(前日からの続き)
私は、天の私と地の私と合体した時にと
よくいいましたけれど、本当の自分自身
というものを見たら、これはもう安心する
より他しようがないんです。
輝いてるから。
皆輝いてますよ。
輝いてますよといって皆にそれを見せて
あげたいけれども、まだそこまで時が来て
なかったから。
カラッポになってニコニコしてる五井先生
というものを通して、皆ここへゆけるんだな、
ここを通して神様のみ許に行けるんだな、そばに
行けるんだな、一緒なんだなということを
勉強してほしい。
そう思いましたよね。
みんな私が引き連れて引き受けて、自信が
なかったら出来ませんよ。
神の子であるというそういう自信がなきゃあ、
そんなことは喋べれない。
五井先生そんなこと言ったってと思う。
そういう想いもいっぱい受ける。
だけども、私はまちがいのない神様の愛という
ものを知ってしまってるから、その中に
いるから、それは皆が行ける場所だから、
だから、自信をもって、皆の中に神様の流れが
入ってるんだよ、皆一人一人が平等に
神様の子どもなんだよ、あなた方は光なんだよ、
ということをずっと言ってきたし、今も
言ってるし、これからも言っていくんですけどね。
でも、私がというのを消したら気持ちが
いいんですよ。
もう大安心ですねえ。
神様しか残らないでしょ。
もう委ねちゃったら、何と言ったらいいかしら、
非常に生き生きしてくるのね。
自分が疲れていても、別の体力がふっと
ちがう所から出てくるんです。
私がお浄めしますでしょ、してましたね。
ああいうお浄めでも、我とか業とかいっぱい
来るんだから、肉体人間だったらとっくに私は
死んでますよね。
あの時に私はそこにいないんですよ。
あの時神様の心の中にすっと入っちゃってるから。
だから、私がやってるお浄めじゃないでしょ。
神様の神界の流れの方から流れてくる光ですよね。
そりゃあ肉体人間ですからね、叩きながら
痛みが来ますよね、想いも来ます、寄って
来ます。
でもそれを上まわって倍して、神様が私たちを愛して
下さるということを思ってるから恐くも何ともない。
痛みなんて何でもないですよ。
痛みというのは、私は皆さんからのプレゼントだと
思ってるね。
だからね、晩年にいろいろ痛んで痛んで、自分の
奥さんだけには本当に、痛いよ痛いよと言いましたけどさ、
まあ声あげなきゃしょうがなかったけども、でも痛いから
恨むということじゃないですね。
それよりもっと深いところで、私が神様に愛して
いただいてる。
で、皆さんも神様に愛してもらってる同じ生命だ
ということが分かってるから、恨みっこないですよ。
痛みなんてものはね、受けてしまってそれを浄めて
ゆけば、上がっていってね、光になっちゃうんです。
業というものもそうなんですね。
ただ、人間というのは、肉体というものといっしょに
暮らしてますからね。
狭い箱なんだけども肉体というのは。
だけど、肉体もって生きる以上は、やっぱりそれを大事に
してやらなきゃいけないというところもあるでしょ。
可愛がってやらなきゃいけないというとこありますよね。
だから、養いながら、また、そこに把われないというのもね、
非常に難しいことなんです。
私が言いましたでしょ、いいことにも悪いことにも
把われるなというのはね、それは真理なんだけど、そういう
気持ちで祈ってゆけば、私がという気持ちを向こうに
受けとってもらって、神様に受けとってもらって、そして、
ただただ神様の器になるべき光だけが入ってくる。
どういう働きが自分にできるんだろうかとか、私は
これだけしかできないとか、いろいろ自分を限定してやって
いくと、もう本当にほんの小っちゃな働きしかできないけども、
そうではなく、神様に預けてしまって何でもやらせて
いただきますと言うと、あの人がこんなことができる
かなあというようなことができますよ。
それがね神様の不思議なところ。
神様の奇跡というのは本当はそういうことですねえ。
神様の奇跡というものを、皆いやしというものに
求めるけれども、本当は、人間の中に限りのない神様の
エネルギーがあって、そのエネルギーに動かされて、喜んで、
あるいは無意識に動いていく時に、我々の生命という
ものは喜んで、深くなって、大きくなって、いつの間にか
すごいところにいたとか、いつの間にかすごい事をやらせて
いただいたとか、それこそ奇跡でしょうね。
