風の吹くまま

18年ぶりに再開しました。再投稿もありますが、ご訪問ありがとうございます。 

★アジアの風

2024-10-06 | エッセイ
香港は、九龍(カオルーン)サイドと呼ばれるその背後に中国大陸をもつエリアと、その九龍の先端からボートで5分ほどの真向かいにある香港島サイドという、大きく二つのエリアから成り立っている。その間には海が流れ大小さまざまなボートが行き来している。そして、その2つのエリアにはお互いを向き合うように高層ビルが立ち並び、その近代的な建築物の間に無数の人々の営みがある。 


僕は香港での数日間の用を終え、香港島サイドにある空港行きのステーションビルディングにいた。ここで空港チェックインを済まし空港行き列車に乗車することになっていた。そのビルの海に面した大きな透明の硝子からは、海に浮かぶ大小無数のボートが見えた。まだ予定の時間まで余裕があるので、このビルのオープンエアのカフェで遅めの朝食をとることにした。 この年の夏は、香港でも異常な蒸し暑さで、海に面したそのオープンカフェに座ると海からの熱気が少し息苦しかった。

コーヒーを飲みながらぼんやりと海を眺めていると、どこからか笑い声が聴こえてくる。 どこからくるのかとその笑い声を探すと、そこには沢山の女性達がそのビルの下にある広場に座っていた。何百という数の女性達がそこにいた。
彼女たちは香港で働くフィリピンメイドと呼ばれる女性達である。20代、30代、40代とさまざまな年齢の女性達がそこにいた。香港では結婚後も女性のほとんどは働くため、中流家庭であっても住み込みのメイドさんを雇っている家庭が非常に多い。そういうメイドさんはそのほとんどがフィリピンの女性達だ。賃金も比較的低いのだが、高学歴で英語を話せるからである。

彼女たちは、月曜日から土曜日まで住み込みでメイドさんとして働きつづける。日曜日は彼女達のささやかな休日。 しかし、住まい=職場であるため家でのんびりと過ごすということができない。だから彼女達は日曜日になるとずっと外で過ごす。したがって、日曜日ともなると香港中の広場はフィリピン女性でいっぱいになる。少し異質でもある光景だ。

オープンカフェから眼下に眺める彼女達。同郷の友人たちと手作りの料理を広げているもの、歌を歌ているもの、愉しそうに語り合うものたちなど・・・皆屈託のない笑顔に満ちている。 皆ささやかな日曜日を楽しんでいる。

だが、その一人一人は誰かのためにそこにいる。
「誰かのために」・・・あるものは両親祖父母のために、あるものは兄弟姉妹のために、そしてあるものは幼い子を残して・・・そのひとりひとりがその誰かのために、異国の地で寂しさの中で異邦人として暮らしている。

生まれた環境、時代、それらに人間はその人生を左右される。左右されながらも、誰かを支えながら生きている人たちがいる。かつての日本にも女性たちが海外に出稼ぎに行った時代があったときく。豊になった今、そんなことは忘れさられつつある。だが、時代は変わっても、同じような境遇で生きる人たちは、どこかにいる。

眼下の彼女達を眺めながら、そんなことを想い浮かべていたその時、「一瞬の涼しい風」が翔けてきた。それは夏の熱気で陽炎のように揺らめく高層ビルの間から突然現れて、一瞬のうちに彼女たちの笑い声を掴み、大小無数のボートが浮かぶ海の方へとすり抜けていった。

そして、僕にはその風が、海を見下ろす白いカモメのようにその優しい眼差しで振り返りながら、碧い空へと早足に駆け上がっていったかのように見えた。 それはまるで、彼女たちの哀しい笑い声をどこか遠くへ運んでゆくかのように。


2005年に書いたものになります

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★海老フライ定食

2024-10-06 | エッセイ
僕は、食というものにまったくといっていいほど興味がない。

子供の頃、父親は必ず給料日には家族揃って外食につれていってくれた。外食といっても、同時はファミリーレストランや回転寿司などはなかった時代だ。ましてや、しゃれたレストランなどもなかった。

行くところはいつも同じであった。地元の商店街の洋食屋。当時としては少し洒落ていたのかもしれないが、子供だったのでよくわからない。

僕は注文するのはいつも「海老フライ定食」だった。今のような、タルタルソースなどはなく、とんかつソース。その海老フライは子供の僕にはすごく大きく見えた。

香ばしい香り、サクっとした感触、その熱々で甘い味・・今でもはっきりと覚えている。

父と母はカレーライスやもっと安いものをいつも注文していたのを覚えている。僕はまだ小学校の低学年であったが、そのくらいのことはわかった。

たまに、
「僕もカレーライスにしよかな・・」と言うと、母は
「海老フライにしとき、こっちのほうが美味しいで」と、いつも海老フライを注文させた。

大人になって、取引先や上司部下と高級といわれる料亭やレストランに行くこともある。一人何万もするような料理をいただける機会もある。

しかし、どんな有名レストランやどんな有名シェフの料理より、父の給料日に食べさせてもらったあの「海老フライ定食」よりも美味しいと思った料理は未だ食べたことがない。


「子どもの心に残るのは、
親が買い与えてくれたものではなく、
愛を注いでもらったという記憶である。」
(リチャード・エバンス)

2005年に書いたものになります
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★恋~夜行列車の少女

2024-10-06 | エッセイ

それは中学1年生の夏休みだった。母と妹との三人で、夕刻の大阪駅から親戚の住む山陰島根県の出雲へ向かう夜行列車に乗った。

列車が駅を出発し暫く経った後、母はちょうど僕らとは反対側の4人席に座る一人の少女に視線を向け僕に言った。
「あの子おまえと同じ歳くらいちゃうか。凄く綺麗やなあ。」

「ん? そうかあ?」
と、そっけなく答えた僕は、読みかけの文庫本にすぐ視線を戻した。彼女は、父親らしき男性と弟らしき小さな少年と一緒であった。白いワンピースを着た長い黒髪を後ろ束ねた少女は、スヌーピーの英語本を読んでいた。

中学生の僕は、それまで異性に対して綺麗だとか可愛いだという感情を抱いたことがなかった。女というものは、ただ口うるさくめんどくさい存在でしかなかった。だが僕は誰にも気づかれないよう彼女をぬすみ見た。

やがて車窓から見る景色も暗闇となり、車内の人々も旅立ちの興奮から冷め眠りにつきかける頃、僕は、車窓から暗い外を見つめている白いワンピースの少女をこっそり盗み見た。

彼女の長い黒髪、その透きとおるような彼女の横顔。僕は彼女の美しさに次第に吸い込まれていった。その時、ふと彼女が見つめている窓をみると、そこには鏡のようになった窓硝子に写るこちらを見つめる少女の目があった。

