わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

私に与えられた仕事は…

2015-04-25 08:46:30 | 癒し
神は
正義を
ふりかざす方ではありません
神の名のもとに
たたかいをすすめた
なんていう
国があるけれど
あれは
人間の我というものです

神様の世界に
あらそいなんぞ
ありはしない
なぜって
神様は
大調和も
大調和
光そのものの
方なんだから
あらそうのは
肉をまとった
人間の
ならいがそうさせるのです
人間そのものがさせるんじゃない
人間は
自在な神のいのちなんだから
そんなことには
なりっこないのです
天地が
ひっくり返ったって
なりゃあしません

だから
肉にまとわれた
人間のおもいを
修正しつづけて
光にすること
それが私に
与えられた仕事なのです

人はすべて
光のいのちを
もっている
光のいのちから
生まれてきたのだ
ということを
知らせて
人間の心に
よろこびと
永生のよろこびを
味わわせて
みんなを
神の光のみちへと
先導してゆくのが
私の役目

世界人類が
平和でありますように
という
祈り言は
神の光への
すべての人々の
水先案内人
神の愛という
燈台に
てらされた
この案内人は
道にまようことはない
平和の祈りという
案内人の頭は

みんな
私の後から
安心して
ついてくれば
それでいいのです

どんな
悩みや 
苦しみも
この祈りの
なかに
とけ込ませれば
光にかわって
しまう
この事実を
一番よく御存知なのは
神様

どんなに
かなしいことが
おころうと
祈りの光は
かなしみの雲を 
吹き払って
あなた方を
神の愛の
もとに
はこぶのです
私は
その
船頭
平和の祈りという
船にのった
私達は旅人

神と人間の光の交流がなされて 光と愛の世界を完成させてゆく

2015-04-24 07:57:10 | 癒し
いのち
というものの
朗らかさは
神様の朗らかさ
神様は
子どものように
無邪気な心と
純な魂
風のように
自由な本心を
てらす光をもって
私たちの
いのちのなかに
住んでいらっしゃるのです
私たちは
みんな
その子どもたちなのです

神様の
血をわけた
子どもたち 
なのですよ
血をわけた
親子と
みんないう
けれど
正真正銘
私たちは
神様の
血がながれているのです

その血というのは
何だといえば
それは
思いやりであり
やさしさです

神様の
人間に対する思いが
やさしさが
どれほど深く 
真実にみちた
ものであるか
それは
神様を知れば知る程
わかってきます

全くつきることのない
愛で
私たちをつつんで
下さっている
それが
神様です
永遠の
親の愛ですよ
しかも
その愛は
五十年
六十年といった
ちっぽけなものじゃない
何万年
何億年
いや
もっともっと
かぎりなく
つづいてゆくのです
 
こんなに深い
こんなにたしかな愛は
世界中どこを
さがしてもないですよ
しかも
我々が
肉体を脱いで
むこうへ
行けば
行ったで
益々の
その
愛の証を
我々は
この身にもこころにも
いや
その世界いっぱい
我々が
住む場所
住む場所
霊体が神体が
余計なものを
そぎおとして
光のひとすじとなり
かみのみこころの
一部となるまで
なってもなお
いとし子への
この
親の愛は
ずっとつづいて
ゆくのです

そりゃあ
親ですから
たまには 
きびしく
叱ることもあるでしょう
たたくことだって
あるかも知れない
けれど
いつもいつも
この親の愛は
人間を
さながらのいのちに
かえし
ほがらかな
光そのものの
いのちへと
みちびくために
叱り
たたくのであって
それ以外ではないのです
なぜなら
私たち
一人一人のなかに
神様から
さずけられた
それぞれが
果たすべき
天命が
大光明となって
かがやき
わたって
いるからです

一人の
天命を 
果たさせ
さらに
何十人
何百人
何千人
この地球上に
生きる
すべての人間の天命と
宇宙人類の天命とを
つないで
無限のいのちの光を
大神様の
もとに
かがやかせる
丁度
この肉体界で
親と子が
情をかよわせ
心をかよわせるように

それよりも
さらにつよく
深い絆で
神(親)と
人間(子)の
二人ながらの
光の
交流が
ずっと
奥の奥まで
なされて
十字交叉の
光と愛の世界を
完成させてゆくのです

