わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

短 信(3)

2013-06-30 09:10:39 | 癒し
 御手紙拝見致しました。

 先ず端的に申し上げますが、宗教は学問
ではありません。といって、あなたの
おっしゃるような情ばかり、こころ
ばかりの弱々しいものでもありません。

 宗教とは、本来、人の心をゆたかにし
生き生きとさせるものであります。

 それは深い本来心をかかえ込んで
生き生きとさせてゆくのです。宗教という
言葉を抜いていいますと、真実に
やさしさを発揮する人を育ててゆくのです。
 なぜなら、それが人間の真性だからです。
 このやさしさを発揮させるために
指導者は、そして宗教によってくる人々は、
ありのままの自分を、そのままに
投げ出す時に味わう平和を、祈りのなかに
見出すのです。

 決してたなからボタもちではないのです。
 人々の愛をよりつよくたくましく
するために神様はあらゆる手段をお使いに
なるのです。

 そして、このきたえは、人間の真性が
光だということをよく御存知の神様
だからこそおできになるのです。

 私どもは、この神様の前にいのちを
投げ出していのちをやさしくやわらかにして
ゆくのであります。
               昌 久

短 信(2)

2013-06-29 10:11:41 | 癒し
 お手紙拝見致しました。次から次へと
御病気にかかられて、気も弱って
いらっしゃることでしょう。けれど、人間は
肉体のいのちがすべてではありません。
 むしろ、肉体のいのちをやしなって
いるのは、霊であります。神様のいのち
であります。肉体はこういうことを思うと
本当に不自由な場ですね。
 自由自在身、これが、分生命(わけ
いのち)分霊(わけみたま)である人間の
本来なのです。
 ですから肉体だけのいのちではない
ということなのです。肉体だけの
いのちなら、病気をしつづけて、ずっと
あなたのように病院ですごしている人
にとって、いのちとは、何とつまらないもの
だということになる筈です。
 そうではないのです。すこやかな人も
病んでいる人も、神様は等しくそのいのちを
用いられる、各々の光を用いられる
のであります。
 ですから、どうぞそのままで心に
世界平和の祈りをうかべ、日々、あなたの
いのちをかがやかせて下さい。
               昌 久

短 信(1)

2013-06-28 09:35:21 | 癒し
 久しくごぶさたしたが元気でやっているかい。

 色々おもいなやむこともあるようだが、
神様がすべてみていて下さるのだ。祈りを
忘れないことだよ。

 実際、祈りがすべてなのだ。祈りの他には
何もないといってもいいぐらいなのだ。

 けれども以前よりは短気が治ってきたと
嬉しく思っている。

 五井先生だって毎日色々な人に
接したからね、いきおい気が長くなったよ。
 いらいらしなくなったというより、自分の
本体をみちゃったからね、光りかがやく
人間の本体をみたら、とたんにはらを
立てるのが馬鹿馬鹿しくなったのだよ。

 だから感情の波がゆれ動いているように
みえても、私は決してゆるがなかった。

 私の守護霊守護神がしっかりと神に土台を
すえて下さったのだ。

 神からすべては流れている。僕らは
生かされている生命(いのち)なのだ。

 生きている生命とつい信仰をしているんでも
おもいがちだけれど、そうじゃない、徹底して
生かされたいのちなのだ。

 生かされているとおもうと、何もかもが
ありがたくなってくる。自分に対していやな
ことをいう相手でさえもありがたく
なるものだ。なぜなら、自分というもの、
我というものがなくなっているんだから、
ね、そうだろう。私なんかありがたいこと
だらけだよ、神界にいる今も情けなくなったり
思わず怒鳴りたくなるようなことにも
出会うけれど、それは、いつもいうように、
私が怒るんじゃない、みんなの守護霊、
守護神をとおしてのその人への業が五井昌久
という場をかりるだけだ。

 私はみんなの我を預かって、そしてそれを光
にして返しているんだよ。嫌なこと、辛いこと
そういうみんなの思いが、つぶてのように
私のところに飛んでくる。

 よく目にとまらぬ早技というけれどそんな
ものじゃない。でも、奥の奥のいのちが、光
そのものだということを知っているから、
おそれる気持ちなんかないし、いくらでも
いらっしゃい、みんな引き受けましょう
ということになったんだ。これは神様と
私との約束事だよ。

 業想念のつよさを私はよく知っている。
 そして光がそれに倍してすべてを明るく
かえてゆくことを、私は一番知っているんだ。

 だから安心している。未来永劫安心
しているよ。

 君、人間というのは光だよ。それ以外の
何物でもない。ただ、だからといって人間の
心を粗末にしていいなどとはいわないよ。

 まだまだ、色々な気持ちも味わい、ゆれ動く
ことも多いだろうが、いつも、私が君の側に
いることを忘れないで、日々世界平和の祈りを
唱え精進してくれ給え。
                 昌 久

うちのおばちゃんへ

2013-06-27 10:16:59 | 癒し
 僕が神界に帰ってから、よく心をくだいて
昌美のため、会のために尽くしてくれて
ありがとう。
 おばちゃんの支えがなければ、みんな
ここまでやってこられなかったろう。
 僕が今、自在身を得て、君のことを想うと
つくづく君の思慮の深さと明るさに救われ
支えられた一生だったと思う。

 僕は君に出合って、君によって真実の宗教家
としての自分を育てられたと思う。そして
君と出合ったことを、本当にこれは神の愛念
だったと深く識る僕なのだ。
 ことに、最後の十年余り、僕は君にだけ、
この身におそってくる痛みや業想念の
ものすごさを訴えた。この地上で、唯一僕が、
痛い寂しいということの許されるのが
君だった。
 このことを僕はどれだけ感謝したか、又、
今もしているかわかるだろうか。

 人間というものは、どこか一カ所に風穴を
持っていなければ、どんな聖人でも身が持つ
ものではない。まして僕は、五井昌久という
個性をそのまま肉体にのこした宗教者だった。
 僕のいたみ、僕の苦しみは、誰にもわかりは
しない。ただ地上でそれを知っているのは
君だけだ。そうして、その君が僕の妻であった
ことを、僕は神慮だったとおもう。
 しみじみと今、僕は君をおもっている。
 自在身となった僕は解き放たれた自在身
として、一層君のもとに光をおくっている自分
に気付くのだよ。

 どうか元気でいておくれ。風邪などひかない
ようにして、自分の心を大事に生きておくれ。
 僕が地上にいる間、君は君の心を僕に
ささげてくれた。今、光となった僕が、君を
しっかりと受けとめる番だ。

又かくよ。祈っている。
                昌 久

親しき人々への短信 序

2013-06-26 09:55:53 | 癒し
  (親しい諸兄姉への書簡)

       序
              五井 昌久
 ここには、私がかきおくりたいと現在
おもっている親しい諸兄姉への書簡を
あつめてみた。

 プライベートなものも多々ある。けれども
第一通目のおばちゃん(妻美登里)への
書簡をのぞいては個人名を記していない。

 それは、その人への私の心の短信である
という事実と、これを読む人々が、少しでも
勇気づけられることを目ざしているから
なのである。

 大生命の源から分かれた朗らかな光
である人類に対する短信であるといっても
いいのである。
           昭和62年2月10日