そして僕は、その後二度とその少女の方を見ることができぬまま、その夜行列車は眠りについたのである。

「初恋は遠い昔の打ち上げ花火」
たしかサントリーのCMだった気がします。


2005年に書いたものになります。
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★祈りの旗

2024-10-06 | 忘れえぬ人々

 今から四年前の八月。急にアメリカへの帰国が決まったフレッドから、あることを頼まれた。
 「アメリカへ帰国する前に、どうしてもこれを持ち主に返したいんだ。」
 彼が僕に見せたものは、第二次世界大戦時に作られたと思われる絹製の国旗だった。その日の丸の周囲には、戦場へ赴く若者へ送る多くの人々のメッセージが書かれていた。
 フレッドは僕より2歳上のアメリカ人だ。だから、彼が、直接この絹の旗を手にいれたわけではない。彼が日本へ初めて来たのは、20年前である。その絹の旗は、彼の祖父からその時手渡されたものだった。
 「フレッド。わしはこの旗をなんとしてでも、持ち主のもとに返してあげたんだ。だが、わしはもう長くない。だから、自分の手でこれを返すことはできないだろう。でも、お前ならいつか持ち主を探しだせるかもしれない。日本へ行ったら、持ち主を探して、返しておくれ。頼んだよ・・・。」
 フレッドの祖父は癌だった。彼は孫のフレッドに自らの想いを託したのだった。しかし、彼の祖父は、その絹の旗をどこでどのようにして手に入れたのかを、決して語ることなく亡くなってしまった。

 僕らは、その絹の旗に書かれてある○○神社という名前を手がかりに探すことにしたが、フレッドが帰国するまでの残り時間は10日あまりしかない。僕には、それがとてつもなく気の遠くなるようなことに感じた。しかし、インターネットで、それらしき神社が熊本県に存在するということがわかったのだ。
 だが同時に、フレッドはあることも心配していた。その絹の旗に名の書かれてある奥さんと思われる女性は、今では別の人生を歩んでいるかもしれない。彼がコンタクトすることによって、今の生活を乱すことになるかもしれない。突然アメリカ人が尋ねてきて、どのような反応を示すのだろうか、というような事だった。
 そんな心配はあるものの、我々は思い切ってその○○神社に電話をかけ、そのような事情も含めて説明しすることに決めた。我々は、ただこの旗を持ち主のもとへ届けたいだけなこと、そしてその行為が持ち主の人生を傷つけてしまうような事態になる可能性があるのであれば、あきらめるつもりであることも。

 最初に、○○神社へ電話をしてから約7日目。先方から連絡があった。事情を説明しておいた○○神主からの電話であった。それは、フレッドが帰国する3日前のことだった。
 「みつかりましたよ。奥さんは今もご健在です。大変驚かれています。それと同時に、はやりご心配されていました。でも、旗は返せますよ。」


 
当日の熊本は、その年の国体の開催地ということで、その開催前日と重なり、東京からの直行便が取れず、我々は早朝の羽田発・福岡行の飛行機に乗り、そこからローカル線を乗り継いで目的地まで行かなければならなかった。フレッドにとては、帰国2日前ということもあり、東京と熊本間を日帰りしなければならないという強行軍の旅でもあった。
 僕らは、早朝の羽田発福岡行きの飛行機に乗り、そして福岡からローカル線に乗り継ぎ熊本へと向かうことしにした。その旅の間、普段は陽気なフレッドがずっと無口だった。そして時折思い出したように、「奥さんは喜ぶだろうか?迷惑なことじゃないだろうか?アメリカ人に突然こんなものを渡されて彼女を傷つけはしいないだろうか?」、と僕に問い掛けた。彼は旅の途中、何度も同じ質問を繰り返した。

 「大丈夫。きっと喜ぶよ。心配することはない。」その度に、僕は自分自身の内にもある同じ不安感に気づかれないように、彼に言った。
 それは、とても夏の陽射しの強い日だった。

 
 対面の場所は、○○神社のある○○村役場に設定されていた。半日以上をかけた長い旅を終え、ようやく○○村役場に到着した僕らを待ちうけていたのは、○○神社の神主○○さんだった。そして僕らは、到着するなりすぐさま、助役室へと案内された。

 「わざわざ遠いところまでお越しくださって、ありがとうございます。役場の助役が今日は助役室を提供してくれていますので、早速、ご案内します。」

 「中にはもう、奥さんが来ていらっしゃいます。」助役室の前で、神主○○さんはフレッドにその扉を開けるよう促すように云った。フレッドは、ゆっくりとそのドアを開た。開けられた扉から広がる助役室には、凛とした一人の小柄な老婦人が立っていた。
 フレッドは、彼女の姿を見た瞬間、今までの長旅の心配事がまるで嘘であるかのように、とても豊かな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと彼女のもとへ近づいていった。その老婦人はただ無言のまま涙を浮かべた目で、次第に近づく背の高いフレッドを見つめていた。そして、言葉ひとつかわさぬままフレッドは、老婦人を優しくだきしめた。彼女はフレッドの胸で泣いていた。
 その部屋にいた者誰もが声を発さなかった。最初の言葉は、彼ら二人が発するものであると誰もがそう感じた。外から聞こえる真夏の蝉の声だけが、二人を包み込んだ。

 
 「今、まぶたを閉じても、この旗のどこに、何が書かれているかはっきりと憶えています。」老婦人は時折こぼれる涙をぬぐいながらその旗の思い出を静かに語り始めた。
 
この絹の旗は、主人を送り出す宴が終り、二人だけになった夜、渡しましたものです。それは、召集令状が来たその日の夜のことでした。それが二人で過ごした最後の夜です。そして翌日、彼は出兵して行きました。召集されて暫くは、彼は同じ熊本県内の駐屯地にいましたが逢うことは許されませんでした。しかし、いよいよ戦地へと出兵する夜。軍隊の知り合いを通じ、その夜彼が戦地へと旅立つことを聞きました。彼と逢うことは許されないが、彼に汽車の窓をあけておくように伝えておくので、開いている窓があるとそこに彼がいると思いなさいというものでした。
 私は、駅から離れた高台から、いつ通るかもやしれない汽車を朝から待ち続けました。待っても待ってもそれらしき汽車はなく結局夜になってしまいました。そして夜になり、それらしき列車が遠くに見えたのです。そして、その列車の一つの窓から灯りがこぼれていたのです。私にとって、あの人の最後の姿は、遠くを走る汽車の車窓から洩れる灯りです。その灯りの中にあの人がいたのかどうかはわかりません。でも、私は、あの灯の中に、必ず私を見つめているあの人がいるんだと信じて、線香花
火のように儚(はかな)く遠くへ消えゆく夜汽車の灯りに向かって、懸命に手を振り続けました。それは、私が21歳の時でした。あの人の妻になった、半年後のことでした。 
 その老婦人は、彼女の膝におかれた「絹の旗」に、その穏やかな眼差しを落としながら、亡き夫との「最後の思い出」を静かに語った。それは時折、蝉の鳴き声の聞こえる八月の午後のことだった。


 「随分と迷いましたが、今日ここに来て良かったと思っています。」老婦人は、話を続けた。
 「私は、主人を失ったあと、再婚しました。再婚先へは自分が再婚であったことは、今まで、隠してきました。再婚相手はとても良い人で、子供や孫にも恵まれ、幸せな人生を送ってこれたと思っています。その再婚相手も数年前に亡くなりましたが、今も子や孫達に囲まれ、幸せに暮らしています。」
 そういいながら、彼女の横に座る、大学生の孫にその穏やかな視線を移した。

