今年も桜が近所で満開になりかけている。
中学校の脇のみごとな咲きっぷりを、毎日こうして眺められるのはさすがにうれしい。
和歌や俳句や詩におびただしいほど詠われている桜。しかし桜が広く和歌に詠まれるようになったのはなぜか「梅」のあとだった。わが国にもともとあった山桜よりも、中国より渡来した梅のほうが先に重宝されたのは不思議といえば不思議な気がする。
桜が花の主役となったのは平安時代のこと。
今は俳句で「花」と詠めば桜をさすが、万葉集では桜はわずかの43首。梅の110首にはとうていかなわない。しかし奈良時代には挿頭花(かざしぐさ)と呼んで、桜の生命力からの信仰をした。
「さくら」という名には古くから尊敬の念が含まれているらしい。「さ」は早乙女や早苗の「さ」。田の神をさしている「くら」は「座」で、文字通り「田の神の座」という意味のよう。
古代から農民たちは桜が咲けば、種もみを蒔く準備をした。また、田の神が高い山から里に降りたことを意味した。
人々はその年の豊作を祈りながらさくらの木の下で神々と酒をくみ交わした。花見の風習は彼らから始まったらしい。
平安時代になると、農民の行事であったお花見が宮廷の貴族たちに広まった。そして江戸時代には上野や隅田川沿いなどに植えられ、お花見が大衆化していったらしい。
それが形を変えて現在まで引き継がれているとのこと。
古来は桜といえばヤマザクラやヒガンザクラをさしていた。ソメイヨシノは幕末になってかららしい。
江戸駒込の染井にあった植木屋さんがエドヒガンとオオシマザクラが自然に交配したものを名所吉野にちなんで「吉野桜」として売り出した。しかし吉野山のヤマザクラと区別するため、後でソメイヨシノと名前を変えたらしい。
現在のソメイヨシノは全国の桜の約8割を占めているというが、そのほとんどは戦後に植樹されたとのこと。
別名は「花の雲」「夢見草(ゆめみぐさ)」。
そして意外なのは「桜」は国花ではない。
ないというのは厳密にいえば誤りかも。わが国には法律により定めた国花というものが存在しないからだ。あえてあげるなら「桜または菊」となる。これもよくよく考えたら不思議なことだなと思う。私個人としては「桜」を公式に国花と決めてもよいような気がするが。
「桜前線」という言葉をテレビや新聞でよく耳にする。
南からだが、意外にも東京は早い。沖縄をのぞいて、全国でも最初の満開をとげる年がけっこうあるようだ。近いところでは、平成30年がまさにそうだった。そしてこの前の土日は東京近郊では各地でお花見の真っ盛り。どこでも最ピークを迎えたことであろう。北関東では今度の土日がたぶんそうなるのだろうか。
桜の根元付近に陣を敷いてのお花見はまこと気持ちが良い。が、根が弱い桜にとってそこは泣きどころ。
20代の頃にその桜の根のことを知っていれば、もう少し桜にやさしく接することができたのにと後悔の念にかられることしばし。呼吸をさせないような座り方はどうかと毎年この時期には思ってしまうような歳になった。昔から桜には神様が宿り、私たちを守り続けているのだから。
幸いにして今年はコロナ感染防止のため、いずれの地でも花見の宴会は差し控えるよう行政側が呼びかけている。はたして喜んでよいのか、悲しんでよいのか
はかなくて過ぎにしかたを数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける
式子内親王
「季節の花(3) さくらの花びらに思う今と昔」