わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

神様の器になる

2010-06-30 18:43:16 | 癒し
 神様の器になる、器をみがくということについて

申し上げますと、人間というものの

生かされている本来の目的が、神様の光を、

この肉の身のままに素直に受けてかがやかせる

ということなのであります。

 
 それは、その人が意識するしないにかかわらず、

またすべての境遇によらず、この世の年齢によらず、

すでに一人一人は、神様の愛を、光を、

地上に結ぶ役割を果たしているのであります。また、

果たしつつあるのであります。

 私達の肉体はそれを知らなくても、私達の霊身は、

それを知っているのであります。

 
 そこで、神様の器になるということは、

どういうことかということを、もう少し

くわしく申しますと、それは、神様に

素直になるということであります。

 人間にはさまざまなおもいがある、

このおもいを、想念を、やさしさで

いっぱいにする、光でいっぱいにする

ということであります。

 
 何も、特別に、神様神様とおもわなくていい、

ひたすらに求めるというのと、自然に求めると

いうのとはちがっている。

 神様からきている生命、預けっ放しの、

お任せのいのちなのですから、ずーっと

神様のところへ放っておいても心はむかって

ゆくものなのであります。

 イヤダといっても、守護霊さん守護神さんが

連れてゆくものなのであります。


 さて、神様というのは、何かと申しますと、

それは、無限絶対の愛であります。ですから、

神様から分れてきた分生命、分霊である人間は、

愛を植えられてつくられている。

 愛とやさしさ、そして、この二つのものを

育ててゆくつよさ、これこそが、人間のいのちを

生かしている大元なのであります。


 神様は、人間をやさしくつくった。ですから、

何もその人が、思い悩まなくても、やさしさを持って

人に接する時、そこに、神の愛が、光が、ともにあって、

放射されてゆくのであります。

 神様の器になるということは、ですから、本人が

意識するしないにかかわらず、自らのなかにやさしさを

盛るということが第一歩なのであります。


 ところで、人間は、神様の愛によってつくられた存在で

ありますから、心をしずめ、心をすませて参りますと、

生きているということの不思議、生命の不思議について

思いをめぐらさずにはいられなくなるのである。

 
 どんな人も、生命の親である神に眼をそそぎ、神様という

ふるさとへの旅をはじめて参るのであります。

 それが人間の本来のすがたなのであります。


 私達の世界平和の祈りは

 
 世界人類が平和でありますように

 日本が平和でありますように

 私達の天命が完うされますように

 守護霊様ありがとうございます

 守護神様ありがとうございます

 という、誰にでもわかるやさしい祈り言葉

によって、神の大愛のなかに、すべての人を

抱きとろうという大神様のみこころが結集した

祈りなのであります。

 これまで、地球界に降り立ったすべての

聖者方の祈りがあつめられた、結集した祈り

なのであります。


 特に

 世界人類が平和でありますように

 という第一句は、現在宗教信仰によっている

人もそうでない人も、すべての人の心のなかにある

人類共通の祈り心を呼び覚ます祈り言なのであります。

 この祈り言を思い唱えることによって、一個の

人間としてはそのまま、世界人類という大河の

なかにある自分を経験するのであります。世界人類の

なかにある自分を観じてゆくのであります。

 それは、何かといえば、愛にほかなりません。

 愛と祈りに他ならないのであります。


 こうして、我々は、我々のなかにある何物にも

しばられぬ自由な祈り心を、静かな祈り心を

見出し、神という絶対無限の大愛へと連なって

参るのであります。


 信仰を持っている人は信仰を持ったままで、

この祈りを唱えて参りますとき、その人の

持っている光は、よりつよくやさしくかがやいて

ゆくのであります。


 すべての信仰、すべての祈りは、神への

みちしるべでなければなりませんが、生命の

不思議に思いを到し、世界平和の祈りに触れた人は、

一人のこらず、神の愛にとらえられるのであります。

 守護霊が、守護神が、ぐんぐんと神様の方に、

一人一人を引っぱってゆく。ですから、神というものを

抜きにしては、その人は、この生命を考えられなく

なるのであります。そうして、段々に祈りを深くし、

唱えて参りますと、何よりも、神に素直になることが

大事なのだということがわかって参ります。


 いわゆる運命というものにも、宿命というものにも、

動かされない自分になって参ります。


 我々がしたがうのは、運命ではなく、神なのだ

ということ、神は、善でも悪でもなく、限りない愛

なのだということが理解されてくるのであります。

 どんなことがありましょうと、神は、我々のいのちの

すこやかさを奪う方ではないのであります。しかも、

このいのちは、永遠永生であって、神とともに、宇宙の

けいりんをなしてゆく何百生にもわたる我々への神の

いつくしみであり、ゆるしであることをおもいますとき、

我々にのこされたものは、ただ神への感謝であり、

愛であり、この神に素直ないのちとなって生き徹すという

ことなのであります。


 しかも、我々のいのちは、神によって、守護の神霊に

よって、また、この世にともに生き愛する人々のこころに

よって支えられ、守られているのであります。いのちは

じねんほうに。ただ、神に預け、神に任せ、肉の身の

生死を朗らかにこえていきるいのちとしらされますとき、

我々は、神の器となってゆくのであります。


                       合掌

                         昌久

                        

 



  






