三島由紀夫は『天人五衰』のなかでも、身についていない優雅に対して、自分が怒ったり、悲しんだり、苦しんだりしていることを主人公に投影している場面があるように思えることが、私には、ある。
例えば、まだ、黙りがちに透と慶子がクリスマスの食事をする場面で、ナイフやフォークの捌き方一つ一つを途中から教えれた透が慶子をみたとき、
「見れば、強々(こわごわ)しいバロックの銀の大燭台の向こうで、老婦人の編み物を思わせる手つきで、放心したような静けさと丹念周到な指の動きで、慶子が操るナイフとフォークは、およそ子どもの時から、彼女の指先がそのまま成長してそれに化したような、じかにその爪から繋がっている感じがした。」
と、慶子と比べて自らの卑しさを再認識し、怒りを覚える場面を、ふと、思い出した。
あとから入念に教えられたものと、そもそも自ら身につけたものでは、やはり、見え方も伝わり方も違うのであろう。
今朝、起きてみると、総理が、アメリカ議会の上下両院合同会議の演説を終えていた。
報道によると、総理は、この演説をするにあたり、1980年代にレーガン氏のスピーチライターをしていた方を活用していたようである。
前回、結果的にレーガン氏に負けるきっかけとなったカーター氏の演説(「A Crisis of Confidence」)について描いていたので、今回はこのような(?)流れから、レーガン氏の楽観的戦略とそれがもたらしたものについて、考えてみたいと思う。
1980年代(の特に前半)、アメリカはレーガンに魅了されていた。
レーガンは、アメリカ例外主義の善い側面と悪い側面のすべてを、ほぼそのままに体現した人物であった。
レーガンは、質素な生活をする家庭に生まれ、家族がトラブルを抱えることもある中、レーガンはあらゆる困難を乗り越えて、アメリカで最も華やかなふたつの職に就いた。
ひとつは、ハリウッドの映画スター、もうひとつは、ワシントンの政治家である。
彼の大統領としての評価はさまざまであるが、アメリカ国民の間に広がったレーガンの楽観主義と「心配ない、幸せになろう」というメッセージは、皆を激励し、国全体の士気を高める奇跡的な役割を果たした。
レーガンが引き継いだ国は、(相手をあまり見ずに)真実を口にするジミー・カーターの悲観主義がもたらした不安にとらわれていた。
レーガンは、すぐに国民を元気づけはしたが、アメリカは全世界の羨望と尊敬を集める「光り輝く丘の上の町」のまたとない化身だ、と、ジョン・ウィンスロップの願いを日々かなえるかのようなアメリカ像と「丘の上の町」神話をアメリカ国民に吹き込み続けたのである。
レーガンは、幻想を作り上げる達人であったが、それをアピールするのはもっと巧かった。
たぶん、それは、レーガンが、自分が作った神話をかなりの確信を持って信じることが出来ていたからであろう。
レーガンは、映画スターとしてのキャリアに行き詰まると、テレビの西部劇シリーズのホスト役を務め、番組提供会社の石けんを売り込むセールスパーソンとしてのスキルを極めた。
また、ゼネラル・エレクトリック(以下GE)社提供のテレビドラマシリーズでも、長年に渡ってホスト役を務め、
「幸せな生活は考えられ得る限りの家電製品で成り立つ」ことを視聴者に巧く納得させた。
このようにして、レーガンは、現代アメリカの大量消費主義の象徴となり、最も説得力を持ってエネルギーの浪費を推進した人物となったのである。(→ここにもレーガンの現実離れした楽観主義が垣間見える)
1954年から1962年の間、レーガンは、全米の小都市を回り、GE社の139施設で延べ数十万人の従業員に向けて、GE社の福音を広める感動的なスピーチを行った。
このことは、彼個人の政治的傾向を劇的に変え、間もなくアメリカ全体の政治を大きく変えることになるのである。
レーガンは、当初、GE社の広報部門が作り上げた世界モデルを宣伝していた。
しかし、新たな生活観を長く懸命に売り込んでいると、自分を売り込むようにもなってくるものである。
特に、レーガンのような優秀なセールスパーソンならばなおさらであろう。
彼は、相当リベラルな民主党員だったのであるが、最終的にはGE社の信条の中でも極端な右派にまで転じたため、会社では彼を使えなくなっしまった。
レーガンは、明らかにごく普通の映画俳優およびテレビタレントとして熱弁を振るい始めたのであろうが、最終的には、ルーズベルト以来の堪能な政治演説家といっても過言ではない人物になっていたのである。
長年にわたるGE社での実地訓練を通じて「偉大なるコミュニケーター」に変貌したのだ。
レーガンは、アメリカ国民が聴きたいことを把握し、くだけたわかりやすい言い回しを練り上げ、自らの政治的能力を売り込んだ。
レーガンはGE社のセールスパーソンから共和党の新星へと急速に姿を変えた。
これまで身につけてきたものが集約され、集大成としてのかたちを現してきたのである。
そして、1964年、共和党全国大会で有名になった
「A Time For Choosing(選択のとき)」
と題したゴールドウォーターを応援する演説でゴールドウォーターより目立ち、大きな政府への反対や、共産主義に対抗する必要性を人々の心に残るかたちで訴え、
1967年から1975年まではカリフォルニア州知事、
1981年から1989年までアメリカ合衆国大統領を務めたのである。
確かに、その後、アメリカ例外主義の現実離れした楽観的戦略は、それが続いている間は心地よいものであったであろうが、決して長く続くものではなく、アメリカ国民は、レーガンが語った、ウィンスロップの願いを日々かなえるアメリカ像や「光り輝く丘の上の町」のまたとない化身としてのアメリカという夢物語から、予想外に早く、現実に引き戻されたのである。
アメリカ国民はレーガンの大統領としての(特に経済と外交の)失策による重い後遺症に苦しむことになった。
アメリカ例外主義の現実離れした楽観的戦略は、続かなくなったとたん、これまで蓄積された負債すべてを返済しなければならない現実が国民を蝕み始め、いまだに、アメリカ国民はレーガンの影響から逃れられていないようにもみえる。
しかし、スピーチライターはもちろんいても自分の言葉でアメリカ国民を鼓舞したレーガンの実績は、消えるわけではないし、さまざまな経験から、国民の聞きたいことを把握し、くだけたわかりやすい言い回しを自ら練り上げ、自らの政治的能力を売り込んだレーガンは偉大であると思う。
冒頭で、三島について触れたが、三島も自らが描き出す優雅が、本当に優雅なのか、晩年は悩んでいたように、私は、思う。
そうでないのに、そう見せかけることほど、空虚なことは、ないのかもしれない、とも、私は思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
総理、演説お疲れさまです。
総理が、帰国してからどのような言葉を国民にはかけてくれるのでしょうか......^_^;
今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。