2016年のアメリカ大統領選挙において、ヒラリー・クリントンは、他の候補に対する大幅なリードと過去の栄光に甘んじていられると考えていたようである。
しかし、地方やラストベルトに住む有権者は、クリントンが自分たちに敬意を抱き、自分たちの苦しい状況を理解しているとは、決して思っていなかった。
政策による本当の解決策は、その政策の対象となる人々と間近に接することから生まれる。
つまり、自分が貢献しようとする有権者から直接、彼ら/彼女らのことを学ばなければ、彼ら/彼女らの信頼を得ることは到底出来ないのである。
クリントンの磨き抜かれたイェール大学仕込みの雄弁術は、結局、大きなハンデとなった。
確かに、クリントンは優れた弁護士で、見事な一貫性とメリハリのある、完璧な構成の演説を行う。
一方、トランプの演説は筋の通らないことも多く、言いたいことは不明瞭でもあった。
彼は、140文字のツイートにおいて最も生き生きと輝いて見えたのである。
しかし、多くの人々はトランプを好み、クリントンに関心を持たなくなった。
なぜならば、トランプは大衆にとって親しみやすく、庶民の言葉で語ったからである。
トランプは、あたかも一個人として市民の一人ひとりに語りかけ、彼ら/彼女らと個人のレベルで気持を通わせ、彼ら/彼女らの痛みや不安、怒りを理解し、確かめているような印象を与えることが出来た。
また、自分こそが状況を正しい方向に導く覚悟と意志、強さを持った者であると人々に思わせることが出来たのである。
一方、クリントンの演説は、メッセージとしては正しかったが、語り口がまずかったのである。
クリントンは、常に堅苦しく、原稿通りに話しているようだった。
それに対してトランプは感情を抑えることなく表に出していた。
クリントンの集会は退屈で聴衆の数も少なかったが、トランプの集会は、親愛の情を深める場となっていた。
トランプが表す感情は、不快な表現によるものが多かったが、常に、トランプにとっても聴衆にとっても、気持をスッキリと解放してくれるように感じられたのである。
一方で、クリントンは、聴衆の心をつかむことに失敗した。
本来、彼女を最も強力に支持する集団であったはずの女性、ラテンアメリカ人、黒人、イスラム教徒、移民、同性愛者の心に訴えることができなかった。
トランプが女性を蔑視したり、ラテンアメリカ人や黒人を絶えず威嚇または非難し、白人至上主義と密接なつながりを持っていたにもかかわらず、クリントンへの彼ら/彼女らの投票率は、オバマの投票率よりずっと低かった。
音楽にたとえるなら、トランプは正確に歌詞を理解していなかったが、天才的に歌が上手く、クリントンは、いつも正確に歌詞を理解していたが、音痴だったのである。
例えば、「アメリカを再び偉大に」「壁を造ろう」「腐敗を一掃する」といったトランプの攻撃的なツイートや挑発的なスローガンは、重要な課題に関する正確で理知的な説明を簡単に回避させてしまったようである。
クリントンは、政策論争で勝ったかもしれないが選挙で負けたのである。
クリントンの選挙運動は有権者の頭脳に訴えようとしたが、トランプの選挙運動は、有権者の本能に訴えかけるように狙いを定めていたのである。
さらに、クリントンがトランプを相当軽蔑していたことは、多くのトランプ支持者に伝わっていた。
2016年の大統領選挙におけるひとつの転機は、クリントンが、トランプの支持者を「嘆かわしい人々の集団」と呼んだことが発覚したときだ、と私は、おもう。
このように、クリントンには、自分の感情を選択して伝える能力が欠けていたため、結果的に、態度を決めかねていて、トランプへの投票に躊躇いのあった有権者の支持を獲得する機会を失ってしまったのである。
では、2016年の大統領選挙でのこうした事実は、
成功する政治家は、人の心と頭脳をうまくつかみ取るということを意味している、と私は思う。
なぜなら、成功する政治家は、人間の本性を理解し、それを利用することが得意だということがよく示されていたからである。
また、2016年の大統領選挙運動においては、度を超した感情が理性的な思考に勝ったと言えるのかもしれない。
......。
民主主義の実験が始まった頃、政治的言説は、啓蒙という格調高い知的な形式で発せられていたのではなかったか。
また、議論には論理が必要とされ、理性に訴えねばならなかったのではないのか。
今回の大統領も、2016年の大統領選挙のように、最後は、皮質(≒頭脳)と扁桃体(≒本能)の戦いで扁桃体が勝ったと評されない選挙戦となると良いのだが。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
なかなか夏風邪の熱が下がらず、体調の良い時間と悪い時間をさまよっています^_^;
皆さんも体調管理には気をつけて下さいね( ^_^)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。