今も昔も、多くの人にとって、ダーウィンの実証論的な心理学を受け入れるのは、やはり、難しいようである。
確かに、全生命の受難劇でステージの中央で主役を演じているわけではないと知らされ、
実は、私たち人間が生きることと増えることに苦労する霊長類の一種としての役であることを認めることは、あまり面白くないかもしれない。
また、人間には確りとした自由意志があり、行為すべてを意識がコントロールしているという幻想を失うことも、不愉快に感じる要因かもしれない。
しかし、ダーウィンは、
生命の木の言いようもない複雑な進化に、万物に宿る神のようなものの偉大さを見出してもいたのである。
人間が持っている動物の心を理解することは、
人間の生存に今、必要とされるものに向かうための潜在的な力になる。
急速に変化する人類生存の問題を抱え、機転を利かせた素早い行動が求められる世界で、
「知らぬが仏、知るが煩悩」と私たち人間の裡に在る動物の心を見て見ぬふりをすることは、幸せなことでも、喜ばしいことでもないのである。
パウロ・コエーリョは
「幸福とは、私たちの遺伝システムが、その唯一の役割である種の存続を果たすために、私たちに仕掛けるひとつのトリックにすぎない」
とさえ述べている。
ところで、1838年、ダーウィンはほぼ同時に2つの偉業を成し遂げた。
進化の仕組みを突き止めたのとほぼ同時に、進化が人間の心理に与える影響を発見したのである。
ダーウィンの理論は、素晴らしく明快な理論であり、驚いたことに、彼より前に誰1人として、バラバラのピースをつなぎ合わせた者はいなかったのである。
多様性豊かな生命の姿は、自然選択と性選択の相互作用によってもたらされる。
偶然に発生した、環境に対する適応性と増殖する能力の高い変異体は、優先的に次の世代に進み、やがて優位を占めるようになる。
ダーウィンもドラマのタイトルのように「不適切にもほどがある!」と言われたのかもしれない、いや、言われたであろうし、言われたなどというものではない。
今も昔も、この世界のどこかで、は、袋叩きレベルの扱いを受けているだろう。
(私も、いかにダーウィンの言葉であれども、大まかに理論がわかれば良いとし、今の時代、「不適切にもほどがある!」と評されそうな部分は以下、(中略)とする、ことにする。
また、ダーウィンの理論の解説を真面目にしているだけなので、誤解なきよう......。)
ダーウィンによれば、人間の存在は、神の介入を受けてすでに予定されていたものでも、目的を持ったものでも、導きを受けたものでもないようである。
自然選択が進化を促す仕組みについては、今や多くの人が知るところとなった。
一つの種に存在する変異体の中で最も環境に適応したものが最終的に繁殖の競争に勝ち、その子孫が地球上での小さな居場所を受け継ぐ。
また、彼ら/彼女らが生きられるのは、少なくともさらにうまく環境に適合した変異体に居場所を奪われるまでの間である。
......(中略)......
......要はダーウィンは、環境によく適応した遺伝子が残るということを言いたいらしい。
また、自然選択は一様であることが好まれる。
例えば、ある一つの種に属する鳥はすべて、ほぼ同じ長さの翼を持つ傾向にある。
それは、その鳥の飛び方にちょうど合った長さだからだ。
また、嘴が同じ形をしているのは、その鳥特有の獲物を食べるのに最も効率が良いからである。
一方で、性選択が、ひとつの種の中で、いかに幅広く変化に富んだ違いを生み出しているかについては、あまり知られていない。
このことを説明したのは、ダーウィンが初めてだった。
ダーウィンは、
「性選択の原則を認める者は、神経系が身体の既存の機能の多くを整えるだけではなく、
さまざまな身体構造と、ある種の精神的気質の漸進的発達に間接的な影響を及ぼしてきたという、注目すべき結論に達するだろう。
勇気、好戦性、忍耐力、体力、体格、あらゆる種類の武器、発声および器楽的な音楽器官、明るい体色、装飾的な付属器はすべて、雌雄のどちらか一方が相手を選ぶことによって、愛情や嫉妬の影響を受けることによって、また音や色、形の美しさに魅せられることによって、その相手が間接的に獲得することになったものだ。
そして、そうした心の能力は、明らかに脳の発達に依存している」
と言った。
ダーウィンの洞察は、動物の心が進化の産物であるだけではなく、それが進化の最も重要な原動力のひとつであるという点にある。
人間の精神的特質のある部分は、
環境上の問題に対処する自然選択という戦いを、私たちが競えるようになるために進化した。
その他の精神的な気質は増殖をめぐる戦いの方に役立つもので、
確実に個人が生き残るためと言うより、生きて増えてゆくことを促すものである。
人間が、言語や喜劇、音楽、芸術的能力を進化させてきたのは、ある面では、それらが、贅沢な健全さの指標だったから、であろう。
相反しているように見えるがそうではない。
私は、進化の驚くべき点は、変化に対する愛情と、多様性に対する寛容さだと思うのである。
何兆回も繰り返し進化のサイコロを転がした結果、
シェークスピアやレオナルド・ダ・ビンチが生まれるとともに、ヒトラーのような人間も生まれた。これもまた、事実である。
ある一つの種の生存期間や、その種が最終的に避けられない消滅を迎えるタイミングと原因は、予め厳密に決められたものではなく、むしろきわめて多くの変異の間に生じる複雑で、偶発的な相互影響によって生まれてくるのである。
サイコロの転がり方によって、人類がどのような進化をしてゆくのか、誰にもわからない、から、進化は神秘的なのかもしれない。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
最近、私は、「不適切にもほどがある!」というドラマの存在を知り、昨日少し、見てみたのですが、
「えっ、今、これ言っちゃダメなの!?」
「えっ、今、これやっちゃダメなの!?!?」
と、勉強になってしまいました^_^;
えっ!?(;゜ロ゜)の連続でした。
急に、ダーウィンが、発見してから35年間、「今までの常識に著しく反する」進化論を引き出しにしまい続けた気持ちがわかった気がし始めました。
そして今日のタイトルとなりました^_^;
読んで下さりありがとうございます( ^_^)
今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
私もそのドラマ見ていますよ〜🎵
毎回爆笑し過ぎて、そうそう、そんなこと言ってたわぁと当時のことを思い出します。
日本語もどんどん変化して、これを進化というのか退化かというのかわかりませんが。
何百年かたった日本にまた舞い降りたい✨そんな気持ちにさせるドラマですね(*´-`)
おはようございます。
読んで下さりありがとうございます。
コメントありがとうございます。
面白いドラマですよね( ^_^)
私も母と爆笑しながら見ています!!