 「これで、私の戦争は終わりました。ずっと終わらなかったものが、今やっと終わりました。たしかに、辛い記憶ですが、今こうして、こんなに暖かい人に出会え、ほんとうに幸せです。」 我々は、静かに彼女の、話を聞いた。
 「今日、ここに来る決心をした時、私は子供や孫達に、私の物語を打ち明けました。今日ここへは、その孫の一人が連れてきてくれました。そして今私は、自分だけのためのだけでなく、孫達のためにも、私の話を伝えておくことが、私の仕事だと思えるようになりました。」
 静かに彼女の話を聞いていた彼女の孫は、恥かしそうに微笑み返した。



 東京への帰路は、熊本から羽田への航空便が取れた。○○村役場から熊本空港へは、車で約1時間の旅でだった。長旅にもかかわらず、我々の滞在時間は一時間ほどだった。帰路の予定の便に乗るため、我々は空港へと急いだ。だが、空港へ近づくにつれ、周辺道路の警備が厳しくなった。
 「おそらく、明日から熊本国体が始まるからだと思う。」私は、フレッドに説明した。しかし、空港へ近づくにつれ、それは何か少し違うように思えてきた。路辺道路には警察・自衛官の数が次第に多くなっていったからだ。

 空港に到着すると、そこには何かを待つ人たちが溢れていた。皆それぞれが小さな国旗を持っていた。そしてその理由は、我々が搭乗する予定の熊本から羽田行き便が到着すると明らかになった。空港ゲートには何かを待つ人々で溢れかえっている。旅人の我々はその意味が理解できなかったが、人々が笑顔を投げかけているその先の到着ゲートを人々と同じように見守っていた。
 その時である、ゲートから現われたのは、穏やかな笑顔を浮かべながら出てくる皇太子殿下の姿だった。
 そしてその次の瞬間、待っていた人々からは溢れるばかりの笑顔がこぼれ、その割れんばかりの歓声が空港中に沸き起こった。フレッドもとても幸せそうな笑顔を浮かべながら手を振っていた。

 その夏のその日、その瞬間、熊本空港には、数えきれないくらい沢山の小さな旗が、幸せと平和の象徴としていつまでも揺れていた。



「 不幸な物語のあとには、かならず幸福な人生が出番をまっています。」
(寺山修司)

***あとがき***

 あまりにできすぎたような話で、今思い返すと、それは僕が観た夢物語ではなかったかと錯覚を起しそうになってしまう時もある。だが、これは事実としてすべて僕が見たものある。 
 時代の潮流にその人生を狂わされてしまった一人の老婦人と、異国の地で命を落としたその夫との哀しい最期の思い出。生きて帰ってきてほしいという祈りを込めた絹の旗は、その願いは届かず敵国であったアメリカ人の手に渡ってしまう。それが、半世紀以上という時の流れと、二つの世代を超えて、その旗は遥か海を渡って、再び持ち主のもとへ帰ることになる。
 この日、かつて哀しみの象徴であったその旗は、今では平和の象徴として揺れていた。

 不幸と幸福、哀しみと喜び、祈りと失意。人の人生というものは長い視線でみると、その運命というもののなかに、これらをどこかで帳尻があわせるような方程式が、そのどこかに隠されているのかもしれない、と僕は思う。


2005年に書いたものになります。

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★少女と母

2024-08-20 | 忘れえぬ人々
毎朝、自宅を出て東急田園都市線T駅に向かう途中、多くの小学生達とすれ違う。

彼らは、僕と逆方向に向かい、約5-10人のグループを組み地元の小学校に通う児童達である。彼らの背丈は、丁度麦くらいでの高さで、列を成した彼らとすれ違うたびに、なにやら麦畑でも歩いているような錯覚になる。

どれもがだいたいは、5-6年生と思われる子供と、1-2年生と見られる幾人かの低学年のグループで構成されており、高学年と思われる児童は、真っ直ぐ小学校向い歩きながらも、時折低学年の子供達が気になるのか、時折振り返っては年下の子供を気にかけながら歩いているが何とも微笑ましい。

そして、そんな子供達とすれ違ったあと、ほぼ必ずあう一人の少女がいる。

彼女は、他の子供達のようにグループで登校せず、母親とみられる女性といつも一緒に歩いているのである。なぜならば、彼女の両足には、ギブスがはめられ、両足共に曲った彼女の足を支えている。一歩歩くたびに彼女の両膝は大きく左右に揺れ、その度に彼女の体全体が大きく不安定に揺れている。

彼女の歩くスピードは、非常に遅く、通常の子供であれば数秒で歩く距離を、彼女の場合数分は掛かっているのではないかと思われる。僕の見る少女の目はいつも真剣で、彼女の額にはいつもうっすらと汗が浮んでいる。

母親と思われる女性は、少女の腕に軽く手を添えながらも少女と同じ歩調で歩き、決して少女の歩行を手助けをしない。少女がどこから通っているのかはわからないが、僕のすれ違う場所に辿り着くだけでも相当の時間を費やしているのだろうと思う。

僕は、この二人が会話を交わしているのを見たことがない。母親と思われる女性は、ただ黙って少女の歩くスピードに合わせて歩いているだけである。少女とすれ違い、暫くして振り替えってみても、彼女は先ほどすれ違った場所とほとんど同じ場所を歩いている。

あなたにとっての通学生活は、随分と過酷なものなんだろうと思う。毎朝他の子供たちより早く家をでて、それでも途中でどんどん抜かれながら学校への道を歩く。しかし、僕には一歩一歩ゆっくり足を進めるあなたが、他の子供たちよりもずっと早く大人への道を駆け上がっているように見えるのです。そして、その6年間の学校生活の中で、学校での授業以上に登校下校の道が与えるものが、いずれあなたにとって大きなものとなるように思えるのです。歩き続けたという自信と、寡黙に支え続けるあなたとあなたの母親との絆・・・。

そんなことを考えながら、僕はまた寝坊してしまったため、早足でT駅に向かうのである。

「人に魚を与えると一日食べることができる。人に魚を釣ることを教えれば一生生きてゆくことができる」
中国故事

2005年に書いたものです
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★『生きる』 黒澤明監督作品 【日本】

2024-01-28 | 映画
この世に生まれた瞬間から「生きる」という時間の流れが始まる。そして人は、その時間の流れの意味を意識せずまま人生を送る。「死」ということはその終焉である。だが「死」はは単に「生きる」ということの終焉という意味だけだろうか。知識として知ることはできても、実感できない「死」。いつかでしかない「死」。しかし、人はその「死」を実感できた時、ほんとうの「生きる」という意味を知ることができるのかもしれない。

    
市役所の市民課長である渡辺勘治(志村喬)は、勤続30年無欠勤が目前という模範的役人である。仕事への情熱はとうの昔に失い、毎日書類の山に囲まれ、まわってきた書類にただ判を押すだけの無為な時間を送っている。ある日、下町の主婦達が「近所に汚水溜めがあるため子供が病気になる、何とかできないか、例えば公園を作るとか」と市民課に陳情にやって来る。だが、仕事への情熱を持たぬ渡辺は顔すら上げずに「土木課」とそっけなく答えるだけだった。主婦達は、市民課から始まり、土木課、公園課、水道課、衛生課・・・・・・・・と、役所内を転々とたらいまわしにされるが、どこでも真剣に取り合ってもらえず結局帰っていく。そして、渡辺をはじめ、誰もそんなことは意に介しない。
          
