涙は「水」そして「鏡」・・・
太古の昔より水鏡はこちらとあちらを結ぶ境界として
写し鏡として全てのメッセージをその分子・素粒子に乗せて運んでくれるもの・・・
わたしは涙に理由を求めるのを已めた。
あれは富士山での出来事、
次々とチャネリングを始める周りの人たちが
わたしの過去生に深い縁のある人が今回の集まりに来ていることを教えてくれた。
それでもわたしには何のことかはわからない。
期待もせず、そして避けることもせず、
ただその時が。
30人以上になろうか、順番に簡単な自己紹介をしてゆく中、
後方に立ち上がって話し始めたその人を振り返ったその途端
滂沱の涙が溢れて止まらない。
それも胸が熱くなるとかそういう前触れも何もなしにいきなり。
まるでスイッチがいきなり「ON]になったかのように涙が「ジャーッ」。
もう一人の自分が吃驚している自分に言い聞かせる。
「今を生きている自分が「わかる理由」を当て嵌めなくてもいい。
涙は出るに任せて。
あなた一人の魂の再会だけでなく、
いろんな次元でいろんな存在が今起こった奇跡を喜んでいる、
祝福を受け止めるだけでいい」
「そしてそれをここ、この場、このタイミングで起きたことによって、
今生の貴方のこれからの、生きる指針、考え方の指針となるように。
そう自分でプログラムしたんだから」
現世を担っている人間が全てを理屈で理解しようとする必要もない。
出逢った事実を受け止めるだけでいい。理由を追わずともいい。
そして当て嵌めたいなら当て嵌めてもいい。
それは現世担当当番がそう思うことで成就することがちゃんとあるから」
周りの人の怪訝そうな顔、「ほらやっぱり」と言うようなわけ知り顔を見ても、そんなことより何よりやっぱりわたしにはわけがわかっていないのだから。
おまけにあまりにイキナリの滝のような涙だったので
その立ち上がってちょっと喋って座った彼女の顔、全然覚えてない。
今だに思い出そうとしても思い出せない。
それ以来、
涙は出るに任せて流している。
理由は一つではない。
それはそれは不思議な糸を紡いで織り成してきた膨大な物語のたくさんの縦糸と横糸の合わさった境目。
これからも たくさんの涙と共に、
生きている人=現場担当=にしか出来ないことをこなして
たくさんの人=「自分自身」を癒してゆく・・・
人を助けること=自分を救うこと
人を癒したい、と思う人は
「人を助ける、救う、手伝う」と思うことを自己実現することが自分自身を救うことになるのだから。
大切なのは
わかったあと、いかに生きるか・・・