20世紀の歴史が特に複雑であるように、20世紀の音楽の歴史もまた複雑であった。
マーラーが切り拓いた道を、シェーンベルク、バルトーク、ショスタコーヴィチといった偉大な作曲家が歩んでいったが、ふたつの世界大戦は、音楽にも暗い影を落とした。
学者のT・アドルノが指摘したように、
「Auschwitz以降、詩を書くことは野蛮である」となってしまったのである。
なぜなら、Auschwitzは理性によって為されてしまった虐殺であり、そのような理性への批判なしに能天気に詩を書くことは、罪とさえ思われたからである。
ここでいう「詩」は、「文化一般」を指しており、そのなかには、当然音楽も含まれる。
つまり、作曲家たちは、もはや思想とは無縁ではいられなくなったのである。
音楽は、何か思想的なメッセージを込めていなくてはならず、人間の理性を告発したり、人類の共生を訴えたり、簡単に言えば、左翼思想を体現したものでなくてはならなくなったのである。
大衆文化の発達と共に、いわゆるクラシック音楽というジャンルは、そのマーケットをジャズやロック、ポップスに次々と奪われていく一方であった。
さらに、「現代音楽」と呼ばれ、何かしらの高級な思想が表現されているような、しかし、不可解なものが大量生産されていったのである。
伝統の破壊こそが新しく、独創的なのだと考えられ、ジョン・ケージは「沈黙の音楽」を提唱し、クセナキスは五線譜に橋の図面を書いた。
しかし、このような途方もない現代音楽の思想的混乱、絶望的混沌の中、新しい動きが出てくるのである。
それは、スティーブ・ライヒやフィリップ・グラスに代表されるミニマリズムである。
60年代から70年代は、さまざまな左翼活動が活発化した時代でもあるが、この頃に、アメリカを席巻した「反近代」の思潮のなかに、ミニマリズムという思想も、位置づけられる。
それは、「余計なものはとことん排除する」という思想であり、シンプルライフなどの運動もミニマリズムの流れのなかにあるのかもしれない。
ミニマリズムの影響は、服飾、建築、絵画、デザインなど広範囲に渡っている。
音楽におけるミニマリズムとは、
「旋律を拒否し、音楽の最小の構成単位、つまり、リズムと和声のみによって音楽を作り上げる」という、理念としては先鋭なものである。
事実、初期のミニマリズム作品の特徴は、単純な和音やリズムを延々と反復することにあった。
本来ならば5分で終わるべき曲を、繰り返しのみで50分に引き延ばすこともあった。
初期のグラスも、例にもれず、延々と繰り返しの続く曲を書いていた。
延々と、何時間も同じ和音、リズムを繰り返しており、この頃の代表作がオペラ「Einstein on the Beach」であり、実質的なデビュー作でもある。
これは、5時間近くも、分散和音を繰り返す禁欲的に過ぎるようなミニマリスティックな作品作品であった。
しかし、グラスは禁欲的なミニマリズム、つまり、延々と同じことを続けるような模範的ミニマリズムの音楽から、段々と音楽表現の幅を広げてゆく。
つまり、いちどは放棄した「旋律」や「ドラマ」へと再び向かってゆくのである。
おそらく、これは、グラスが舞台音楽や映画音楽に深く関わっていたことも影響しているのであろう。
このような「ドラマ性を持ったミニマリズム」や「拡大したミニマリズム」という傾向は、ガンジーを主人公にした「Satyagraha」に結実していると言えるだろう。
勿論、これを堕落と呼ぶ人は、かなりいる。
なぜなら、ドラマ性を取り戻したため、強烈なドライブ感を生み出す明確なリズムと和声が、聴く者を「否応なしに」感情の高ぶりへと駆り立ててゆくからである。
グラスの「Satyagraha」を聴くと、結局、人の心を動かすことが出来るのは、人の心だけなのであり、グラスの音楽は、余計な思想性やメッセージ性を排除し、必要不可欠な最小単位として、人間の、喜びも悲しみもしながら、不断に揺れ動く心を抽出することに成功したのかもしれない、と思う。
また、現代音楽が一般的に、病める魂や絶えず落ち着かない魂のうめき声、不眠症的な思想的緊張、思想というよりはむしろ、曖昧な苦痛による叫び声であるのに対して、グラスの「Satyagraha」の頃からの作品は、思想やイデオロギー、実験音楽、観念的苦痛といった余分な要素を排除し尽くして、知性に侵され過ぎた魂とは無縁の、憂いは感じるが、結局は健康で、無垢な心の輝きを獲得することに成功した、と言えるかもしれない、とも思うのである。
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