1881年、ジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺事件の裁判で、チャールズ・ギトウは、
「愚か者として釈放されるよりは、人間として絞首刑にされる方がましだ」
と、陪審員たちに叫んだ。
この裁判では、多数の医師が、弁護側および検察側の証人として証言し、弁護団はギトウの精神障害を主張していたが、ギトウは、拒否していたのである。
この裁判で、法廷での歪められた診断や診断インフレという今日まで引き継がれる先例が作られたといっても、過言ではない。
そして、現在に至るまで、歪められた診断や診断のインフレは、精神医学と法律の境界線を絶えず脅かし続けているのである。
今でも、一部の国においては、政治的な対立や、経済的な不満や、個人の差異を抑え込むために、刑罰制度が、精神医学を危険なまでに濫用している。
また、先進国(と呼ばれている国)でさえ、目先の面倒な犯罪に対処するために、憲法の原則を危うくするような法制度が作られている。
そのような法制度は、いずれ、さらに進んで、面倒な政治的目標、宗教的信念、性的嗜好を持った人々に対しても、精神医学を用いるようになるのかもしれないように、私は、思うときがある。
以下は、アメリカにおける例であるが、法律の抜け道と連邦最高裁判所の優柔不断とDSM-4の不手際にまつわる話であるが、それだけにとどまらず、法律の抜け道と連邦最高裁判所の優柔不断とDSM-4が組み合わさって、憲法違反と精神医学の甚だしい乱用を生み出した話でもある。
そもそもの始まりは、真っ当な法改正が、予想外の悲惨な結果をもたらしたことであった。
約40年前、アメリカの公民権運動は、同じ罪を犯しても、黒人の方が白人より長い禁固刑を下されることに、当然ながら、関心を向けた。
解決策は、それまでの不確かで、偏見に左右されがちな司法判断に委ねるのではなく、犯罪の種類に応じて、固定された刑を科すことであった。
これには、統一性、予測可能性、そして、公正さを確保するという目的があったのである。
刑務所のベッド数を一定に保ち、それにより経費を抑えるために、各犯罪の固定刑は、それまでの幅広かった量刑の平均に定められた。
レイプ犯の場合、それは7年に定められた。
残忍な連続レイプ犯も、以前なら、25年の刑を引き出すことも出来たのに、最長でもわずか7年の刑しか科されないことになってしまった結果、やはり残酷な常習犯が釈放直後に同じ過ちを犯す例が多発したのである。
人々がこれに憤り、レイプ犯を閉じ込めておくために法律の抜け道が作られた。
20の州と連邦政府で「性的暴力犯(SVP)」に関する法律が成立し、犯人が精神疾患をであると示されれば、精神科の施設に引き続き収容できることになった。
受刑者は刑期の終わりに精神病患者にされ、実態は刑務所に酷似した精神科「病院」に強制的に移される。
強引に収容された性暴力犯のうち「治療」が進められた者はほとんどおらず、その発言はすべて後の審理で不利に扱われた。
そして、「治療」を終えても、釈放される者は皆無であった。
確かに、市民の安全という観点からは、この一生塀の中に入れておくアプローチは見事な解決策であり、危険の恐れのあるレイプ犯が街をうろつかないようにする便利な方法であった。
しかし、これには悪い面もあり、別の種類の危険を生んでいた。
それは、予防拘束と二重処罰の禁止は、苦労の末に勝ち取られた憲法の核心であるのに、SVPに関する法律は、それに真っ向から反しているのである。
「厄介な事件が悪法を作る」
という格言が在るが、何千もの嫌悪すべきレイプ犯が、至極真っ当な理由から閉じ込められているのだとはいえ、その際に、最悪の方法が用いられ、憲法による保護を蝕むという危険な道に踏みこんでしまっているのである。
連邦最高裁判所の優柔不断に話を進めると、最高裁は、非常に曖昧な判決を、僅差で下し、性的暴力犯を「都合よく」精神病院送りにすることは、合憲だとした。
しかし、
「レイプ犯が、精神疾患ゆえに犯行に及んだ場合に限って合法だ」、と釘を刺したのである。
