「快感を最大限にし、痛みを最小限にする」ことは、最も基本的で古くから存在する、あらゆる行動の動機である。
数十億年前に初めて誕生した生細胞には、感触の良いものには近づき、感触の悪いものを避けるという識別能力があった。
蠕虫やハエなど、数億年前に初めて神経系を進化させた地球上の生物と私たち人間が、いまだに全く同じ神経伝達物質ドーパミンを活用していることは、進化の連続性と保守性を瞭然と裏付けている。
食欲、性欲、他者との交流など、生存によいことの追求を促す仕組みはまさに人間と同じである。
扁桃体は、人間の報酬系にとって重要な役割を果たすが、快感は、脳のあらゆる部位、特に記憶や意思決定の中枢との強い繋がりを形成するほど大切なものなのである。
よい決断を下すには、快楽の誘惑になんとか負けないように努力し、苦痛がもたらす不快感に耐え、各人がどれだけのことを期待できるかについて現実的な観点を持つことが必要であるため、ほぼすべての哲学者と心理学者は、快感と苦痛、さらにそれらと日常の現実との関係に向き合わなければならなかったのである。
古代ギリシャやローマのエピクロス学派の人々は、科学者でもあったので、現実に対する最も反直感的な原理をいくつか考え出している。
彼らの理解に拠れば、まず単一のそれ以上分割出来ない、万物を構成する基本要素である原子が、空間を四方八方に動き回り、時々互いに衝突して、自然界の複雑な物体を形成する。
さらに、私たちは、それぞれ所定の場所、番号、重量、形がある原子が高速で感覚器官に到達することを通じて物事を知覚するというのである。
エピクロス学派の哲学は、あくまで唯物論的であり、神も迷信もユートピア的幻想もなく、私たちに在るのは、1度きりの人生と、たった1つの「快楽を追求し、苦痛を最小限に抑えることによって、人生を精一杯生きる」という目標だけだというのである。
そして、それが可能になるのは、私たちが幻想に惑わされることなく、真正面から現実と向き合う場合だけであるというのだ。
エピクロスが最後に残したことばは、死と生に対する彼の冷静で現実的な評価を表している。
エピクロスは、
「この手紙をあなたに宛てて書いたのは、私にとっての幸せな日であり、人生最後の日でもある。
なぜなら、私は、排尿困難と赤痢に見舞われていて、これ以上の苦痛はないと思うほどつらい。
しかし、哲学について思いを巡らせてきたことすべてを思い出すと心が明るくなり、このような苦しみを埋め合わせてくれる」
と述べたのだ。
なんと心の平静と大きな度量を持っているのだろうか。
......。
ストア派とエピクロス派は、紀元前3世紀の同時期に発展したことから、相対する主要な哲学となった。
一方は、苦痛をなんとか耐えることに重点を置き、他方は快感を生み出すことを重視する。
しかし、これは、些細な違いを強調するナルシシズムによる歳に過ぎず、どちらの哲学も唯物論的に見るところや、世界での最善の振る舞い方に関する考えは、よく似ていたのである。
このふたつの主義のうち、より厳格なストア派は、残酷な運命が放つ石や矢に対する感情的な反応を抑えることの価値を教えた。
「自然に従って生きよ」
つまり、もし、自然が理性に導かれているのならば、私たち人間の本性も完全に理性的になるよう努めるべきではないか、また、苦痛や病、貧困、熱情、幸運にも無頓着であるべきではないか、と考える。
ストア派の人たちならば、今の私たちに、問題解決のために理性を働かせろ、とか、問題解決の過程で直面する苦痛に怯むな、と檄を飛ばしてくれそうである。
......。
唯物論に基づいた倫理学に、次に大きく貢献したのは、2世紀ほど前に登場したベンサムであろう。
啓蒙活動に繋がる古代学問の復活に感化されたベンサムは、個人の道徳的判断と社会的決断に関する実用的な指針として、功利主義に則った計算法を編み出した。
ベンサムによれば、快楽と苦痛は、その強度、持続時間、予測可能性、直接性、危険性、他者にも広がる一般性に従って、可能な限り正確に計測することが出来る。
さらに、これらの数値を個人ごとに合計し、さらにそれを合計して、社会全体の数値とすることが出来る。
公共政策の良し悪しは、抽象的な原則ではなく、むしろ政策がもたらす実際の結果に即して判断される。
つまり、「最大多数に対して最大の善を、現在にも将来にももたらしているか」という観点で考えるのである。
功利主義は、欠点はあるものの、必要不可欠なものでもある。
その欠点とは、価値判断から離れて功利を計測することが出来ないという点である。
例えば、ヒトラーは、人類に対する極めて残虐な行為をはたらく一方で、「自分はドイツのために最大の善を促進する功利主義者である」と主張できてしまうのである。
また、功利主義が必要とされる理由は、個人の行動や公共政策にとって、これ以上よい指針がないからでも、あるのだ。
生存する上で、最も本質的な価値は何か、
その達成度合を計測する最善の方法は何か、
未来の長きにわたって人類の快感を守り、苦痛を最小限に抑える責任を考慮しつつ世界の快感を増やし、苦痛を減らず可能性が最も高い政策は何なのか、
といった課題に対して、自分勝手で、気難しく、面倒な私たち人類が協力して解決策を見い出せるかどうかが、まだ答の出ていない重大な疑問である。
......。
フロイトは、私たちに過小評価されがちであることにより、彼が生きている間に過大評価されたツケを払っているようである。
神経病理学と進化論に対する確かな知見を持っていたフロイトは、人間の精神が、動物の祖先の脳を基本とし、段階的に層をなす人間脳の構造を反映しているものであると直感したのである。
無意識の脳の働きのほとんどは、原始的な本能を満たすように機能し、即座の満足を得ようとする「快感原則」に従う。
つまり、これは、外界の要請や機会に対して、満足を遅らせ、合理的な理由付けを行い、適切に対応する能力である。
フロイトは、
「このようにして教育された自我は『理性的』になり、もはや自らを快感原則に支配させることなく、現実原則に従う。
実は、現実原則も快感を求めてはいるが、快感は現実を考慮した上で確保され、延期されることもあれば、軽減されることもある」と述べている。
乳児は純粋に快感のみに従い生きているが、その精神は、健全な現実検討の経験とともに、快感原則を抑える能力が向上するに従って成熟する。
フロイトは、のちのカーネマンのシステム1とシステム2という思考モードに先駆けてこのような区別をしていたのである。
社会が抱く幻想や抱える問題は快感原則の具現化かもしれない。
その際、現実に向き合わず、誠実ささえも打ち捨てている、私たちの姿があるだろう。
フロイトは、セラピーの目標について
「イド(本能的欲求)在るところに、自我を在らしめよ」
と述べた。
同様に、私たちの社会の目標は、合理的な長期計画を適用し、現実世界の問題に対処することであって、短期の放縦な快感を助長する否認や願望的思考に従うことであってはならないはずである。
私たちは、社会として成長し、私たちの未来の難題に対して、確りと、現実原則を適用する必要があるとき、ところに、もう、すでに来ているのかもしれない。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。