2011年3月11日 午後14時26分。
東日本大震災が起きた。
あれから、6年が経過した…。
今日の報道だったと思うけど、仮設で暮らしている人々が、全国にまだ「約12万人」いらっしゃるとのこと。
6年が経過して、「12万人」…正直、「12万人もいっしゃるの?!」と驚きを隠せなかった。
場所によっては「復興は進み」「復興は終わった」けれど、場所によっては「全然復興が進んでいない」「全然終わっていない」のが、現実ということでしょう。
しかも、東北ばかりがクローズアップされがちだったけど、千葉県や茨城県なども、地盤沈下などの被害が相次いでいたし、東日本大震災の被害は東北だけではないということも、忘れてはならない。
私が住んでいる盛岡は内陸部なので、沿岸の方のような住居や命に関わる重大な被害を被ってはいなかった。
とは言え、40年以上生きていて、初めての大きな地震であり、初めてのライフライン破壊という被害にあった。
当然、スーパーからは物がなくなり、普段は人の出入りもまばらな小さい商店すらも人でごった返し、あっと言う間に店内の商品がなくなっていった。
ガソリンの入手も困難になり、ガソリンスタンドには長蛇の列。車に残されている少ないガソリンを消費するのを抑えるべく極力エンジンを切って、寒さにガタガタ震えながら、自分の番になるのをひたすら待った。
停電にもなったから、信号機も機能していない。交差点では車が左右前後に気を配りながら、ゆっくり走っていた。(記憶違いでなければ、そのために事故が起きたというのは盛岡では、なかったと思う…。)
本当は、食料や必要なものを調達しに出向きたいのだけど、信号機は機能していないから本音は「恐いので車で遠出はしたくない」、しかもガソリンの入手が困難だ…歩いていける範囲を片っ端から歩いて、手に入れるだけの品物を手に入れた。
懐中電灯や携帯ラジオに必要な「乾電池」の入手、特に単一電池や単二電池等の大きな乾電池の入手が、とりわけ困難になった。
その時、普段は納戸にしまい込まれていた「携帯ラジオ」が、非常時にはこうも大活躍するものなのね と、改めて、ラジオの重要性を実感した。
停電の期間中、我が家でずっと聞き続けたラジオ。懐中電灯・非常時ブザーもついていた少し大きめの携帯ラジオだったが、これも神様かご先祖様か分からないけど、停電の間はずっとラジオをいかしつづけてくれた。
停電が終わった時に、まるで電気と引き換えるかのように、ラジオは寿命を迎えたのだ。
電池を入れ替えてもラジオが息をふきかえすことはなかった…。
(災害時に24時間夜通し「安否確認」や「生活情報」「ライフライン情報」を放送し続けてくれたのが、IBC岩手放送のラジオだった。正直、IBCのラジオ放送がなければ、親戚の安否も分からない状況で、とてもじゃないが息苦しい日々を送っていたかも知れない。母親に促され、親戚宛に向けた安否を気遣うメールをIBC宛に送り、幸い、読んでもらえた。親戚が携帯電話を持っていない、自宅もすっかり津波で流され、電気も通っていない、そんな中で頼みの綱は、ラジオ放送だった。)
また、このころ私の周囲では、「ガラケー」を使っている人が大半だった。こういう非常事態だと、普段は電波の入りのいい場所でも、電波が入りにくくなる。しかも、「非常時に手回しで携帯電話の充電が可能」と謳われて販売されていた、「非常時用の携帯ラジオ兼ランプ兼充電器付き」というものが、携帯電話の充電には何の役にも立たないことが判明した。そのため、私は残り少ない携帯電話の電池を放電させるのをふせぐため、携帯電話の電源をオフにしていた。
そのために、職場からの連絡、遠方の友人からの安否を気遣う連絡に、速やかに対処が出来なかった…。
(盛岡でも停電が復旧していくのが早いのは、官公庁のある中心部からで、我が家の住まいがある地域は、盛岡でも電気の復旧に時間がかかった。)
皮肉なことに、震災以降は「ガラケー」が存続危機となり、スマートフォンが市場を賑わせることになった。
スマホでラジオを聴くことも出来るラジオのアプリもある。
しかし、電池の持ちを考えれば、いくら電池持ちのいいスマホでも「ガラケー」にはかなわない。
非常時には、やはり「携帯ラジオ」(スマホのアプリでなく、純粋にラジオ)は欠かせない存在であることは、今後の未来においても揺るぎないものであると、私は感じている。
震災時に、24時間夜通し放送し続けてくれたIBC岩手放送の皆さん、アナウンサーだけでなくそれこそ、臨時職員や非常勤職員さんのような非正規雇用の方々もいらっしゃったでしょう、全員に、心から感謝申し上げます。
その節は、本当にありがとうございました。
ラジオが、これからも命たさやず、生き続けてくれますように…。