渡辺は病院にいた。最近胃の調子が芳しくないからだ。待合室で出会った患者との会話で、自分の胃痛が胃癌ではないかと疑う。だが、医師は云う「ただの胃潰瘍です」と。しかし、渡辺は自分が末期癌あると確信する。それも余命いくばくもない胃癌であると。

その夜、渡辺は、絶望感にさいなまれ、二階の息子夫婦の居間で、電気もつけずにひとり、息子の光男(金子信雄)の帰りを待っていた。だが、「自分が胃癌だと知って、どんなに心配し慰めてくれるだろう」と待って息子は冷たく言う「お父さん、僕たちの部屋に無断で入らないでください」と。・・・・・・結局、胃癌のことを打ち明けるきっかけすら失っった渡辺は、うなだれながら寂しく階段を下りてゆくしかなかった。

洒落た二階の息子夫婦の部屋とは対照的に、何もない自分の部屋に置かれた唯一の仏壇の中の妻の遺影を見つめる渡辺。2階の息子夫婦の部屋からは陽気なレコードが聞こえてくる。自分の病気を打ち明けたい、だが、きっかけが掴めない。できることといえば、一人布団の中ですすり泣くだけだった。

瞼を閉じると、20年前に妻が亡くなった日のこと、息子のために再婚話を断った日のことをが蘇ってくる・・・・・・野球で息子が活躍する姿を見守っていたあの日、
病気で手術室へ運ばれてゆく息子を励ましたあの日、戦地へ赴く息子を駅で見送ったあの日・・・・・・あの日の父と息子は深い愛情で結ばれていた。しかし、藁をもつかむ思いで息子に頼ろうとした時、もう子供の心は遠くへ行ってしまっていた。渡辺は涙にくれて、ひとり布団の中で、息子の名を呼び続けるしかなかった・・・・・・光男、光男、光男。
        
翌日、渡辺は預金を下ろし町をさまよい歩く。市役所の同僚達は無断欠勤する渡辺をいぶかった。渡辺はあと1ヶ月で30年間無欠勤の表彰ものだったからだ。そんな渡辺は20年来の禁酒を破り酒を飲んでいた。そして、そこで知り合った小説家(伊藤雄之助)に自分が末期の胃がんだと告白する。そして、引き出した貯金の使えて欲しいと頼む。数十年ただひたすらに質素な生活を送ってきた渡辺には、お金の使いかたすらわからないのだ。小説家は、余命いくばくもないこの男に最後の快楽を味合わせようと歓楽街の案内役を買って出る。パチンコ、ビアホール、ストリップ、キャバレー、スタンドバー・・・・・・それらは、渡辺にとっては、いまだかつて来た事のない場所ばかりだ。しかし、そこには更なる絶望だけしかないことを知る。そして訪れたキャバレーで、ピアニストの伴奏に合わせ、ただ一つ知っている歌「ゴンドラの唄」を歌う。渡辺の目からは涙が流れ落ちる。
          
その朝帰りの途中、渡辺は市民課の小田切とよに呼びとめられる。彼女は、辞表に判をもらうために渡辺を訪ねるところだった。渡辺は、家に彼女連れ帰り、辞表に判を押してやる。息子夫婦はそんな様子を見て、父親が女遊びをしているのだと勘違いする。渡辺は、再びとよと家を出て、彼女に新しい靴下を買ってやり、喫茶店に入る。そして、とよの明るさに、少し笑顔をとり戻す。

渡辺は、市役所を辞め、町工場に働くとよの活気の源を知りたくて、彼女につきまとうようになる。そして、喫茶店で、渡辺は自分が胃がんであることを話した。そんな渡辺に、とよは町工場で作っているウサギの人形を出して言う・・・・・「今、こんなものを作っているの。結構楽しいのよ。日本中の子供と仲良くなったような気がするわ。課長さんも何か、作ってみたら?」 
そう言われて、彼は初めて、事なかれ主義の盲目判を、機械的に押していたに過ぎなかった三十年間の自分の勤務ぶりを反省した。これでいいのかと思った時、彼は後いくばくもない生命の限りに生きたいという気持ちに燃えた。

渡辺は生まれ変わる。そのとき、その喫茶店の奥の席では、若き女学生達が友人の誕生日パーティーに「ハッピーバースデートゥーユー」を歌っていた。

その翌日から出勤した彼の目に止まったのが、かつて彼が付箋をつけて土木課へ回した「暗渠修理及埋立陳情書」であった。そして、すぐさま先日主婦達が陳情に来た例の汚水溜めのある土地の視察に出かけたのだ。そこは雨が降りだしぬかるんだ土地だった。雨に打たれながら、渡辺は確信した・・・・・・やる気さえあれば、この場所を公園にできると・・・・・・。

そして渡辺はそれから5ヵ月後に死んだ。出来上がったばかりの公園で、ひとりひっそりと死んでいたのだ。


渡辺の家で通夜が営まれた。市役所の同僚、部下、上司が集まった。主婦達も焼香に来た。残った渡辺の同僚や部下達は、5ヶ月前から突然変わった渡辺のことを話し始める・・・・・渡辺は凍死した、いや、自殺したのだ、いや、実は胃がんだった、しかし彼はそれを知らなかった、いや、知っていてその上で公園を作ったんだ・・・・と。
雨に打たれるのも忘れて、公園の建築現場を歩き廻る渡辺。公園課長の傍らでねばりにねばる渡辺。土木課、下水課、総務課と、通い詰め、公園計画を説得していく渡辺。助役にこの件は見送れといわれても喰らい下がる渡辺。そんな、何度も何度も踏みつけにされ、無視されつづける渡辺に部下の大野は云う。
「課長は腹が立たないんですか、こんなに踏みつけにされて・・・」
だが、渡辺は云う、
「いや、私は・・・人を憎んでなんかいられない。私には、そ、そんな暇はない」
渡辺は粘り強かった。断られても断られても何度も何度も粘り強く市役所内を説いて回った。
渡辺の部下達が聞いた生前の渡辺の言葉から、渡辺は自分の死を悟ってあのような行動にでたのだと、通夜の客は興奮し、自己弁護、自己批判、渡辺への賛辞などで湧きかえる。

そんなとき、
公園で渡辺の帽子を拾ったというひとりの警察官が焼香にやって来くる。そして警官は言う・・・実は昨夜、公園で渡辺を見た・・・と。そして・・・・・あの時、声をかけていれば渡辺は死なずに済んだのではないか・・・・・と詫びる。だが、その警官は云う、「声をかけれなかったのは・・・・・・雪の降る中、ひとりブランコに揺られ、あまりにもほのぼのとした笑みを浮かべながら、幸せそうに何か歌を歌っていた。」からだと。