何が私達をとらえるのか

2010-06-30 11:54:14 | 癒し
何が

私達を

とらえるのか

富か

智慧か

知識か

ちがう

これはすべて

すぎゆくもの

さらさらと

掌からこぼれおちる

もの

では

何だ

何が私達を

ゆさぶるのか

この生命の

いきづきを

覚えさせるのか




神の愛

絶えることの

ない

永遠の

神の愛

神の

人への愛が

私達を

とらえて

離しはしない

すべての

過ぎゆきも

すべての

あやまちも

神の愛のなかにあって

新しくされるのだ

神は愛

神はゆるし


私達の生命は

ゆるされた

生命なのだ

いのちは

ゆるしなのだ

いのちは

愛なのだ

神の

御手に抱きとられて

私達は



私達の

生命のいきづきの

源を知る


愛とゆるしにみちた

いのちは

光ほがらかに

辺りを

照らして

やむことがない


私達は

私達のうちに

こうした

光の

いのちを持って

いるのだ

光のいのちが

私達を

とらえるのだ

光が

私達を

とらえて

やまないのだ





宇宙人類の悲願

2010-06-29 13:43:41 | 癒し
宇宙に

生きる

すべての

人類の

悲願が

私には

痛い程

わかるのだ

愛と

光に

みちた

世界

神のみこころを

うつしゆく天地の完成

彼らは

あなた方に

呼びかける

世界平和の祈りのもとに

一つのいのちになろうと


君よ

人が

あたらしく

される時がきた

宇宙を

愛と光で

みたすために

我々が

心をささげて

一つのいのちとなり

祈る時が

きたのだ

何よりも大事なことは

2010-06-28 11:45:26 | 癒し
 何よりも大事なことは

愛するという

ことであります。

自分愛し、人を愛するという

ことであります。


 この愛のなかに

神のすがたがあり

神の本質があるので

あります。

私どもは、神から分けられてきた

いのちでありまして

神の光、ながれ(いのちのながれ)を

受けて生きているのでありますが

そのながれの大元は

この愛であり、愛するという

行為であります。


 ところで

愛と申しますと

先ず、うかびますのは

父母の子どもに対する

愛でありましょう。

私なども

母の深い愛念のなか

こうして生きて参ることが

できたのであります。

全く

父母の子に対する愛というものは

理くつではありません。

それは

見守り、育て、抱く

無償の愛であります。


 ところが

近頃の世の中をみておりますと

しばしば、この父母の愛というものが

伝わりにくくなっている。

それだけ、せち辛くなっている

ということもありましょう。

けれども実は

父親なり母親である人達が

子どもにそそぐ愛の

そのそそぎ方といったものを

勘ちがいしていることが

多いのであります。

しばしば、盲目の愛に

なってしまっている。


 盲目の愛と、自然

無償の愛というものを

とりちがえているのであります。

勿論、親の愛というものは

りくつではありません。

りくつといったものを

超えた愛である

流露されてくる愛

であります。


 けれども

申しましたように

親の愛というものは

そういう

自然に流露されてくる

愛ばかりでは

親の愛になって参りません。


 子どもを

見守り、育て、抱くという

この三つの相(すがた)が

自然な愛情のなかにあってこそ

親の愛なのであります。


 子どもの何をみるのか

育てるのか、抱くのか

それは、その子が

どんな性質の子であるのか

ようくみて

叱るべき時には叱り

ほめるべき時にはほめてやる

そうして

助走してやる

ということなのであります。

そうして

私はお前のことを

愛している

だから心配するなという

心でもって

いつも子どもをみてやる

ということなのであります。

これが

抱くということなのであります。

 
 抱き放しの親がいたり

育てることばかりに

夢中になっている

親がいたりして

私のところになんかにも

守護霊守護神が

五井先生お手上げですと

相談にきたりしますけれども

ここのバランスが

とれていないことが

多いんです。


 愛するということは

盲目ではありません。

盲目ではつとまって

まいりません。


 見守り、育て、抱く

この三つの相(すがた)が

溶け合った愛こそ

神様の愛

なのであります。

私どもは

この神様の愛によって

はぐくまれてきた

子どもなのであります。


 私は神様じゃない。

だから、そんな上等な愛を

子どもにもまわりにも

抱けない、なんて

いう人があったら

それは、つねに

私の申します

卑下高慢なので

あります。


 なぜなら

私どもは

神から分れてきた

いのちなのですから

この神の愛は

ずっとずっと

天命を果たしおえるまで

私どものなかに

ふりそそがれているもの

なのでありますから。

私どもが愛するのではない。

先ず、神が

私どもを愛して下さって

いるのであります。

この身の何もかもを

一度、神にお返しして

任せて、そうして祈りつつ

わが子への

また、まわりの人々への

愛とやさしさを

たくわえてゆくべき

なのであります。


 もう一度申します。

私どもは

無一物なのです。

凡夫なのです。

その凡夫(肉体我)である

私たちは

大元の神の愛へと

回帰してゆく時

いのちあらたに

生きてゆくことが

できるのであります。


 世界人類が平和でありますように


              合掌

               昌久
           
             












 


神からわけられた光のすえ

2010-06-27 14:19:37 | 癒し
人は

 神からわけられた

光の

すえであることを

 祈りのうちにしる

天命は

 神の

かぎりない

 愛のうちに

 つつまれ

一人びとりは

 いつくしみの

 まなざしに

 とらえられて

世界平和の祈り

 のなかで

みずからの

 やすらぎどころ

 にかえってゆく

神よ

世界平和の祈りに込められた

あなたの愛を

あかしする

 ひとりとして

我等の器を

 用い給え