我々
一人一人の存在は
そのための
いのちなのです
誰が
この事実に気付き
誰が気付かない
というんじゃ
ない
肉体を
もちながら
気付いている人も
いない人も
みんなのいのちを
そのために
用いられるのです
それと
気付かせずに
みんなを
いのちの本道へと
みちびいてゆく
守護の神霊は
この永遠の
いのちの親である 
神の愛を
身にしみこませた
みつかいなのです

我々は
生まれながらに
いや
肉体界に
生まれる
ずっと以前から
この永遠の
神の愛に
育てられ
守られて
今ここにこうして
空気と霊気とを
呼吸して生きて
いるのです

空気は
肉体をやしなう
いのちを
霊気は
我々の
霊体から
ずっと奥の
からだにまで
神の愛を
うけて
生かされている
よろこびを
与えつづけて
いるのです

いかされる
よろこび
これこそ
神から生まれた 
神の血を
わけられ
神の愛を受けて
ここに 
生きている
生きている
我々のいのちの
みなもとです

すべて
神様に目をむけ
こころを向ける者は
このいかされるよろこびによって
生きています
それは
大神様から
たまわったいのちに
畏れをいだきながら
よろこびつつ生きる
ということであり
そのよろこびも
心の奥底から
おのずと
湧いてくるものなのです
なぜなら
人間は
神の愛によって
おのずと生まれしめられた
さながらの
いのちだからです
じねんほうにの存在なのです
義務で
存在してるんじゃない
神様と
いのちを
高らかに
うたい上げ
うたい合う
そういう
存在なのです

親と子なのですもの
血のつながりが
あるのですもの
遠慮なんて
ありゃしない
そうでしょ
自然な
自然な間柄
自然な
自然なことなんです
いのちということは

言葉を
かえるなら
いのちというのは
すなおということ
単純というんじゃありませんよ
純ではあっても
単純じゃない
おのずと
よろこぶという
いのちの
相(すがた)の
なかには
すべてを
きよめ
濾過しつくす
きよらかな
神様の前に
まっすぐな
さがが
一本
徹っているのです
この一本の性を
古代の
おおらかな心の人々は
光の柱
とみたのです
それは
はなれて
光るんじゃない
自分の
からだのなかから
おのずと
光がみちあふれて
天の私(自分自身)へと
通じるのです

天地の自分自身
人間の相が
合体した瞬間を
古代には
ごく
あたりまえの
純な
人々が
目にしたのです
自分にも人にも
かがやき
天と地とをつなぐ
光の柱
その柱一本の 
光の橋を
かけて下さっているのが
大神様の
愛であることを
古代の人々は
一人のこらず
知っていたのです

古代の人々が
神様に近かった
というより
神様のことを
本当に
自分の親だと感じ切って
くらしていたのです
丁度
現代の人間が
空気を吸うことを
当然だと思うように

それ以上に
神と人間とは
親しい親しい
間柄だったのです

さながらのいのち
ほがらかな
神の光に
みたされた
人々の心は
大きく広く
寛やかで
まどいが
いつもありました 


私をはじめとする
救世の大光明霊団が
目ざしているのは
この広く大きく
また
寛やかな
人間のこころへと
現代に生きる
すべての人を
かえすことなのです
それも
むりやりに
かえそうというんじゃ
ありません
世界人類が平和でありますようにと
いう
すべての人の心が
一つになり
ほんとうに
自由になる
祈りを
とおして
かって
人々が
日常茶飯に
みていた
天と地をつなぐ
光の柱を
顕現させるのです

この眼で
肉体の眼で
みえるみえないは
問題じゃありません
そうじゃない
肉体という
不自由なかせにしばられた
人間の真に自由な真性を
肉体をもたせたまま
奥の奥をよろこばせる
そうして
いつか
この肉の身のままに
生かされているよろこびを知る
それこそが
自由を得るということなのです

今の世界
肉体を持った人間を
否定するんじゃない
その肉体人間を
生かしている
真実の神の愛を知らしめ
心によびおこしてゆくのです
それが
世界平和の祈りの目ざす
平和と愛と大調和の目的です
いのりの光の
すすむ
神へのみちです

