あべっちの思いをこめた雑記帳

吹奏楽だけは近くて遠かった

 中学生になっていろいろな趣味を始めた。新入生になったとたん最初に興味を示したのは切手の収集である。同級生となった阿久津君が親切ていねいにその面白さやノウハウを教えてくれた。
 なにせその中学校は新設校なので、4つの小学校から合流したいわば寄り合い所帯のようなものだったから、あらゆる新しい情報が入ったし、珍しいものには何でも当時の私は手を出した。その頃の切手を見るたびに、今は亡き阿久津君を思い出す。

 歌謡曲もその頃からかたっぱしから覚えていった。最初は三橋美智也が一番好きだった。この頃から音楽というか、流行歌の世界にのめり込んでいった。

 2年生になると俳句に興味が出てきた。中学二年コースという雑誌への初投稿が偶然入選したので、気をよくしてかその後何度も応募している。当時の選者は水原秋櫻子さんであったのもうれしい。

 太平洋戦争の軍艦や激戦地を調べるのが好きになったのも二年生からだった。小田部君と二人でよくいろんな南方の島々の研究をした。数年前に開催された高校時代のクラス会では、またその話を聞きたいとみんなに頼まれて、苦笑いで逃げた。

 クラブでは英会話に入っていた。でもさぼったりして、あまり一生懸命でなかったような気がする。そのせいか今でも英語はチンプンカンプン。

 三年間、本はよく読んでいた。図書館の小早川先生が優しくてすてきだったので、ウキウキしたこともあったかな。あとで数学の小林先生と結婚して、小林幸子(こばやしさちこ)さんに途中から名前が変わってしまった。

 それとは別に、演劇に熱心になった。小学校時代からやっていたためか、いつの間にか舞台にまで中学でも立っていた。その勢いは高校へも続き、なれのはて部長に押し上げられてしまった。

 でも、活動はしないがもう一つ忘れてならないものに吹奏楽がある。これだけはやりたくてもどうしてもできなかった。時間がな~い。だからか、たくさんの曲を聴くだけにした。
 吹奏楽の長浜君と仲良くし、それなりに情報も仕入れた。特にスーザの曲がよい。やっぱり当時一番夢中になったのは「士官候補生」だったろうか。毎年の文化祭やその他の定演が楽しみで、よく聴きに行った。

 中学三年生の時にはその文化祭で「花の白虎隊」という歌を吹奏楽演奏にあわせ舞台で歌った。佐伯孝夫作詞·吉田正作曲のちょうど半年前の発売という、当時としては新曲である。橋幸夫さんの歌いっぷりにあわせたつもりだが、そう簡単にはとんやがおろさない。詩吟のところの出だしであがってしまった。結果としてはそれでもまあまあだったと自分なりに評価したものだ。

 その思い入れの吹奏楽には息子が中学入学と同時に入部した。文化祭から地区の発表会やらコンクール。親としてはうれしいかぎりである。東関東吹奏楽コンクールの銀賞をいただいた時の写真は今も額にして居間に飾ってある。

 が、その育ての先生である鈴木勉さんが急死された。ちょうど6年前の2月下旬のことだった。
 卒業後も伴奏やお手伝いであちこちに同行を何度もして、息子はかなり親しくしていたようである。しょっちゅう会っているし、今も先生はその母校に在籍されているので、はじめは誤報かと耳を疑った。わが家にも何度か来てくれたようであり、息子はごちそうになったこともあるらしい。

 その鈴木先生の告別式は3月1日だった。前日のお通夜に続いての斎場へ。
 47歳はあまりにも若すぎる。まだバリバリやれる歳だし、やってほしいと誰もが思っていた。
 息子の気持ちを思うと何んとも言葉がなかった。
 ただ先生のご冥福をお祈りするばかりであった。

 

                           「つれづれ(96) 吹奏楽」

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