
いて
みんな
つながっているんです
たてに
つながってるんじゃない
よこに
つながってるんです

たましいというかね
元々が
みんな
神様
大神様から
分かれてきた
兄弟姉妹なんですから
これは
あたりまえなんだけれど
今みたいに
それぞれの国があって
民族があって
言葉もちがってましょう
そうすると
やっぱり
おんなじだって
なかなか
おもいにくいわけなんですよね
で、
どこで
この
おんなじって
いうのを
むすぶかっていえば
それは
人間だっていうことです
愛すること
愛されることの
大好きな
人間だって
ことです

さっきも
いったように
人間ってのは
神様から分かれてきた
生命ですからね
神様から
いのちを吹きこまれた
人形(ひとがた)
神の似姿なんです
わかります?
前にもいったけれどもね
神様ってのが
どんなかたちをしてるかというと
我々とおんなじすがた
なんです

その神様は
もう
人間を
愛して愛して
愛し抜いてるんですよね
だから
我々が
別に
宗教じゃなくてもですよ
ああ
やっぱり
おなじ人間だなあ
とおもうのは
何ともいえない
人間らしさ
おもいやりの深さ
人間としての
情というか
気持ちというか
心というかね
そういうものを
感じた時ですわね
その
思いやりとか
やさしさとかいうのは
神様の専売特許なんですよね
神様印(じるし)愛のこもった
チョコレート
なんてそのうち出るかも知れないけど
こういうことを
私がいうと
せっかく真剣にきいてるのに
五井先生はすぐ冗談いっちゃう
とおもう人もあるかも知れないけれど
私はいつもまじめです

さて
そこで
この
愛とか
やさしさとかね
ああやっぱり人間と
おもわされる
我々が
感激したり感動したりするってのは
これこそ
人間が
みんな
神様からきた
兄弟だって証拠なんです
みんな
手をつないでる
この世に
この地球上に
他人なんて
一人もいやしない

さあ
こう考えると
楽しくなりますよね
とにかく
愛深くなってゆけます
私はみんなと兄弟なんだ
とおもいながら
お祈りすれば
それだけ
お祈りの光が
ゆきわたるんです

さあ
元気に
明るく
世界平和の祈りを致しましょう

         昭和62年2月12日 夜