私たちは
光のみちを歩く
旅人なのです
そのみちすじには
いくつもの
私たちをきたえる
親の愛ゆえのつまづきが
用意されているかも知れない
けれども
神が絶対の愛であり
いつくしみ深き方であることを
知っている
私は心の底から
神は愛であることを
つたえつづけて
やまないのです

神は愛
人はそのいとし子
永遠の神の
いとし子なのです
      昭和62年1月30日

光一元の世界へ

2015-04-23 05:53:13 | 癒し
     〇
光にみちた世界は
何も神殿や
社ばかりではないのです
もっといえば
いたる所に
神様の光は
みちているのです

自分のような人間は
まだまだ
なんて
思うのが
間違いの元
今は
そんな上品な遠慮が
通る時じゃありません

みんな
神様の分霊(わけみたま) 
分生命(わけいのち)という
教義は
なぐさめでも
おかざりでも
ありません

みんなが
明るい
神のいのちに
目覚めて
その目覚めを
深くすればするほど
光は増し加わり
強められていくのです
なぜなら
人間は
神様の
光を受けて
生まれた存在なのだから
元々が
明るいんですから

ただ
あんまり
明るすぎて
こんなに 
自分は明るいのかしらと
思わず
あたりをみまわしているのが
今の状況です

世界人類が
平和でありますように
という
祈りを
唱えながらでも
これでいいのかしら
私は明るいのかしら
本当に
明るいのかしらと
思っちゃう
こっちからみてると
もうどうしようもないなあと
思うほどだし
笑ってしまうけれど
みんな明るいんです
五井先生が
保障します

私には
何がみえているかと
いうと
みなさんの
肉体の奥の
奥の奥の
光りかがやいている
さながらの
生命(いのち)がみえてるんです

くらいくらい
想念や
業といった
幽界の世界じゃない
幽・霊・神界を
突き抜けて
どこまでも
明るい
さながらの
ほがらかな
生命が
みなさん
一人一人の
天命が
みえているんです
だから
五井先生
病気です
子どもが死にそうです
家の中が
引っくり返って
いますと
泣きながら
きてもね
そこで感情を
動かされないんじゃない
十分
みんな
大変だと
思うし
かわいそうだと
私の個性
神様が
守護の神霊が
のこしてくれた
人間
五井昌久の心は
おもうけれど
本心本体の
ずっと
神界に
つながって
いる
私自身は
奥の奥の
みんなの
天命を
一瞬に
して
みているし

みせられるんです

いのちというもの
いのちを
支えている
人間の天命
神様から
与えられた
天命というものは
ずっとずっと
宇宙神の
みこころの
大奥の
奥底にまで
つらなっている
ものなのです
それを
私はみているんです
だから
この世の中での
或る
一人の個人を
いやす
かしわ手を
打っているようでいて
実は
その人の
何十生
何百生
何千生後の
みちすじを
ばーっとみて
それで
その道筋は
誤りなく
保つことができるように
守護の神霊が
その人の
魂を
みちびきやすいように
とりあえず

とりのぞいておいた方がいいものを
のぞくわけです
けれども
のぞくといったって
それがその人の
願い通りのものを
とりのぞくとは
かぎらないんです

あくまでも
この世も
あの世もなく
ひとつづきに
ずーっと
つづいてゆく
いのちというもの
その人のその人らしさと
いうものが
真実に発揮できるように
そのために 
のぞくわけなんで
今の今
とりのぞいてほしいと
思うものと
神様側で
とりのぞくものとは
ちがうんです

しかし
それじゃあ
人間の現在の苦しみを
かえりみないと
いうことになって
神様というのは
何て不公平だというと
それは
やっぱり
ちがうんです
どうちがうかと
いいますとね
そこに祈りが
与えられている
これで
不公平じゃないんです

いつも
私が申しますように
祈りというのは
光のはしごなんです
世界人類が平和でありますように
という
祈りのエレベーターにのれば
そのまま
辛いまま
悲しいまま
肉体がいくら
辛がっていても
かなしがっていても
そのまま
光にみちる 
そういう
光のエレベーターである祈りを
私は
神様との約束事で
いただいたんです
これは
私達みんなの
人類すべての
祈りです