いのち短し 恋せよ乙女 
紅き唇 あせぬ間に 
熱き血潮の冷えぬ間に 
明日の月日はないものを 
いのち短し 恋せよ乙女 
黒髪の色 あせぬ間に
心のほのお 消えぬ間に 
今日はふたたび来ぬものを
     -ゴンドラの唄ー

降り積もった雪の中に、静かな顔で横たわる彼が発見されたのは、その翌朝のことだった。


「もし自分が余命いくばくもないと知ったら?」「もし自分の父や母が余命いくばくもないとわかったら?」どのように、にその残された時間を生きるだろうか、生きさせてあげたいと思うだろうか。「死」はいつか必ず訪れる。全ての生きとし生けるものには必ず訪れる。だが、残された時間は誰にもわからない。この作品は、「死」というものを通して、「生きる」ということ、そして「今を生きる」ということのもつ意味を、
観る者の心にしみじみと伝えてくれる。


<後記>
海外の人に「最も素敵な日本映画(あるいはアジア映画)は?」と問われたら、どの作品を答えるだろうか・・・・・・沢山ある。でもはやり一つとなると僕はこの作品を選ぶだろう。日本映画という枠を超えて「最も感動した映画は?」と問われてもこの作品は必ず入ってくる。50年以上も前に作られた作品であるが、今観てもこの映画の完成度、普遍性には、震えるほどの感動を覚える。
この作品は、海外でも日本語の「IKIRU」で通じ、今尚多くの人々に観られている作品である。米「Time」誌が選んだ名作映画100選の中に黒澤作品が二本はいっている。そのうちの一本が『生きる』である。同時に同誌は『50年代の最高傑作』としてこの作品を選んでいる。
映画評論家 山田宏一氏の評論によると、『生きる』は、「ウンベルトD」「野いちご」とともに老いと死を見つめた映画史上の3大名作のうちのひとつとしてみなされ、他人の幸せのために人生を捧げる献身と犠牲のテーマにおいてチャップリンの「ライムライト」にしばしば比較されるそうである。当作品は、
1953年度ベルリン国際映画祭銀熊賞。


2005年に書いたものになります

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★ある祈りの詩 (日野原重明さんの著書より)

2005-11-24 | 雑感

日野原重明さんの著書「こころ上手に生きる」に、NYリハビリテーション研究所に書かれた末期癌患者の詩が紹介されていた。

大事をなそうとして
力をあたえてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまづくようにと
弱さを味わった

人生を享受しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人のなかでもっとも豊に祝福されたのだ

思いどうりにいかないことばかりの毎日、そして人生。求めたものが実現されない連続、失うものの連続。それによる憔悴、不安、哀しみ。しかし、この詩が伝えるように、それは別の何かが与えられているのかもしれない。そうだとしたら、もう少しがんばってみようと思う。時間がたてば、その意味が自分にもわかるかもしれない。

 

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★冬支度(ふゆじたく)

2005-11-20 | 雑感





街を歩くとイルミネーションが目に留る。
この季節になるとデパートのショーウィンドウも華やかで美しい。

「冬支度」。今はあまり使われなくなった言葉。
昔の人はこの季節になると来るべき冬のために、
いろんな準備にとりかかった。
今はどんな季節でも同じ生活ができる。
同じ食が手に入る。
家にも暖房設備が完備している。
もうすぐ来る冬に備えて様々な準備をする必要もない。

しかし、こんなに人の暮らしは代わったが、
この季節になると、
人の心の中には、
訪れる冬と同時に来る新しい年を、
新たに迎えたいという気持ちが今も変わらず生まれてくる。

日々時間に追われていると季節が移りかわるのを忘れてしまいます。
ふっと気がつくともう冬。

「冬支度」。なんとなくよい響きです。

 

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★NHKスペシャル「高倉健が出会った中国」

2005-11-19 | 雑感

NHKスペシャル「高倉健が出会った中国」(19日放送)を観た。

東京映画祭で観た「単騎、千里を走る。」とそのときの張芸謀(チャン・イーモウ)監督の舞台挨拶の感動をよみがえらせた。映画祭でも上映されたこの映画のメーキング・フィルムでもそうであったが、この映画の製作を通じた高倉健と現地の中国人スタッフ(出演者のすべて現地にすむ素人の人々)との交流に瑞々しい共感を感じた。

最近の日中関係は冷めている。60年も前に政府・軍隊の始めた戦争の傷が今も両国間に深い溝を残している。そんな冷めた政府間の関係とは別に、この映画作品を通じて結ばれた日本人と中国人との交流の姿を観てすこしほっと気分だ。

民族、国、生まれた環境は違っても、人は同じことに喜び、悲しむ、そして祈る。同じように生まれ、その時代を生き、そして死ぬ。日々のメディアが伝えることに流されず、自分の目で見て感じそれを知るということは大切なことだと思う。知らないということは偏見を生む、そして偏見は差別を生む。

今回の映画とその制作の過程を通じたこの番組は、そんなことを改めて考えさせるものだったと思う。


21日(月)には、NHK BSハイビジョンで「高倉健  日中の壁を越えた絆」(20:00-21:50)の2時間スペシャルが放映されるようであるので楽しみだ。

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★「さらば、わが愛~覇王別姫」 チェン・カイコー監督作品 【香港・中国・台湾合作】

2005-11-03 | 良質アジア映画

3時間の長編映画であるがあっという間に物語は観終わる。ストーリーそのものだけでなく、蝶衣役のレスリー・チャン切ない心情表現と菊仙役コン・リーの香る母性表現なしにこの映画はありえない。米「Time」誌が選んだ20世紀の名作映画100選のなかに、黒澤明「七人の侍」「生きる」小津安二郎「東京物語」とともに、アジアから選ばれた数少ない作品のひとつというのは当然だろう。


人はそれぞれの運命に責任を負わなければならない。自らの力ではどうしようもないような生まれ育った境遇、そして生きたその時代、たとえそれらがどんなものであったとしても、人は運命に自ら責任をもつよう強いられている。『さらば、わが愛~覇王別姫』は、京劇の古典『覇王別姫』を演じる一人の女形役者の波乱の生涯を通じて、観るものの心に、運命とというものがもつ哀しみを深く刻みこむ。

母との別れ
厳冷のある日、母の暖かい腕に抱かれれた少年・小豆子、母の愛で包まれている。しかし、娼妓である母は、小豆子を、孤児や貧民の子供たちが集まる京劇の養成所に連れてゆく。母は泣き崩れながら養成所の老師に訴える。
「遊郭では大きくなってゆく我が子を育てられない」。
しかし、「指が6本ある」という理由で老師に断わられる。
そして母は小豆子の指を一本切断する。わが子の将来を想うがゆえのものとはいえ母は子を捨てる。こんな衝撃的なプロローグから始まるこの壮大な物語に観るものは引き込まれる。

養成所の日々
小豆子は娼妓の子として他の子供たちからいじめられたが、彼を弟のようにかばったのは小石頭だった。養成所での過酷な修行の毎日。女性的な小豆子は「女になれ」と老師に躾けられる。しかし、頑なな小豆子は、何度殴られようともうけいれない。そんな小豆子に老師は「覇王別姫」の物語りを語る。

