おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

音楽による詩の批判-シェーンベルク 弦楽6重奏「浄夜」を聴いて-

2024-08-19 07:03:46 | 日記
ことばが限界を迎えたところから、始まる芸術があるように、思う。

絵画や彫刻、音楽などのなかに、私は、それをみることが多いように思う。

ドイツロマン派最後の光芒であり、無調音楽の始祖であり、19世紀の扉を閉ざして、20世紀音楽の扉を開いた作曲家であるシェーンベルクは、音楽による、デーメルの詩の批評を行っている。

「デーメルの詩『浄夜』のなかの人間が語ることばは、慈愛と包容力に満ち、楽観的に過ぎる。
これほどの楽観的な人間像は、リアリティを持って私たちに迫って来るだろうか」
という疑問を、シェーンベルク持ったのであろう。

25歳になったシェーンベルクは、デーメルの非現実的に思えるほど静謐な赦しの物語を、叙情と激情、愛の苦悩と極限的な赦しに満ちた弦楽6重奏「浄夜」に創り直したのである。

それは、まさにドイツロマン派音楽が腐り落ちる直前の爛熟した音楽であり、その書法はワーグナー、ブラームス、マーラーに影響を受けつつ、ワーグナー的半音階が多用され、ときには、調整を失いかねない場面も現れるが、それによって音楽は、混乱するのではなく、かえって喜びと苦悩の間を揺れ動く情感の世界を描き尽くす効果を得ている。

デーメルの詩「浄夜」が、5部に分かれていることに対応して、シェーンベルクの音楽も5部に分かれてはいるが、詩のように女の心理描写があり、それから男の心理描写がなされているのではない。

女が自己嫌悪と、母親になる喜びとの間で身を引き裂かれ、愛する男に捨てられることを覚悟して、ついに男に告白するとき、それを聞く男の心も、ズタズタに切り裂かれている。

シェーンベルクの書いた激しい苦悩の旋律は、女のものであると同時に、男のものである。

むしろ、この詩と音楽は全般にわたって、男の苦悩を描いているといっても過言ではないように思う。

愛は、自分の内部から湧き上がるというよりも、いずこからともなく襲いかかり、自分の理性の力では決して制御できなくて、理性で決して赦せないことすら赦すということが、愛という経験であり、そこにこの世の絶望も歓喜も同時に存在するのかもしれない。

人間は結局、愛なしには生きることは出来ないが、同時に、愛によって死ぬほどの深手を負う。

そして、愛によって与えられた致命傷すら愛すること、死を愛すること、運命を愛すること、これ以外に愛の苦悩の救済はないのであろう。

しかしながら、果たして、男の言うように
「その見知らぬ子は浄められた」
のだろうか。

このふたりは、今や、冷たい月の光ではなく、柔らかい温かい光の中で歩いて行き、やがて朝を迎え、昼を迎えるだろうが、そのときも、まだ「浄められた」状態なのであろうか。

もしもそうだとするならば、それは、いわゆる単純な喜劇ということになるのではないだろうか。

しかし、人間はひとつの信念を持ち続けることなど、なかなか出来ないし、時間の経過とともに、かつての想いも変質せざるを得ない。

この夜に男が到達した赦しの想いも、いつまでも、は続くわけではないであろう。

やがては自分の子どもではない子どもを疎んじ、女のそのような過去を憎む時もあるだろう。

さまざまな文学が、芸術が、描いてきたように、かつて愛したものが、今度は憎悪をかきたてる原因となることさえあるだろう。

愛とは、本質的には、悲劇的な出来事なのかもしれない。

私たちは、「永遠」ということばを使うが、それは、私たちが「永遠ではない」存在であることを知っているからこそ、「永遠」を夢見るからこそ、使うのであろう。

「永遠」という不可能への挑戦のために、私たちは、瞬間のなかに「永遠」を見出そうとする。

ファウストの
「瞬間よ、止まれ、お前は実に美しい」
という台詞(→まさにドイツロマン派の台詞である)や、
ジークフリートに
「私はかつて永遠でした。
そして、今もまた永遠なのです」

と、語りかけるブリュンヒルデのように、私たちが経験するのは、現在だけである。

過去は、すでに手元にはなく、未来は、本当に訊ねてきてくれるかも、わからない。

すると、はかなくも「永遠」を信じる現在しか、私たちにとって確かなものはないのである。

確かに、この夜に、ふたりの心は浄められ、そしてそれが永遠に続くことを信じきっているようである。

そこに、人間の悲劇もまた存在する。

「永遠」を信じる愛が、やがて喪われることを、分かっているからこそ、この瞬間は、その分だけ、かえって、崇高な美しさを得るのである。

それこそが、この物語を聴く私たちが、看取ろうとする美である。

そして、私たちひとりひとりが抱く愛も、やがては何らかの形で終焉を迎えるという苦さと、それゆえの甘美さに溺れてゆくことをも、この音楽は、教えてくれているのであろうか。

すべての芸術は、音楽は、物語は、つまるところ、ただひとつの愛の物語であり、絶望と歓喜の物語に過ぎないのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

デーメルの詩は新田誠吾先制の和訳を参考に致しました(*^^*)

今日の日記は、全体的に、ちょっと、暗かったかしら......^_^;

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。