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「デューク」の愛称で親しまれた映画俳優のジョン・ウェインは、50年にわたって169本の映画に出演し、競争心のある一匹狼の一面を見事に表現している。
映画の中の彼は常になんだか偉そうで、押しが強く、タフ、自信過剰で人と打ち解けず、我が道を行き、誰の助けも必要としない。
その姿は、アメリカを象徴するヒーローの典型のひとつであった。
しかし、それは、愛される人間の典型ではなかったし、アメリカ人の本当の姿を最も正確に表現しているわけでもなかったようである。
多くのアメリカ人が、毎年クリスマスなどに家族で見たいと思うのは、それとは別の典型であり、もっと親しみやすいアメリカ人像である、そうである。
例えば、ジェームス・スチュアートが出演した映画『素晴らしき哉、人生!』に見られる、公共心にあふれたコミュニティ精神、隣人の思い遣りの素晴らしさ、人々が助け合うことの喜びを高らかに讃えるようなアメリカ人像であり、愛される人間の典型である。
映画『素晴らしき哉、人生!』の幸せな結末は、町中の人々が勝ち取った町全体にとっての勝利であるし、誰にも頼らないひとりの人間の戦いが報われたことではない。
(他国に今さら言われなくとも)実は、アメリカ人こそ、国のみならず個人個人が、映画であれ現実であれ、
「幸せな結末は、誰にも頼らない、ひとり(の人間)の戦いが報われたことではない」
と理解しているようにも思えるのである。
個人主義は、アメリカ人の意識のなかに脈々と生き続けてきたようである。
個人主義は、アメリカの建国神話の中核をなし、近年の政治プロパガンダにおける主要な謳い文句として生き残っている。
実際に、財をなし、新世界で自らの信仰を実践し、旧世界での外圧から自由になった最初の入植者を、アメリカ人は、自由を愛する者として崇拝している。
その象徴となる姿は、ハリウッドの西部劇の孤独なカウボーイにも見てとれる。
自分自身の機転、度胸、銃だけを頼りに、悪者や牙をむく自然と対決する人間である。
そのあとに、 個人主義と登場したのは政治家である。
ハーバート・フーバーは、「強固な個人主義」という言葉をはじめて使った。
これは、1928年の大統領選挙における勝利を後押しし、その後、世界大恐慌の苦難に対しては、彼の消極性を明らかにした言葉でもあった。
フーバーは、
「私たちは強固な個人主義というアメリカの体制と、それとは正反対の父親的保護主義や国家社会主義というヨーロッパ的哲学のいずれかを選択することを迫られた。
後者の考えを受け入れたら、中央集権化を通じて自治は崩壊することになっただろう」
と述べている。
彼は、政府による援助が「アメリカ人の自発性と進取の気性」を損なうと信じていた。
しかし、フーバーは間違っていたようである。
徹底した(共和党の)個人主義は、世界大恐慌に対する経済的・人道的対応としては悪く、本来あるべき状況よりも、ずっと悲惨な状況を招いてしまったのである。
これに対し、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策は、雇用を創出し、経済の回復に貢献し、政府以外に支援を受けるあてのない人々に対する打撃を和らげた。
......ニューディール政策に組み込まれた一般市民のための保護をなくそうとしているトランプは、現代のフーバーなのかもしれない。
誰が大統領になるにせよ、日本人は、未来の日米関係を過大にも過小にも恐れないためにも、アメリカ人の個人主義に関わる歴史を見つめてみる必要があるのであろう。
アメリカ人の生活は、概ね、競争よりも協力を拠り所としていた。
初期の入植者は、非常に固い絆で結ばれた共同体に住んでいた。
なぜなら、集団の外で生きることはほぼ不可能で、皆の承認なしに皆の承認なしにやっていくことは出来なかったからである。
さらに、映画とは違って、昔の西部都市の住民は、多くの大都市の住民より礼儀正しく、協力的で、暴力に訴えることはきわめて少なかった。
例えば、幌馬車隊は、西部を目指す前にさまざまな決まりに同意し、鉱山の町には土地所有の主張や採掘権を定める厳しい規則があった。また、牧場主や自作農民は土地管理の組合を作り、土地の所有権や境界に関するもめ事の解決に当たったのである。
今日、隣人を助ければ、明日は、隣人が自分を助けてくれるという開拓者の伝統があるのである。
また、努力や天性と同じくらい運が人生で大きな役割を果たすこと、分かち合うことは逆境や不運に対する保険となり、集団の中で個々のリスクと負担を分散することだと皆がわかっていたのである。
アメリカ人の祖先が強固な個人主義を掲げてアメリカに上陸し、それぞれが自分だけを頼りにして道を切り拓いたなどというのは、偏った映画を観すぎた人間が作り上げた、根拠のない神話である。
ほとんどの場合、まずひとりが先にアメリカに来て、同じような境遇の人たちと助け合い、いくらか貯蓄して、徐々に兄弟姉妹や両親、近親者を呼び寄せたのである。
だからこそ、皆は共に分かち合う精神を持ち、他者に対する責任感を持っていた。
キケロは「おのおのが自分を愛するように他者を愛するなら、多くの人々はひとつになる」
と表現している
「E Pluribus Unum(多数から成るひとつ)」
は最初のアメリカ合衆国独立記念日である1776年7月4日にアメリカのモットーとなった言葉である。
アメリカ合衆国の独立から、228年後、オバマは、
「リベラルのアメリカ、保守のアメリカというものはない、あるのはアメリカ合衆国だ。
黒人のアメリカ、白人のアメリカ、中南米系のアメリカ、アジア系のアメリカというものはない。あるのはアメリカ合衆国である。
共和党系の赤い州も民主党系の青い州もない。あるのはアメリカ合衆国である」
という
「E Pluribus Unum」と同じくらい心を揺さぶるスローガンを掲げた。
個人主義といえば、文脈は違うが、
「根本的には自力で作り上げるほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです」
ということばをふと思い出した。
本当に大切なことや核心(Core)は、変わらないのかもしれない、と、私は、思った。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今朝は綺麗な晴れで嬉しいです(*^^*)
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。