「覇王別姫」は楚と漢の争いを背景にした物語りである
楚はどのような人物であったのか
勇将の誉れ高い無敵の英雄
敵の大軍を討ち破ったこと数知れず
だが、運は彼に見方しなかった
兵を進めたとき
漢王劉邦率いる伏兵に遭遇
その夜、強風に乗じて
劉邦の兵は楚の歌を歌い
楚の兵たちは王を見捨てて敗走を始めた
いかなる英雄いえども
定められた運命には逆らえないのだ
かつては絶大権勢を誇った楚王
だが最後に残ったのは一人の女と一頭の馬
馬を逃がそうとしたが馬は動こうとせず
愛姫も王のそばにとどまった
愛姫は王に酒を注ぎ
剣を手に王のために最後の舞を舞って
そのまま剣で我がのどを突き
王への貞節を全うした

覇王別姫の物語は、我々に何を教えているのか
人はそれぞれの運命に責任を負わねばならぬ、ということだ。

京劇役者の日々
やがて、時の流れとともに、女性的な小豆子は女役に、男性的な小石頭は男役者として見事に成長する。
小豆子は程蝶衣(レスリー・チャン)、小石頭は段小(チャン・フォンイー)と芸名を改め、京劇『覇王別姫』の名コンビとして京劇界の華となる。しかし、その絶頂期に生じる溝。
段小と演ずる京劇「覇王別姫」が人生のすべての程蝶衣、京劇はあくまで生きるための手段ですぎない段小。

盧溝橋事件~日本統治時代
段小は遊郭の娼妓・菊仙(コン・リー)と結婚する。この時から、程蝶衣と段小との間に更に深い溝が生まれる。そして、北京は日本軍に占領される。

ある日段小は楽屋で騒動を起こし連行されてしまう。菊仙は日本側に取り入ってもらえるのだったら段小と別れてもいいと程蝶衣に懇願する。程蝶衣の協力で釈放された段小なのだが、日本の犬と程蝶衣を罵り菊仙を連れて去る。そして程蝶衣と段小は別の道を歩むこととなる。傷ついた蝶衣はやがてアヘンへと溺れてゆく。
しかし、アヘンに溺れる程蝶衣を救ったのは、段小と菊仙だった。

共産党政権樹立、そして文化大革命 
日本軍の敗退で抗日戦争は終わり、共産党政権の誕生とともに程蝶衣と段小は再び舞台に立つが、京劇は革命思想に沿うよう変革を求められていた。変革に懐疑的な蝶衣は批判され、『覇王別姫』の虞姫役を奪われてしまう。

そして、その後訪れた文化大革命の波。政治的圧力を受け、反共分子として段小は程蝶衣の過去の罪を摘発せよと強制される。段小はそれに屈し、程蝶衣がかつて日本軍将校のために歌を歌ったことを訴える。同時に娼婦だった菊仙など愛していないと言ってしまう。ショックを受けた程蝶衣は、菊仙がかつて遊郭の娼妓であったことを摘発する。そして菊仙は自らの命を絶つ。

終止符 
文化大革命も終焉し、2人は11年ぶりに再会する。蝶衣と段小は無人の体育館で2人だけで『覇王別姫』を演じる。空白の長い月日も二人の演技には陰りをおとしていない。
しかしながら、舞い終わった時、程蝶衣はその生涯に終止符をうつ。


母に捨てられた境遇。「男として生まれた、女ではない」と頑なに女形として生きることを受け入れない養成所の日々、だがやがては『覇王別姫』の愛姫役に自らの人生を重ねるようになる。愛した人・段小は遊郭の娼妓・菊仙と契ってしまう。それゆえ彼女を深く憎む。
だが同時に彼女に遊郭の娼妓であった母の姿を重ね合わせる。アヘンに溺れた絶望の日々、そこから救ったのは菊仙の深い愛情。しかしながら、その菊仙を死に追いやってしまう。

蝶衣にとって最期に舞う『覇王別姫』。それは、女としていきること、段小への想いの終止符、そして菊仙への償いを自らの死という形で負うことであった。
少年の頃、養成所の老師に聞いた「『覇王別姫』の物語が教えているもの、それは『人はそれぞれの運命に責任を負わねばならぬ。』ということだ。」という言葉が重くのしかかる。

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★東京国際映画祭~高倉健と張芸謀(チャン・イーモウ)監督が目の前を~

2005-10-22 | 良質アジア映画

今日は、東京国際映画祭オープニング上映。高倉健主演 張芸謀(チャン・イーモウ)監督『単騎、千里を走る。』の日である。

当たったチケットを見ると、17:40会場18:00開始とある。しかし、更によくみると小さな文字で「16:00オープニングアリーナイベントに入場可」とあるではないか。

「なんだこりゃ???」
意味がよくわからないので、インターネットで検索してみると、映画祭会場の六本木ヒルズにもうけられたレッドカーペットを、今回の出品作品の出演者や監督たちがあるきイベント会場に続々と登場するとあるではないか。

せっかくなので、行ってみることにした。

アリーナ会場についたのが遅かったので、横手のほうの少々見づらい席しか空いていない・・・が、この席案外よいのだ。それはなぜかというと、アリーナ壇上にあがった人たちが会場からでてゆくときに、そのすぐ横の柵の向こう側そ通るのである。

ここで、約30年前映画小僧であったボクは、密かにある策略を考えていたのである。

続々と登場するTVや映画で見たことのある人々が、レッドカーペットをあるきアリーナ壇上に登場しては消えてゆく・・・・吉岡秀隆、小雪、工藤静香、榎木孝明、豊川悦司、中井貴一、寺尾聡、吉川ひなの、津川雅彦、木村佳乃、深津絵里、白石美帆・・・等と。

しかし、この手のものにはそれほど興味もないのだが。(とはいいつつ、木村佳乃はTVで見るのと違い、めちゃくちゃ綺麗なので驚いた。そんでもって、ボクの横の席をみると先日TVでやってた「飛鳥、まだ見ぬ子への」紺野まひるが座っている。これまためちゃくちゃかわいいのでやたらと気になった。)

それはさておき・・・・・

「よもや、これはひょっとして・・・」
「トリを飾って最後に登場するのは・・・」
と、最後まで待っていると。

「来ました!」
予想どうりトリは、高倉健と張芸謀(チャン・イーモウ)監督!やはりこの二人にもっとも大きな歓声。壇上にあがり軽く挨拶をして、手を振りながら会場からでてゆく二人。

ここで、元映画小僧のボクは、横を通過する健さんと張芸謀監督に向かって、「ミスター」と呼び手を出してみた。その前も何度も他の映画人たちと握手するチャンスはあったのであるが、そこでしてしまえば係りの人に止められる可能性が高い。また、シャイな日本人は最初に誰かがやらない限りしないが、誰かがやると真似し始める。であるからして、最後の最後までこのチャンスを待っていたのである。