誰をも痛めず
誰をも傷つけない
自己も他己も
自分の心も
他人の心も
本心の奥の奥まで
てらして
そのままに
光にみちさせ
その人の肉体が
意識していようが
いまいが
光の世界に
つなげてゆく
祈りなんです

主の祈りも
南無阿弥陀仏も
聖者といわれる
人々が
説いた
祈りには
みなこの
力がこもっています
だから
どこから入っても
いいんですけれども
しかし
私が
神様から
いただいた
世界平和の祈りは 
この力の
源みたいな祈りなんです

主の祈りも
南無阿弥陀仏も
みんな
救世の
大光明が
かがやきわたっているのですが
世界平和の祈りは
さらに
救世の大光明の
本体そのものから
光を 
放射される
そういう
光の
本尊みたいな
祈りなんです

だから
この祈りを
してゆく内に
知らず知らずの
間に
みんなの心が
平和になり
平安に
なってくる
肉体ばかりではなく
霊体
神体まで
光がみちてゆくのです
そういうすごい力を
持った
祈りというものを
神様が
人間に
与えて下さっているのです
だから
何にも
心配することはないのです

もっというと
みんな
厚かましく
五井先生に
荷物を
預けなきゃあ
みんな
遠慮して
こんなことを
五井先生に
頼んじゃわるい
こんな泣きごとを
ならべては
申しわけないと
思っちゃう
何が申しわけないんですか
預けて
任せて
スッキリした
いのちに
ならない方が
よっぽど
神様に
申しわけないんですよ

神様の前に
はだかになる
はだかの心で
祈るというのは
神様に
恥をさらす
ことじゃありません
人間の
おもいでは
はずかしいとか
何とか
あっても
そういう
色々なものが
まざっているのが
肉体人間の
おもいであり
おもいぐせなんですから
だから
それを
自分一人で
解決しようなんて
思うと
とんでもなくくるしいんです

そのまま一度
すっきりと
神様に返してしまう
返してしまって
もう一度
いのちの
明るい
朗らかな
光をいただく
自分の中に
かがやいている天命に
気付いてゆく
天命の存在に
気付いてゆく
それが
日々の新生ということであり
いただきなおす
生生ということなのです
そのことに
気付けば
おのずから
生命は
光に
みちるのです

あなた方の
生まれる以前から
守護の神霊は
あなた方の
いのちが
光にみちたもので
あることを
知らせるために
あらゆる手段を
使ってきて
そうして 
祈りの座に
あなた方を
みちびいてきたのです

この
守護霊
守護神
そうして
神様の愛を
おもうとき
私達は自然に
暗い所から
明るい所へ
すなわち
闇から光へと
場所を移され
いのちが
本来
そのかがやきを
放っている世界
本心本体
真実の
人間が
活きづいている
自由の
天地へと
永遠の住み家に
案内され
移されるのです

人間のいのちが
どんなに
自由で明るく
無邪気な
神への愛と
人への愛に
みちたものであるか
この一点を
示されるために
神様は
五井昌久という
働きの
場所を
お使い下さったのです 

決して
私がとびぬけていた
わけではありません
私が特別
とびぬけた
すぐれた人間で
あったわけではないのです
ただ私は
どんな時にも
神様に素直だった
神様の前に
いのちを
投げ出して
完きよろこびに
あふれこそすれ
それを
一度も後悔したことのない
人間だった
ただ
それだけなのです
そして
これはこういうことは
私一人に
おきることではないのです

実は
人間の真性は
本来そういう
すなおな
光にみちた
ものなのです

人間というものを
考えるときに
みんな
どうしても
この
肉体界の目に
みえる
範囲の
なかで
片づけて 
しまう

元々
肉体界と
いうところは
波動の
あらい
ところだし
肉体人間は
この眼で
たしかめられるものに
安心して
そこに
すがって生きてきた
それが
ならい性なのです
けれど
それが
人間の
すべてではない
目にみえる世界
などという
せまい世界が
人間の本来の
場所ではないんです
人間は
自由の天地の住人です