また、震災で命を落とされた方々のご冥福をお祈りしながら、残されたご家族の皆様方が、1日でも早く「復興」出来ますよう、小さなことしか出来ませんが、これからも私なりの出来ることを見つけてお役に立つことが出来れば…と思っています。
人気ブログランキング ←いつもありがとうございます。
東日本大震災が起きた。
あれから、6年が経過した…。
今日の報道だったと思うけど、仮設で暮らしている人々が、全国にまだ「約12万人」いらっしゃるとのこと。
6年が経過して、「12万人」…正直、「12万人もいっしゃるの?!」と驚きを隠せなかった。
場所によっては「復興は進み」「復興は終わった」けれど、場所によっては「全然復興が進んでいない」「全然終わっていない」のが、現実ということでしょう。
しかも、東北ばかりがクローズアップされがちだったけど、千葉県や茨城県なども、地盤沈下などの被害が相次いでいたし、東日本大震災の被害は東北だけではないということも、忘れてはならない。
私が住んでいる盛岡は内陸部なので、沿岸の方のような住居や命に関わる重大な被害を被ってはいなかった。
とは言え、40年以上生きていて、初めての大きな地震であり、初めてのライフライン破壊という被害にあった。
当然、スーパーからは物がなくなり、普段は人の出入りもまばらな小さい商店すらも人でごった返し、あっと言う間に店内の商品がなくなっていった。
ガソリンの入手も困難になり、ガソリンスタンドには長蛇の列。車に残されている少ないガソリンを消費するのを抑えるべく極力エンジンを切って、寒さにガタガタ震えながら、自分の番になるのをひたすら待った。
停電にもなったから、信号機も機能していない。交差点では車が左右前後に気を配りながら、ゆっくり走っていた。(記憶違いでなければ、そのために事故が起きたというのは盛岡では、なかったと思う…。)
本当は、食料や必要なものを調達しに出向きたいのだけど、信号機は機能していないから本音は「恐いので車で遠出はしたくない」、しかもガソリンの入手が困難だ…歩いていける範囲を片っ端から歩いて、手に入れるだけの品物を手に入れた。
懐中電灯や携帯ラジオに必要な「乾電池」の入手、特に単一電池や単二電池等の大きな乾電池の入手が、とりわけ困難になった。
その時、普段は納戸にしまい込まれていた「携帯ラジオ」が、非常時にはこうも大活躍するものなのね と、改めて、ラジオの重要性を実感した。
停電の期間中、我が家でずっと聞き続けたラジオ。懐中電灯・非常時ブザーもついていた少し大きめの携帯ラジオだったが、これも神様かご先祖様か分からないけど、停電の間はずっとラジオをいかしつづけてくれた。
停電が終わった時に、まるで電気と引き換えるかのように、ラジオは寿命を迎えたのだ。
電池を入れ替えてもラジオが息をふきかえすことはなかった…。
(災害時に24時間夜通し「安否確認」や「生活情報」「ライフライン情報」を放送し続けてくれたのが、IBC岩手放送のラジオだった。正直、IBCのラジオ放送がなければ、親戚の安否も分からない状況で、とてもじゃないが息苦しい日々を送っていたかも知れない。母親に促され、親戚宛に向けた安否を気遣うメールをIBC宛に送り、幸い、読んでもらえた。親戚が携帯電話を持っていない、自宅もすっかり津波で流され、電気も通っていない、そんな中で頼みの綱は、ラジオ放送だった。)
また、このころ私の周囲では、「ガラケー」を使っている人が大半だった。こういう非常事態だと、普段は電波の入りのいい場所でも、電波が入りにくくなる。しかも、「非常時に手回しで携帯電話の充電が可能」と謳われて販売されていた、「非常時用の携帯ラジオ兼ランプ兼充電器付き」というものが、携帯電話の充電には何の役にも立たないことが判明した。そのため、私は残り少ない携帯電話の電池を放電させるのをふせぐため、携帯電話の電源をオフにしていた。
そのために、職場からの連絡、遠方の友人からの安否を気遣う連絡に、速やかに対処が出来なかった…。
(盛岡でも停電が復旧していくのが早いのは、官公庁のある中心部からで、我が家の住まいがある地域は、盛岡でも電気の復旧に時間がかかった。)
皮肉なことに、震災以降は「ガラケー」が存続危機となり、スマートフォンが市場を賑わせることになった。
スマホでラジオを聴くことも出来るラジオのアプリもある。
しかし、電池の持ちを考えれば、いくら電池持ちのいいスマホでも「ガラケー」にはかなわない。
非常時には、やはり「携帯ラジオ」(スマホのアプリでなく、純粋にラジオ)は欠かせない存在であることは、今後の未来においても揺るぎないものであると、私は感じている。
震災時に、24時間夜通し放送し続けてくれたIBC岩手放送の皆さん、アナウンサーだけでなくそれこそ、臨時職員や非常勤職員さんのような非正規雇用の方々もいらっしゃったでしょう、全員に、心から感謝申し上げます。
その節は、本当にありがとうございました。
