そう言えば最近「山」に行っていない。
自転車も良いけれど、たまには「トレッキング(ハイキング)」もしないとね。
先ずは足慣らし(自転車と使う筋肉が違うから)です。
予定では、「天覧山~多峯主山~龍崖山」をサッと歩く予定とします。
自転車で「飯能駅」迄行こうと考えていたが、何しろ思い付きなので、時間も遅くなってしまい「電車」にします。
自宅を9時25分に出発、駅前のコンビニで「おにぎり」を買おうとしたら売り切れだった。
仕方ないので「パン」と「飲み物」を仕入れる。
買い終わると、丁度電車が来たので慌てて駅構内に行くが、間に合わなかった(笑)
待ちます!!
「小手指駅」で急行に乗り換え「飯能駅」に到着です。
駅を出ると、10時34分です。
暫し歩いて「飯能市博物館」です。(自転車だとココに停めます。)
「飯能中央公園」の「アトム像」の背中を撮る(笑)
目の前が「天覧山」への「登山口」です。
「蔵原伸二郎の詩碑」がある。
「忠霊塔」。
やがて「中段」に来る。
「御駒繋の松」。
明治16年に明治天皇がココに馬を繋いだらしい。
先へ進みます。
「天覧山」に到着しました。
生憎、霞んでいています。
中央奥が「富士山」です。(半分雲が掛かっていますが・・)
「おまけに一枚」
「行幸記念碑」。
次は「多峯主山」に向かいます。
一旦、下ります。
「見返り坂と飯能笹」。
「見返り坂は、源義経の母、常盤御前がこの山に登ったとき、あまりの風景のよさに後を振り返り、振り返り登ったことによりこの名がついたといわれている。この見返り坂の麓に植物学者、故牧野富太郎博士により発見され、命名された飯能笹の植生がある。
この笹は、アズマザサの仲間で根茎は横に走り、茎はこげ茶色をしてまっすぐ立ち、高さは百五十センチメートル前後、直径0.6センチメートルほどになる。茎の上部で枝が分かれ、枝の端には手のひらをひろげたように数枚の葉が集まってついている。葉は細長く、長さ十三~二十センチメートル、幅二センチメートル内外で先はとがっている。
質は薄い洋紙質で表面は毛がなく、裏面にはビロード状の細毛がある。中央の脈は細長く裏面に隆起しており、この両側に五~八本の脈をもっていて、冬期に葉のふちは白色となる。一見普通の笹のようにみえるが、幹の色、枝の出方などに特色がある。繁殖力はさほどなく、古くからこの地にのみ限られて生えている。」と、あります。
振り返りながら上って行きました、確かに景色は良いですね。
「多峯主山」に到着です。
山頂にいた「おじさん」が撮ってくれました。
多峯主山と経塚
「多峯主山は天覧山の北西にあり、海抜二七一メートルの山で山頂に三等三角点がある。文字とおりこのあたりの山ではひときわ高く、登り口には、県指定天然記念物の飯能笹が自生しており、また常盤御前にまつわる「見返り坂」や「よし竹」の伝説がある。
「よし竹」は、常盤御前がこの山に登りながら「源氏再び栄えるならこの杖よし竹となれ」といって持っていた竹杖を地に立てたところ、それが根づいて一面の竹林となったといわれ、今日でもわずかながら、よし竹と呼ばれる竹の植生がある。
「常盤が丘」には、常盤御前の墓があったといわれ、宝篋印塔がある。その近くに「常盤平」と呼ばれている眺めのよい場所がある。中腹には、いまだ一度も水のかれたことのないといわれている「雨乞池」、頂上近くには、郷土の武将、上州沼田城主の黒田直邦の墓がある。
山頂にある経塚は、石に経文を書いて土の中に埋めた塚で、岩石を釜底形に掘った穴に約一万二千個の河原石が埋蔵されており、明和二年(1765年)の年号が刻まれた経塚供養塔が建っている。」と、ある。
「富士山」は完全に隠れています。
都心方面も霞んでいます。
ココで小休止、「パン」を食べる。
下って、「雨乞池」です。
雨乞池
「この池を雨乞池または雨乞渕という。こんな山頂にありながら、かって水の枯れたことのない池である。古くは、この上手に高?(たかおかみ)、闇?(くらおかみ)(雨をつかさどる神として古来祈雨(きう)・止雨の神)がまつってあって、近郷の人たちの信仰が厚かった。
田畑の作物が枯れるような旱天(かんてん)が続くと、ここに集まって、神に雨を乞い、池のまわりでにぎやかなお祭りをしたという。「この水を濁すと雨が降る」といい、また、鼻をつまみ息を止めて七廻りすると、池の中に異変がおかるといったような伝説もある。」と、ある。
「御嶽神社」は行かず、「常盤平」から「飯能下名栗線」に下ります。
下った所には「ロウバイ」があった。やけに白っぽいです。
やがて「龍崖山」登山口に来る。
こんな「看板」を見ると嬉しい。
どちらに行くか? 女坂を選択です(笑)
休憩しません!!
