1893年、10月のある日、チャイコフスキーは、暗い気分でテーブルの上にある読みかけの詩集を手に取り、シェークスピアのソネットのなかの
「私は、自分の書いたもので恥をさらした。
つまらぬものを愛すると、君もそうなるだろう」
いう一節にを目に留めてしまい、さらに心を暗くしていた。
チャイコフスキーに何が起こっていたのだろうか。
今回は亡くなる一月前(1893年10月)のチャイコフスキーがおかれていた状況から、考えてみたい。
ペテスブルグにコレラが蔓延していた1893年、10月のある朝、チャイコフスキーは、不機嫌な表情で朝食の席に着いていた。
朝の日差しも、それによって輝く食器も、それによって染みの目立つテーブルクロスも、彼には厭わしかった。
しかし、もっとも、何よりも彼を苛立たせ、不機嫌にさせるのは、彼自身の人生の記憶であることを彼はよくわかっていた。
わかっていたからこそ、彼は、さらに苛立ち、不機嫌になっていったのである。
医者であり、作家でもある友人のチェーホフは、
「ピョートル・イリイチ、君は、ただペシミズムの発作を起こしているだけなのだよ。
君が、第5交響曲で語ったように、私たちは、生きなければならないのだ。
それが、どんなに悲惨であれ、私たちは、生きるべきなのだよ。」
と慰めたこともあった。
しかし、チャイコフスキーは、
「なんと、チェーホフは楽天的なのだろう。
彼は、作曲家が抱える苦痛など、想像したことがないのだ」
と考え、チェーホフの慰めにさえに苛立っていたのである。
チャイコフスキーは、ふと、かつてしたある「賭け」について想い出していた。
その「賭け」とは、冬のヴォルガ川に身を浸して、肺炎になるかどうかを試すというものであった。
同性愛者でもあったチャイコフスキーは、同性愛について思い悩み、
「もしも、神が、ロシア正教の教え通り、ソドムを滅ぼした同性愛を憎む神ならば、必ず自分を肺炎にかからしめ、地獄の業火で身を滅ぼすはずだ」
と考え、このとんでもない賭は行われたのだが、チャイコフスキーは、賭けに勝った。
そして、彼は、その勝利を第4交響曲、第5交響曲で謳いあげたのである。
しかし、今は、想像しか出来ない地獄の業火よりも、日々、醜聞に怯えながらも、欲望に引きずられてしまう人生について、彼は悩んでいた。
しかし、チャイコフスキーは、それらの苦しい記憶も、コテックとの甘い記憶も、全て第6交響曲に書き写したのである。
「全てを、自分の人生の全てを楽譜に表現してしまった」
と感じた彼は、
「一体、どんな標題を、この自分全てと言い得る第6交響曲に与えられるだろうか」
と思案しはじめた。
チャイコフスキーは、第6交響曲のテーマについては、「人生について」としかいないため、副題については諸説あるのだが、敢えて、今回は、チャイコフスキーの弟であるモデストの説明に沿ってみたい。
冒頭のように、暗い気分であったチャイコフスキーは、弟モデストに
「僕の今度の交響曲に標題が必要なのだ。
でも、その意味は絶対に、誰にもわかってはいけないものなのだよ。
『悲劇的』も考えたが、客観的に過ぎる......主題は、もっと主観的な体験に裏打ちされているものだと思うのだが」
と相談した。
「兄さん、言いたいことは、つまり『悲愴』ってことかな」
とモデストは答え、チャイコフスキーは、「悲劇的」よりははるかにその甘く、切ないことばに、標題を決めた。
標題が決まり、チャイコフスキーは、なんだか楽しい気分になった。
彼は、今一度、「賭け」をしてみようと思った。
「もし、私が、まだ神に望まれているのならば、私は、生きるだろう。
そうでないのならば、私は、神の意志により死ぬであろう」
と、チャイコフスキーは快活に笑った。
あれほどの不機嫌が嘘のようである。
モデストは、驚いて彼を見つめた。
「私は、私の欲望以外のすべてを神に委ねてきた。
さあ、今一度、神に問おう。
私は、生きるべきなのか、死ぬべきなのか」
周囲が制止するのも聞かずに、チャイコフスキーは、フィンガーボウルのなかの、井戸から汲み上げられたばかりの煮沸していない生水を飲み干したのである。
しかし、ペテスブルグに蔓延していたコレラにより、1893年11月6日、チャイコフスキーは、亡くなった。
そして、交響曲第6番ロ長調「悲愴」は、チャイコフスキーが完成させた最後の交響曲となってしまったのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
*見出し画像は、コレラを残忍な死神として描いたものです。
Wikipediaの「チャイコフスキーの死」のなかの「ロシアにおけるコレラ」の項より引用いたしました。