そしたら「なんと!」
張芸謀監督が近寄ってきて、穏やかな微笑みで握手してくれたのである。
わずか一瞬んの出来事だったが、なんとも幸せな時間だった。

ところで、オープニング上映作品『単騎、千里を走る。』は予想どうり素晴らしい作品であった。控えめな演出と静かで穏やかストーリーにいつのまにか自然に瞳に涙が潤う。有名俳優、派手なストリー展開、とってつけたような演出のない映画でないと好きになれない人もいるかもしれないが、こういう映画はボクは好きである。近年、任侠アクションものが続いていた張芸謀監督だったが「あの子を探して」以前のテイストの作品である。(劇場予告編) この映画については、後日ゆっくりと書きたいと思う。

上映前には、張芸謀監督の作った高倉健と現地のスタッフとの交流を描いたメーキング・フィルムの特別上映があり、既にこの段階で感動してしまった。健さんが現地のスタッフに慕われていたその姿に胸打たれる。また、そのフィルムを撮る監督の視線は「この監督は本当に健さんのことが好きでたまらないんだなあ」と感服する。メーキング・フィルムのナレーションも張芸謀監督ご本人である。さすが元俳優をされていただけに、静かなその語り口は染み入ってくる。

上映前の舞台挨拶では、また二人が登場。

今やアジアのみならず世界を代表する映画作家の張芸謀監督(55歳)の健さん(74歳)への気遣いは見ていてとても美しかった。また、健さんも「できれば、彼を養子にしたい」と・・・まんざら冗談ではなかった。

ボクは知らなかったが、中国では文革後初めて上映された外国映画が健さんの「君よ憤怒の河を渉れ」だったそうだ。当時中国全土で公開され大ヒットとなったそうである。いまだに、その主人公の名前を人々が覚えているくらい高倉健は最も親われている日本人だのだそうだ。最近の、日中政府間については冷めた関係のニュースばかりを耳にして嫌になるが、こんな話を聞くと、ほっとする。

舞台からもおりる際には、お互いが先を譲りあいなかなか退場しない。そんな姿に会場の人たちも、何か忘れかけていた昔のアジア人がもっていた謙譲の精神の美しさを見て、会場全体が穏やかなムードに包まれた。

『単騎、千里を走る。』の撮影風景と現地の人々との交流については、11月19日NHKスペシャル『絆(きずな)~高倉健が出会った中国の人々~』があるそうである。是非、これも観てみたい。

なお、張芸謀監督は今年の東京国際映画祭の審査委員長を務めている。

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★さよなら河童(かっぱ)

2005-10-04 | エッセイ
先日関西方面で仕事があった。帰路はそのついでについでに立ち寄った実家から東京へ帰るために空港へとタクシーに乗った。

タクシーの中から、外の景色を眺めながら、
「この辺りは今でこそ住宅が密集しているが、昔はのどかな田園風景が広がっていたものだなあ。」
などと想いをめぐらせた。昔は小さかった道路も様変わりし今では大きな幹線道路となっている。この道路沿いには、古い神社がある。そしてその神社には隣接した公園があった。公園は今でもあった。

子供の頃、この公園の池には河童が住んでいると信じていた。死んだ祖父からよく聞かされたからだ。

「ここの池には、河童が住んでるからな。近づいたらあかんで」
祖父と公園に行くたびに、祖父は脅かすように僕に言っていた。

「じいちゃん、河童って怖いのん?」
それは、大人から聞いたことは、無条件に信じていた時代だった。他の子供たちも同じだった。

「怖いでえ。急に池から出てきて、池の中に引っ張り込まれるんや。お前も気つけなあかん。そやから池には近づいたらあかんで」

この池の中には河童がいるのか・・・と思うと、水面の小さな波を河童がたてているような感覚に襲われ、祖父の影に隠れながらも、怖いもの見たさで池の水面から目が離せなかったものである・・・ほんとにいるのだろうか・・・と。

今となってはわかる。河童は確かににいたのだ。人間に似た容姿をもつずる賢い河童は、実は僕らを守り続けてきた。彼の存在によって子供達は池に近づくこともなかった。近づくことがあっても、恐る恐る近づいたものだ。そういやって、かつて河童は多くの子供たちを危険な池から遠ざける役割を演じていたのだ。

でも今では、恐れていた河童はもういない。そのかわりに、どのこ公園の池の周囲にも手入れのゆき届いた柵がもうけられている。

そして、子供達はもう河童の存在を忘れてしまった。

長い役割を終えた河童はどこか遠くへ行ってしまった。


前略 河童さん
その節はお世話になりました。
僕らも、すっかりおっさんになりました。
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★「初恋の来た道」 張芸謀(チャン・イーモウ)監督作品 【米中合作】

2005-09-26 | 良質アジア映画

原題:「我的父親母親」  英語タイトル:「The Road Home」  個人的には、英語タイトルがもっとも物語にあっているのではないかと思う。  監督の張芸謀(チャン・イーモウ)は、この作品で「ベルリン国際映画祭金熊賞受賞」。『紅いコーリャン』では「ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞」。『菊豆』と『紅夢』で2度の「アカデミー外国語映画賞ノミネート」。『紅夢』で「ベネツィア映画祭銀獅子賞」。『秋菊の物語』と『あの子を探して』で2度の「ベネツィア映画祭金獅子賞」を受賞。アジアを代表する映画作家・監督。他に『Hero』等が有名。小生がもっとも好きな映画作家の一人。ヒロインのチャン・ツィイーはこの作品で一躍世界的に有名となる。

初恋の来た道- 良質アジア映画
これは<奇跡>のように現れた映画である。
一本の道を通して育まれた一途な恋の物語がまるで寓話のように描かれる。

都会でビジネスマンをしている青年ルオ・ユーシェン(スン・ホンレイ)は、雪道を友人に車で送られ、華北の小さな山村に久しぶりに「帰郷」する。それは父の死の知らせをうけたからだ。その小さな山村の唯一の分教場の教師だった父は、新しい校舎建設のため病をおして金策に奔走し、吹雪の中で力つきたのだった。

父の遺体はまだ町の病院に安置されてたが、母(チャオ・ユエリン)は町から続く「道」に遺体を人が担いで帰る伝統の葬儀をすると言って周囲を困らせる。その様子を見ながら息子は村の伝説となった父母の恋物語を思い出いだす・・・・・

40年前、20歳の青年教師ルオ・チャンユー(チェン・ハオ)は、村人たちが待ち望んでいた教師として、村へと続く一本の道を馬車にのってやってきた。少女チャオ・ディ(チャン・ツィイー)は都会からやってきた若い分教場の教師に恋して、その想いを伝えようとする。彼が食べてくれるのではとの一途な想いで毎日弁当を作り続ける。授業中は、彼の範読する声を聴きつづける。

少女の恋心は、やがて彼のもとへと届くのだが、田舎の山村にも「文革」の波が押し寄せ青年は町へと帰ってゆく。そして、少女は町へと続くその「道」で、来る日も来る日も、季節が移り変わりゆくなかで、手作りの弁当をもって彼を待ち続ける・・・・・・・・・・


やがて葬儀も終わり息子のユーシェンが都会に帰る朝。遠くから聴こえる範読の声。聴き覚えのある教師の声、それに続く子供たちの声。その声に引き寄せられるように、歩いてゆく年老いた母。村人たちもやがて集まってくる。それは、遠い昔少女が学校の外から聴いた父の作った文章だった・・・