(つづく)
私は、天の私と地の私と合体した時にと
よくいいましたけれど、本当の自分自身
というものを見たら、これはもう安心する
より他しようがないんです。
輝いてるから。
皆輝いてますよ。
輝いてますよといって皆にそれを見せて
あげたいけれども、まだそこまで時が来て
なかったから。
カラッポになってニコニコしてる五井先生
というものを通して、皆ここへゆけるんだな、
ここを通して神様のみ許に行けるんだな、そばに
行けるんだな、一緒なんだなということを
勉強してほしい。
そう思いましたよね。
みんな私が引き連れて引き受けて、自信が
なかったら出来ませんよ。
神の子であるというそういう自信がなきゃあ、
そんなことは喋べれない。
五井先生そんなこと言ったってと思う。
そういう想いもいっぱい受ける。
だけども、私はまちがいのない神様の愛という
ものを知ってしまってるから、その中に
いるから、それは皆が行ける場所だから、
だから、自信をもって、皆の中に神様の流れが
入ってるんだよ、皆一人一人が平等に
神様の子どもなんだよ、あなた方は光なんだよ、
ということをずっと言ってきたし、今も
言ってるし、これからも言っていくんですけどね。
でも、私がというのを消したら気持ちが
いいんですよ。
もう大安心ですねえ。
神様しか残らないでしょ。
もう委ねちゃったら、何と言ったらいいかしら、
非常に生き生きしてくるのね。
自分が疲れていても、別の体力がふっと
ちがう所から出てくるんです。
私がお浄めしますでしょ、してましたね。
ああいうお浄めでも、我とか業とかいっぱい
来るんだから、肉体人間だったらとっくに私は
死んでますよね。
あの時に私はそこにいないんですよ。
あの時神様の心の中にすっと入っちゃってるから。
だから、私がやってるお浄めじゃないでしょ。
神様の神界の流れの方から流れてくる光ですよね。
そりゃあ肉体人間ですからね、叩きながら
痛みが来ますよね、想いも来ます、寄って
来ます。
でもそれを上まわって倍して、神様が私たちを愛して
下さるということを思ってるから恐くも何ともない。
痛みなんて何でもないですよ。
痛みというのは、私は皆さんからのプレゼントだと
思ってるね。
だからね、晩年にいろいろ痛んで痛んで、自分の
奥さんだけには本当に、痛いよ痛いよと言いましたけどさ、
まあ声あげなきゃしょうがなかったけども、でも痛いから
恨むということじゃないですね。
それよりもっと深いところで、私が神様に愛して
いただいてる。
で、皆さんも神様に愛してもらってる同じ生命だ
ということが分かってるから、恨みっこないですよ。
痛みなんてものはね、受けてしまってそれを浄めて
ゆけば、上がっていってね、光になっちゃうんです。
業というものもそうなんですね。
ただ、人間というのは、肉体というものといっしょに
暮らしてますからね。
狭い箱なんだけども肉体というのは。
だけど、肉体もって生きる以上は、やっぱりそれを大事に
してやらなきゃいけないというところもあるでしょ。
可愛がってやらなきゃいけないというとこありますよね。
だから、養いながら、また、そこに把われないというのもね、
非常に難しいことなんです。
私が言いましたでしょ、いいことにも悪いことにも
把われるなというのはね、それは真理なんだけど、そういう
気持ちで祈ってゆけば、私がという気持ちを向こうに
受けとってもらって、神様に受けとってもらって、そして、
ただただ神様の器になるべき光だけが入ってくる。
どういう働きが自分にできるんだろうかとか、私は
これだけしかできないとか、いろいろ自分を限定してやって
いくと、もう本当にほんの小っちゃな働きしかできないけども、
そうではなく、神様に預けてしまって何でもやらせて
いただきますと言うと、あの人がこんなことができる
かなあというようなことができますよ。
それがね神様の不思議なところ。
神様の奇跡というのは本当はそういうことですねえ。
神様の奇跡というものを、皆いやしというものに
求めるけれども、本当は、人間の中に限りのない神様の
エネルギーがあって、そのエネルギーに動かされて、喜んで、
あるいは無意識に動いていく時に、我々の生命という
ものは喜んで、深くなって、大きくなって、いつの間にか
すごいところにいたとか、いつの間にかすごい事をやらせて
いただいたとか、それこそ奇跡でしょうね。
(つづく)