神の
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)として
縦横無尽に
神の光と
人にやどった
分生命
分霊としての
光を
交叉させて
働き
活きづいてゆく
その天地を
一人一人が
からだの
奥に持っている
そういう
存在なのです

神界は
あなた方の
なかにあるのです
一人として
神界の
住人でない
人はいないのです

みんな
神様の働き手
神様は
公平な
やとい主
みんなの個性を
みんなのいのちを
明るくして
明るく使って
自在な
天地を
つくって
ゆかれるのです

天地は自分自身
神は
あなた方の
なかに
住んで
光を
たえまなく
送っているのです

人間は
伸縮自在
どこにでも
誰のもとにでも
おもいを
とばしてゆける
だから
そのおもいを
すませれば
それは
祈りになり
光そのものに
なって
我々の心を
まわりを
この地球を
宇宙を
みたしてゆくのです

世界人類が
平和でありますように
という
祈り一念
その祈りのなかに
肉の身のかなしみ
この世での
やり切れなさも
すべて
放り込んで
ゆけば
光一元の
世界へと
みちびかれてゆくのです

我々が
やるんじゃない 
一人の
人間の
力はよわい
けれども
この肉体人間を
愛して愛して
愛し抜き
肉体人間の
奥の天命を
いとしんでやまぬ
宇宙神の
愛と智恵の心は
それぞれの
守護の神霊を
動かさずには
おかない力を
もっています
それは
まさに
きわみのない愛であり
ゆるしの世界です
この世的な
おもわくや
利害などというものを
一切浄め切って
全く本来の
人間のすがたを
あらわさずにはおかない
神の愛なのです

よわい
人間には
かぎりがある
といったのは
肉体にとじこめられた
我々の
肉体世界で
おのずから
受ける
制約といおうか
限界をさしているのです
けれども
決して
人間がさながらに持っている
ほがらかないのちを
指しているのではありません

おもいというものが
この肉体界に
渦まいて
いつか
とらわれとなり
業となり
それを放って
真実の人間に
かえすために
神が私をつかわされたと
いうのは
度々
申し上げた
とおりです

おもいが
つくる世界には
限りがあるが
おもいを解き放った
真実
自由な世界には
全く枠もへだても
ありません
ただ
光かがやいて
いるばかりなのです

人間というものは
永遠の進化
こうした 
神様の愛と
真理に
とけこむ
いのりとなるための
進化を
ずっとずっと
なしつづけてゆくものなのです

霊界も神界も
何百何千という
向こうの
世界の
修行場も
そのために
存在している場所なのです

真実に
人間が
自由になること
つまり
神様の 
愛と光が
この地上に
そして
宇宙に
みちあふれて
大調和
という
大神様の
永遠の
いのちの 
ながれと
一体になること
その進化の
はじまりが

この時なので 
みんな
こうした
人間本来の
相(すがた)をあらわし
すがたにかえる
時なのです
中心に帰一し
老子のいう
無為のいのちに遊ぶ
そのときなのです

祈りは命
そうして

光は
我々とともにあり
光は
神様の愛を
放射して
我々のいのちをはげまし
久遠のながれへと
みちびいてゆくのであります
   昭和62年1月30日

私達のいのちは すべてを結ぶいのち

2015-04-22 06:57:40 | 癒し
こころよ
惑うことなく
神の
愛のもとに
走れ

活かされている
この
私達のいのちは
光にみちて
天地
宇宙を
結んで
ゆくものなのだ

肉の身に
宿っている
いのちは
一人の
いのちでは
ないのだ
万人に
流れてゆく
一瞬にして
すべてを
結ぶ
いのちなのだ

世界人類が平和でありますように
という
祈り言のもとに
人々が
宇宙人類が
結集してゆく

あなたがたは
すべてを
結ぶ
いのちなのだ
    昭和62年1月18日

仰ぎみよ…

2015-04-21 09:24:44 | 癒し
  〇
仰ぎみよ
神を
神のすがたを

天地自然
ありと
あらゆるもののなかに
神の息吹きが
あることを
おもうとき
ただ
生かされていることの
不思議と
天地の間に
呼吸することを
ゆるされた
恵みとが
迫ってくるでは
ないか

神の
不思議な
愛の働き
神の智恵
神のこころよ

仰ぎみよ
神のすがたを