青空ーすべてはバランス

花火は日本人の活力源

 

昨日、花火見に行きました。人ごみもなく静かな場所見つけて満足でした。花火を見ると思い出す掛け声。「たーまやー!」って何?これは、江戸時代の2大花火師の一人、「玉屋市兵衛」という方の「玉屋」という屋号が、かけ声の定番として今でも根付いてる。

江戸時代のもう一人の花火師は?

江戸時代になって、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場したそうです。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられてます(鼠花火、狼煙花など)。現存する日本で最も古い花火業者は、東京の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出し、その後、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、花火の研究も進められたそうです。そして、大型花火は、1717年に水神祭りに合わせて献上花火として打ち上げられています。
もともとは、「鍵屋」なんですね!

大型花火はいつごろ庶民が観たの?

1733年、江戸時代に、コレラが猛威を振るい多くの死者を出した時期、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、大花火を披露したのが、隅田川川開きの花火の起源になったと言われてます。

じゃぁ、玉屋はいつ現れたの?

玉屋は六台目の鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをし、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりらしい。

鍵屋、玉屋の2大花火師の時代を迎えるようになり「たーまやー!」「かーぎやー!」と花火大会も盛んになったようです。でも、私は、鍵屋は知らなかったです。なぜかは分からないけど、玉屋の方がかなり人気があったようです。でも、この玉屋、店から失火し、半町ほどの街並みも焼いてしまったことから、財産没収、江戸から追放となり家名断絶の悲劇があったようですよ。

花火のように華々しく人気を博し、すぐさま悲劇が襲い、消え去ってしまった「玉屋」!それは、まさしく、はかなさ。その名が今でも残っている理由が花火のごときはかなさだとすれば、大いに納得できますね。

戦後は1945年9月に長野市の諏訪神社で花火が揚げられるが、連合国軍総司令部により火薬製造が禁じられました。でも、日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可、これを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活したそうです。この時は打ち上げ許可量僅か600発。でも70万の観客が盛り上がったようです。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「生活・文化ー風景」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事