アメリカ合衆国憲法は、どれほど危険性の高い犯罪者に対しても、予防拘束を認めていないが、精神病患者を長期にわたって強制的に治療することは、認めている。
最高裁による、性的暴力犯拘禁の支持は、よくある犯罪性向のためではなく、病気のために性的に危険になっている人間を識別できると見なして、それを完全にアテにしている、というわけである。
精神疾患が存在しなければ、精神病院兼刑務所への強制収容は法の適正手続きに対する明白な違反になり、明白な人権侵害にもなる。
アメリカ合衆国憲法は、もしかするとまだ危険かもしれない、という不安のみに基づいて、釈放間近の受刑者をすべて本人の意志に反して患者にすることを、認めては、いない。
性的暴力犯が合憲かどうかは、精神を病んだ性犯罪者と単なる性犯罪者を区別する妥当な方法があるかどうかにかかっている。
3度の機会がありながら、「どのような診断ならば条件を満たすのか」という決定的な問いに、最高裁は、指針を示そうとしなかったのである。
残念ながら、州の定めた性的暴力犯法も曖昧に過ぎて、役には立っていないようである。
アメリカ精神医学会は、揺るぎない立場を取っている。
それは、DSM-3、DSM-3R、DSM-4、DSM-5において、
「レイプは犯罪であり、精神疾患ではない」
と明言していること、に表れている。
しかし、釈放を待つレイプ犯に法制度が何をするのかというところに、DSM-4の不手際が絡んできてしまう。
DSM-4全体のなかで、最悪とも言える記述は、性に関する障害の項目に集中していた。
後の性暴力犯の審理で、DSM-4が濫用されると、想定していなかったため、不明瞭な言葉づかいとなっていた部分が、精神疾患の定義を拡大して、レイプを含めようという動きへの歯止めにならなかったのである。
結果、DSM-4の意図は曲解され、レイプと精神疾患が結びつけられ、精神科病院への収容は正当化され、レイプの動機になるさまざまな犯罪要素を無視することにも繋がった。
レイプは、医療の対象になり、ご都合主義的の法と市民の安全に適う形で、予防拘禁とレイプ犯の人権剥奪が認められたのである。
レイプを精神疾患と見做すことは、常識に反するし、古くからの法律の前例にも反する。
レイプはつねに犯罪として扱われ、決して病気として扱われなかった。
聖書でもそうであり、ずっと古いハンムラビ法典でもそうであり、これまでに編纂されたあらゆる法典でもそうである。
刑罰は異なる。
しかし、時代が、現代に近づくにつれ、女性の地位が向上し、レイプを金銭的損失としてだけではなく、女性と国家に対する犯罪として扱うようになった。
着目したいのは、いまだかつて、レイプが病気として法的に認められたことはなく、レイプ犯の拘禁が、刑罰ではなく精神医学に基づいたこともない、という事実である。
レイプ犯は、悪人に他ならず、精神病を患っている者はごくまれであり、精神疾患を正当な理由として使わせるべきではないが、レイプを精神科病院に入院させる理由にすべきでもない。
非常に長い刑を言い渡して、街をうろつかせないようにするべきであり、法律の抜け道を作って精神科病院に強制収容すべきではない。
私の懸念は、犯人を不公正に扱えば、もっと広範囲における憲法の地位低下がもたらされ、法の適正手続きの神聖な価値や市民の自由が擁護されなくなるのではないかということと、先に挙げたように、一部の国のように、経済的な不満や政治的な対立、個人の差異を抑え込むために、刑罰制度が精神医学を危険なまでに濫用する未来が訪れてしまうことである。
70年前、オーストリアの作家ローベルト・ムージルは、
「医学の天使が、弁護士の主張に耳を傾けすぎたら、自らの使命をしょっちゅう忘れてしまうだろう。
その時医学の天使は、羽をたたみ、法廷の天使の補欠のように法廷で振る舞うだろう」
と述べている。
ムージルの指摘を、忘れないようにしたいものである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。