礼儀正しく、
暖かい気持ちを忘れず、
人、世に生まれたら志あるべし。
書を読み、字を習い、見識を広める。
字を書き、計算ができること。
どんなことも筆記すること。
今と昔を知り、天と地を知る。
四季は春夏秋冬、天地は東西南北。
どんな出来事も心にとどめよ
目上の人を敬うべし・・・・・・・・・・・・・
 

静かで叙情性を高める音楽。鮮やかな四季折々の森と林、どこまでも続く黄金色の麦畑、丘にのびる一本の道を映し出すあまりにも鮮やかな映像。そしてそこに暮らす素朴な人々と家族の形。それらは豊かになった今でも、我々のDNAのどこかに記憶されている遠い昔日本にもあった<故郷の原風景>。そして、少女の純粋で無垢な心と一途な姿。それはかつて<自分の中>にもあったもの。

そんな忘れかけた何かをもって、この映画は観る人の心の奥へと続く一本の「道」を通って、<奇跡>のように静かにやってくる。そして、ぽろぽろと流れでる涙が止まらない。

観た人にとっては、きっと生涯忘れ得ない映画となることだろう。

 

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★愛知万博閉幕 皆勤賞のおばちゃんに拍手したい

2005-09-25 | 雑感
毎日新聞の9月25日付け記事にこんなのがあった。

***********************
「185日の全期間入場、56歳主婦が“皆勤賞”」
185日の会期の皆勤賞、通算208回の万博入場――。地元では一躍有名人となった愛知県瀬戸市の主婦、山田外美代さん(56)。毎日押しているシヤチハタマークタウンの「9月25日付」のスタンプを押した瞬間、周りの入場者から大きな拍手が起こり、思わず涙がこぼれた。
***********************

ここまで読んで、
「暇な人もいるものだなあ~」と思ったが、続きを読んで考えを改めた。

***********************
この日は知り合いになったベトナムやチュニジア館などのスタッフに、一緒に撮ったプリクラや日本土産をプレゼントして回った。「万博は私にとって学校。教科書なんかでは分からない、いろんな国の人と出会って会話を交わすことで得られる貴重な体験でした。きょうは私の卒業式です」
***********************

自分の目、体験を通じてしか得られないことがいっぱいある。僕にも同じような経験があるので、彼女の言いたいことに共感を覚えた。

日本政府は巨額な資金を投資し今回の万博を開催したが、本当に得られたものは何だろうか?・・・それは、彼女のような人の存在がどのくらい沢山できたのかだ。世界への先端技術をPRするパビリオンだけではない。

人種、宗教、国籍が変わっても人は同じだ。同じようなことに喜び、同じようなことに悲しむ。同じように生まれ、そしていつかは死ぬ。それは案外ささやかな交流を通じて理解することができる。学校だけでは学べない。活字やメディアだけでは真実を知りえない。

知らないということは、ただ単にそれだけの意味をもつのではない。知らないということは偏見を生み、偏見は摩擦や差別へとも繋がる可能性をも含んでいる。知るということ・・・それは自分の経験を通じ、感情と強く繋がってこそ価値をもつ。

一人のささやかな交流が与える力・・・そんなメッセージをこの56歳のおばちゃんは送ってくれたと思う。すごいね、ホントこの人。

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★「ラブレター~パイラン(白蘭)より」 【韓国】

2005-09-23 | 良質アジア映画

ラブレター ~ パイラン(白蘭)より」 - 良質アジア映画

浅田次郎の短編小説「ラブ・レター」を原作とする韓国映画。ガンジェ演ずる俳優は「シュリ」で有名なチェ・ミンシク。ヒロインのパイラン役には香港女優のセシリア・チャン。まだ、今の韓流ブーム前の作品。今日の韓流ブームの中でも、この作品は何故かほとんど語られることがないようだ。それは物語のパイランのように、映画自体もひっそりと存在している。

人は、自分以外の人を通じて自分を振り返るときがある。自分の力だけではどうしようもなく、変えようもなかった日々のくらし・・・それが他の誰かとのほんの僅かな接点で変わってゆくことがある。そして、そんな僅かな接点が積み重なって今の自分があるのかもしれない。そんなことを考えさせられる作品である。

三流やくざでどうしようもない屑のような生活を送るガンジェ(チェ・ミンシク)のもとに、ある日訃報が届く。それはかつて金欲しさのために偽装結婚した中国人女性パイラン「白蘭」(セシリア・チャン)の死の知らせだった。

彼女の顔すらも知らないガンジェだったが、遺体を引き取りに彼女が暮らした海沿いの小さな町を訪れる。

そこにはパイランが、病のもとで書いたガンジェ宛ての一通の手紙が遺されていた。病と闘いながら必至に働いて言葉を覚えていったパイランの最後の手紙。そこにはカンジェへの、素朴で純粋な気持ちが切々と綴られていた。

****************************

カンジェさんへ

この手紙を読んだとしたら、私に会いに来てくれたんですね
ありがとう。

でも、私は・・・
きっと死にます。

短い時間でしたがカンジェさんのやさしさに感謝してます。
私はカンジェさんのことをよく知っています
忘れないために写真をみているうちに、カンジェさんのことを好きになりました
好きになったら、今度は寂しくなりました
一人で過ごすのがとても寂しくなりました
ごめんなさい。

写真の中のあなたはいつも笑ってます
ここの人たちはみんな優しいですが
カンジェさんが一番やさしいです。

カンジェさん
私が死んだら、会いに来てくれますか?
もし許してくれるなら、ひとつお願いがあります。
あなたの妻として死んでもいいですか?
勝手なお願いでごめんなさい。
私のお願いはこれだけです。

カンジェさん
あたなにあげるものが何もなくてごめんなさい

この世界の誰よりも・・・・愛してる
カンジェさん さようなら 

*********************パイラン最後の手紙

中国人孤児のパイランは、韓国の親戚を訪ねたもののすでに海外に移住してしまっていた。途方にくれた彼女は、就労のためにやむを得ずカンジェと偽装結婚する。そして、海沿いの小さな町で職を得ることができた彼女は、結婚書類作成の際に渡された1枚のカンジェの写真を見ながら、彼への感謝の気持ちと想いをもって毎日を生きていた。

一度も逢うこともなかったパイランの遺した手紙を通して、欠陥だらけの自分の人生と自分自身を振り返り変わってゆくカンジェ。そして、孤独で不遇な身でありながらも素朴でけなパイランの姿。そして、ラストシーンではカンジェへの想いを綴った手紙がパイラン(セシリア・チャン)の麗しい声で静かに読み上げられる。また、それを演じるセシリア・チャンは野にひっそりと咲く名も知らぬ花のように可憐な美しさだ。これでもかーというくらい涙腺を直撃し息ができないほど泣かされる。

人はひとつの曇りもない美しさに触れたとき浄化される。それがこの物語の主題であり、パイランのけなげな美しさと、それに触れたカンジェが悟る姿に心打たれる。そしてそれはスクリーンのなかのカンジェではなく、この物語に触れた自分自身もだ。

見終わった後も、その切ないラストシーンの余韻が永遠に心に残りつづける至極の名作のひとつ。

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