わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

神 の 愛(1)

2023-05-26 11:03:19 | 癒し
宇宙の真理というのは、決して複雑なもの
ではありません。
縦横十字につらぬかれている神の愛を信じ、
素直にその中に溶け込めばいいのです。
しかし、肉体人間の想念が、なかなか光そのもの
である神の愛に溶け込ませにくくなっている。
それだけ世の中が物中心になり、こころ=神様が
忘れられた現代といえましょう。
しかしながら、この世の中のすべての顕れは、
実質、実体ではなく、我々人間の心の奥に
眠らされている、光としての真性を
よびさますなら、世の中は、そのまま真実霊界
となり、神界となるのであります。
       (つづく)

天地をつらぬくもの

2023-05-25 09:05:34 | 癒し
人間は本来、霊であり、光そのものなのです。
宇宙神の奥の奥から流れてくる愛によって、
私たちは日々瞬々を生かされているものなのです。
だから、この心が、どんなにかなしんでも、
寂しがっても、本体の、光につつまれた光
そのものの自分は、かがやいているんだ
と思うことが、神様とともにいることであり、
いつの間にか、神様の深い深い愛にいだかれる
ことになり、その時、私たちは、本当に無邪気に、
神様のふところでやすらがせていただくことに
なるのです。

すべて自分がやるんじゃない。
神様がさせて下さる。
我々は、唯、神のみふところの深さを
おもって、どんな時にもやすらいでいればいい。
涙がながれる、ながれるままでいいのです。
淋しくて淋しくてたまらない、そのままの
孤独なたましいを、ありのままで、世界平和の
祈りの中に放り込む時、私たちの本体は
光りかがやくのであります。

天の私と、地の私が合体するというのは神様の
みこころのなかに入り、いつのまにか
入らせていただいて、自己という意識もなく、
唯、あるがままにながれる生命そのものをいう
のであります。
その時、人は、姓名などという個々のものを
超えて、神様の愛とともにあり、神様と一体に
なるのであります。
そうしますと、いわゆる想念の波によって、
動かされる肉体の心、肉体波動というものは、
全く消えて、肉体にいながら霊身、神体となり、
天と地をつなぐ、本来の人間の姿となるので
あります。

生命というものは、本来明るく、さわりなく、
むじゃきに、神をよろこび、神とともに
生きることを日常とするものであります。
(日常というのは、いわゆる肉体身の、我々の
日常ではありません。)
そのことを信じて、素直に明るく、世界平和の
祈りを行じて参りましょう。

道(9)

2023-05-24 08:21:16 | 癒し
      (前日からの続き)
さて、そこで一旦我々の眼から覆わされた救い
救われ(この世的には、災難・苦難・突然死など
理不尽にみえるもの)は、それぞれ命に必要な
時期を選んで現われて参りますが、人間の
眼からはこれがそういうものだとわかるのに、
時間がかかるようになっておりますので、十分に
この世の波と闘う用意もでき、またその備えとして
先回申しました「拠り所」、道というものが準備
されているわけなのです。
光に変えるための生命の修行といっても、
目に見えないこれらのものを肉体をまとった人間が
ただちに行じ、行うにはこの世の構造は何段階にも
分かれているわけで、また、そうでなくては
新しく生まれてくる生命、また、この世を去って
三界に新たに生命を吹き込む人々を、送ることは
とてもできないのであります。
このための道であり、生命であり、これを支える拠り所
であるわけです。

つまり道は、救い、救われを補助するもの
として、我々人間に与えられているものだと理解
されると一番わかりが早いわけです。

この道一つにしましても、一人一人の生命
によって全く違う現われをするのが、神様の芸の
細かい所でありまして、我々はこの神の働きの
細密さに助けられて、真理への道を歩いていると
いっていいのであります。

道(8)

2023-05-23 07:07:54 | 癒し
      (前日からの続き)
この世での生命があるいは短く、あるいは悲惨に
終わったとしても、霊界、神界では悲しむ必要は
全くありません。
なぜなら、本来の命に帰り働くために
仮にこの世での死が用意されたにすぎない
のであります。

このように救い、救われというものは、神様の
側から平等に配分されたものなのでありますが、
現実世界の人間にはそれがみえない。

もっと申しますと、一時みえなくさせられて
いるわけです。
それは、人が味わうべき愛別離苦、あるいは
歓喜といったものを十分に味わって、そこで
自らの中に起きる感情の波を経験し生きて
いくことが是非とも必要なことだからです。

この波の中に、真の救い、救われというものも
実は入っているわけですが、一気に生命の歓喜
というふうに真っ直ぐいかないのは、初めから
そこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な
修行というか、そういうものを全部素通りさせる
ことになるわけです。

これでは一人一人が持っている本来の光を十分に
輝かすことはできません、一旦、肉体を通して
浄めていくというのは、一見しますと真理という
ものに遠いと感じられがちでありますが、事実は
全く逆なのでありまして、生まれてすぐに亡くなる
とか、人としての意識を持つ以前にあの世に逝く
といった人々は、まことに限られた浄めの光
というものを持って生まれてきた、特別任務を
帯びた人々であるということができます。

何を浄めるかといえば、自分に連なる親族、
両親、家族はもとより、この世の波動の粗さを
光に近づけるという、世の中全体の浄めを行い、
同時にこの世を幽・霊・神界に生きて働いている
人々の生命に、深く結びつけるための浄め
なのであります。        
            (つづく)

道(7)

2023-05-22 22:43:38 | 癒し
       (前日からの続き)
生命の流れにはさまざまな支流があります。
大河と定められて、どんなに細くても悠々と豊かに
流れていく流れもあれば、流れを途中でせき止め
られて、遂に一本の草にすら生命の輝きを
送れなくなったものまで、実にさまざまです。

しかし、どの河も生命の本源という同じ源から
発したことは間違いのない事実なのです。
本源は枯渇することがありません。
一旦は生命の河の流れをせき止められたかの
ようにみえても、その実、源の源である「生命」は
輝きを失うことはないのです。
そしてこれは、理不尽なこの世での最期を
遂げるべく定められた人々の災難にもいえる
ことなのです。
              (つづく)