「西田幾多郎」と「鳩山由紀夫」を並べて書く事は「言語道断」と言えます。
言語道断:
① あまりひどくて言葉も出ないほどであること。とんでもないこと。もってのほか。
② あまりにも立派で、言葉で言い表しようのない程であること。
① あまりひどくて言葉も出ないほどであること。とんでもないこと。もってのほか。
② あまりにも立派で、言葉で言い表しようのない程であること。
どちらの意味なのかは、さて置いて、「西田哲学」の思索は(Wikipedia)、
禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論から、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、そして、その自覚など、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった。
と書かれています。
純粋経験:
反省を含まず主観・客観が区別される以前の直接経験。
反省を含まず主観・客観が区別される以前の直接経験。
「鳩山氏」はこれを実践している「生き仏」と言え、70歳を超える年齢でも「反省を含まず主観・客観が区別される以前の状態」を維持しています。千葉大学教授の小林正弥は鳩山氏を「まさに科学について、”無知の知”を持っていると言うことができる」として、ソクラテスになぞらえて賞賛したそうです。
「ソクラテスの弁明」を日本語に訳した「無知」な人が誰かは知りませんが、私の記憶では「ソクラテスは、他の(傲慢な)学者とは違い、無知を自覚している。」と云う意味だと解釈しています。決して「無知の知」では無く、「無知の自覚」です。つまり、「鳩山由紀夫は無知の知者」で、「ソクラテスは無知の自覚者」と言え、次元が違います。
自覚:
① 自分自身の立場・状態・能力などをよく知り、わきまえること。
② 自ら迷いを断って悟りを開くこと。
① 自分自身の立場・状態・能力などをよく知り、わきまえること。
② 自ら迷いを断って悟りを開くこと。
「知」とは、知る事であり受動的な「純粋経験」と言えます。「自覚」とは知ったことを咀嚼し判断を加えることで能動的な「倫理経験」になります。
「鳩山氏」は、最後に聞いた文言を「知」とし、反省を加えず直ちに実行します。「鳩山哲学」に思索があるかどうかは判りませんが、「無の境地」から純粋経験によって得た「知」を「自覚」することなく、無意識のうちに道徳的な絶対矛盾的自己同化論へと展開し、「純粋行動」に移ります。
純粋行動:
反省を含まず主観・客観が区別される以前の直接行動。
反省を含まず主観・客観が区別される以前の直接行動。
政治家は、「道徳」ではなく、「倫理」に基づき政策を実行する職業です。国民の「道徳(観)」が一つに纏まっているのなら「倫理」も「法律」も必要なく、政治家も必要ありません。「道徳」は主観であり多種多様なので、国家を形成する為には「反省を含む倫理経験」のある政治家を必要とします。
鳩山氏は、本人の持つカネを当てにしたのではなく「親の財産を利用しただけです。」その遺産で、今度は新党「共和党」を立ち上げるようです。「共和主義」とは(Wikipedia)「君主制の国においては、民主主義に基づき君主の廃位を要求すること、つまり君主制廃止論を意味する場合が大半である。」とあります。恐らく、鳩山氏はこの意味を知らずに、中共での「純粋経験」を「純粋行動」に移す準備をしていると思われます。