そして「龍崖山」に到着する。
「龍崖山の碑」です。
龍崖山の碑
「当地は、その昔徳川の直系一つ橋家の領地として栄え、明治維新の改革により私達の祖先五十有余戸にて此の地より西南方面に位する山林約二十ヘクタールを共有地として譲受し以来一世紀弱此の間或時は、生活の支となり良き伴侶として今日に至った。
私達先代及び現代の人々がそれぞれの中で身を処し愛着のもとに精魂を傾けて守り通して来た此の地も急激に進展する時代の流れの中で土地開発郷土発展の為不断の協力のもとに個人所有林及び田畑共合わせて四十五ヘクタールを解放譲渡し私達の将来の幸福と栄伸並びに此の地の高度利用を祈念し残された唯一の山の嶺に私達はいつまでも此の美しき山城龍崖山を愛守すると共に世代の移り変わりをしのんでここに碑を建立す。」と、ある。
尊くも遠き祖先の護り来し
龍崖山にて別れ惜しみて
残念ながら見えません!!
竹の「望遠鏡」は修理中!!
気温は「11℃」です。
残りの「パン」を食べる。
時間は13時を回りました。
下山します!!
時間が掛かるので、今日は「龍崖山公園」には行かず、「八耳堂」に下ります。
休みません!!
「オブジェ」?
下山しました。
「摩利支天社」です。
「軍荼利神社」。
そして「八耳堂」です。
八耳堂と軍荼利神社
「八耳堂は、真言宗の寺、金輛無量院金蔵寺の仏堂で、太子堂とも呼ばれている。本尊は、聖徳太子(厩戸皇子)を祀り、保元年間(1156~1158年)に建立されたといわれているが、現在の建物は、文政三年三月(1802年)に再建したものである。
この奥手に軍荼利神社があり、鎌倉時代の建仁二年(1202年)飯能地方の武士、大河原史郎が創建したと伝えている。大河原氏は、この地方の殿屋敷と呼ばれる場所に居住し、当社の南方に位置する龍崖山に砦を造って非常に備えると共に、金蔵寺とこの神社を厚く信仰したという。
神社は、天和二年(1682年)火災にあったが、のちに再建された。」と、ある。
「飯能駅」に向かいます。
このコントラストが、目に飛び込んで来ます。
後一息ですね。
「飯能河原」に来ました。
「木橋」も昨年の台風で流されたのか。
そして「割岩橋」を渡ります。
暫し歩いて「飯能駅」の南口へ。
暖かく穏やかな日、歩いている時は「シャツにベスト」、上着は要らなかったね。
大して待たずに電車に乗ります!!(13時57分発だった様な・・)
そして、14時40分に帰ってきました。
直ぐに散歩です。
美味そうだけれど、食べないのかな?
今日の「歩数」は「歩数計」では・・・
もう一つは・・・
14.6kmか、何れにしても、今日も良く歩きました。
いいないいな!でも羨ましがっているばかりではダメね。
私も頑張るよ~。明日は仕事とカーブス。木曜は、友人のお供で美園の方の病院に行く予定。(もしかしたら痔の手術で入院になっちゃうかも?)助けになりたいの。
金曜は既に予定有るから、土曜日かな!?土曜に天気も悪くないね。
良く歩きました。
忙しそうで、時間を作るのも大変そうですね。
土曜は良さそうですよ。