ラジオが、これからも命たさやず、生き続けてくれますように…。
また、震災で命を落とされた方々のご冥福をお祈りしながら、残されたご家族の皆様方が、1日でも早く「復興」出来ますよう、小さなことしか出来ませんが、これからも私なりの出来ることを見つけてお役に立つことが出来れば…と思っています。
人気ブログランキング ←いつもありがとうございます。
返しが遅くなりましたm(__)m
>即座に家族の安否確認と思い、電話をしても連絡は取れず、繋がる機会を待つしかありませんでした。
この時私は、某放送局で仕事をしており(正職員ではありませんが…)、係の職員が「これ使ってご家族に連絡取って」と、衛星電話を貸してくれて、安否確認が出来たんです。
普段使うことはない衛星電話ですが、このような非常時にはとても役に立つ電話なんだなと思った次第。
>地震後は停電状態が続いたため、情報手段はラジオと携帯電話、新聞などに限られました
そうです、こちらも停電が続きました。
そのうち、断水も…。
家族より、何故か私の方が「災害対策」というのか「危機意識」が高いなと思いながら、
「ラジオで断水するって言ってるから、早く水ためておいて」と家族を促しましたが、ガスがストップしなかったのは、有り難いなぁと今でも思います。
>欲しい情報を瞬時に見たいときは県や市のHP、電力、水道、交通機関のHPを利用しました。
「欲しい情報」…テレビではどうしても偏ってしまうのと、万人受けするものを放送しないといけない部分もあるでしょうから、テレビだけではやはり情報は足りませんでしたね。
携帯電話の災害ダイヤルも、相手の番号が分からないとどうしようもないですから、安否確認はもっぱら、IBCラジオとGoogleでした。
Googleの何とかパーソンでしたか、災害時に緊急に安否確認用に設けられたもので、これには本当に助けられました。
災害に対する意識は、常に持っていないといけませんね。
そして、ラジオ。
最近では、パソコンでもスマホでもアプリさえあればラジオを聴くことが出来る便利な時代になったもんですね。
東日本大震災は我々にさまざまな教訓を与えましたね。次の自然災害に対する備えとして、これまでの防災に加えて「新たな防災知識」を深め、減災につなげていくこと。 被災、復旧状況を得るための情報手段の確保、平時から地域や職域で連携を図り、避難行動に移すことができる自主防災力の向上などです。
東日本大震災M9.0の東北地方太平洋沖震発生時、私は東京神田のビル8階会議室で会議中でした。8階にいたせいか恐怖を感じる長い揺れで、ビルとともに崩れ落ちるのではないかと思うほどでした。即座に家族の安否確認と思い、電話をしても連絡は取れず、繋がる機会を待つしかありませんでした。ロビーのテレビモニターに映し出される映像は,想像を絶するもので、仙台市東部に押し寄せる黒い津波が住宅や走行中の乗用車などを次々にのみ込んでいく様子は信じられない状況で、鮮明に記憶に残っています。しばらくして地下鉄、JR・私鉄各線が全面運休するとの情報が入り、千代田区の建物にいたので、ビルは帰宅困難者向けの避難所となり、そのまま避難民として滞在しました。上越新幹線新潟経由、JRとバスで山形に出て、さらに仙台まで高速バスを使い、東京から自宅に戻ったのは地震発生から3日目の夜でした。自宅は電気、水道、ガスが止まった状態でしたが、地震発生から4日目の早朝、電気が復旧し暖房と電化製品が使用できるようになりました。
震災直後は地震や被災地の状況と安否確認について常に情報収集ができる環境が必要なため、ラジオと予備の電池、小型懐中電灯を携帯することが重要です。今回特に役立ったのは「備蓄」で、水、保存食、燃料、乾電池、カセットコンロ、カセットガスボンベ、トイレットペーパーなどでした。
地震後は停電状態が続いたため、情報手段はラジオと携帯電話、新聞などに限られました、最大の関心時は地震の被災状況やライフラインの復旧についてで、ラジオ、新聞から情報を得ました。電気復旧後はテレビをはじめPC、暖房器具、調理器具などが使用できる環境となったほか、情報源もラジオ、新聞から大幅に増えて,生活関連情報も収集しやすくなりました。テレビのL字型の情報は被災状況から交通、電気、給水、スーパーマーケット、病院、日帰り温泉の営業情報などが放送されていたのですが、欲しい情報を瞬時に見たいときは県や市のHP、電力、水道、交通機関のHPを利用しました。
次の自然災害に備え、いつもラジオと予備の乾電池を携帯しています。最近、各地で民放ラジオのワイドFM化が進み、IBCラジオもFMの周波数で聴けるようになったので、クリアな音でしっかり情報をキャッチできるようになりました。ラジオの情報は大切ですね。長文になってしまいました。申し訳ありません。